18 筋肉の気持ち3
18 筋肉の気持ち3
ニコラスの脳内会話はとどまるところを知らなかった。「ちょっと待ってくださってありがとうございます。ちょっと待ってくださいといってちょっと待ってくださって本当にありがとうございますよ。感謝いたしておりますよ。それでさっそくなんですがね、本題に戻りたいと思うんですが、本題に戻りたいと思うんですが、正直に申し上げてやはり、一番おかしなことをやっているのは誰かということではなくて、一番初めにおかしなことをやり始めたのは誰かという問題になりますとですね、はい、これはやはり自分だろうと。それはやっぱり自分なのではないのかな、と思う次第なのであります。別に筋肉トレーニングをすること自体は、これはそこまで変なことではないと思うんです。そんなものは個人で好きなだけ勝手にやればいいと思っていますし、実際にやり始めるのに必要なものは本人のやる気ですからね。本人のやる気さえあれば、これはもう筋肉トレーニングというものは開始されるわけなのであります。まあもちろんその強度といいますかね、その内容のレベルの差みたいなものは、本人のやる気だけでは補えない部分もありますけれどもね、でも問題はそこではないんです。今回私が問題にしたいのは、あのときあの状況で、自分の筋肉トレーニングを、自分が満足できるレベルでやりたいがために、職場に対して勤務時間の短縮を申し出てしまったこと――これにつきると思うんですよ。ええ、やっぱりこれが諸悪の根源っていいますかね、いってみれば今日の職場の混乱のもとになっているんだと思うんですよ。こういうことを言い出す従業員ってほかにいなかったですからね。急に自分のためだけを思って、こういうことを職場に主張する人間っていなかったんですよ。だから本当のことを言いますとね、今日のようなみんなの反応っていうか、今日のようなみんなの怒りみたいな気持ちはよくわかるんです。逆に私がみんなの立場で、みんなの中のある一人が私の立場にあったら、もしかすると私だって実にスムーズに鶏肉コールに参加していたかもわかりませんからね。っていうか多分参加していたでしょうね。むしろ先陣を切ってこの鶏肉野郎め! なんて言っていたかもしれませんよ。私は最近思うんです。いや嘘じゃないです。今日のことがあったからということではなくて、最近本当に思い悩むところがあって、それはやっぱり自分の筋トレのことなんです。自分と筋トレとの関係のことなんです。どうして俺は筋トレなんてものをやっているんだろうなって。まあもちろんそれにはわけがあったのでありまして、それはもう何度も説明してきているものだから割愛させてもらうことにしますけれども、最近私の胸を締め付けているのは、ここ10か月ほど真剣に、そして平和にトレーニングに打ち込んできて、私はこのままどこまでたどり着いてしまうのだろうか、という不安なんです。何て言いますかね、この10か月間は、確かに真剣に、そして自分のことだけを考えて過ごせた時間だったんです。真面目にトレーニングに励んで、それなりの結果を得ることもできたと思います。しかしそうなってみたあとで、ふと思うんです。それで何だったっけ? ってね。ええまあ無責任ですよ。これがかなり無責任な発言だってことは、私も重々承知しているんです。ですがそのようなことを自分自身に問い掛けてみなければやっていられないんです。どうして俺は筋肉トレーニングをやっているんだ? 10か月も真剣に取り組んできて、それで俺は結局何がしたいんだってね。今日みんなに取り囲まれてみて、確かにその場では私も反論して気持ちがいら立っていたように思いますが、しかし今こうして駅のベンチに静かに座っていると、もうそんな気持はどこへやら、むしろあのときのみんなの気持ちがわかって、急に寂しくなってくるんです。私が私の間違いを発見して認めた、というほどのことではないんです。自分のやってきたことはあきらかな間違いであったと、人間として、社会人としてすべきことではなかったと――そのような反省をしているというわけではないんです。ただ何と言いますか、本当におかしなのはまわりのみんななのではなくて、私自身、私一人なのではないかな、という気持ちになってきているのでございます」
ニコラスの中にみるみるうちに不安な気持ちが広がってきた。彼は急に目の前に現れた、自分が筋肉トレーニングに興じていことについて味方をしてくれるらしい、今まで全然接点のなかった青年、ヴィック・ブリザードのとどまることを知らない話にちゃんと耳を傾けながらも、しかしその一方では自らの頭の中で自らとの会話を開始してしまい、そちらも収拾がつかなくなってしまっていた。ニコラスはヴィックの話をにこやかに聞いていたが、もはや彼は自分がこれからどうすればいいのかわからなくなった。一応の信念を持って筋肉トレーニングは始めたはずなのである。どうして筋肉トレーニングを始めることになったのかについては、それはもうさほど重要でないように思われた(なぜならもうすでに彼は筋肉トレーニングを始めてしまったから)が、それを続ける理由が今彼の中でうまく見つからないのである。それでもってして、彼の気持ちは非常にネガティブな方向に動き始める。続ける理由を探したいのだけれども、それが見つからないから、今度は筋肉トレーニングの辞める理由、みたいなものを探し始める。話がどんどんと過去へとさかのぼって行き、最終的には、そもそも自分が筋肉トレーニングを、どのような理由からであっても始めてしまったからみんなに迷惑をかけることになった、他人に迷惑をかけるのがいいとか悪いとかそういう話でなくなったとしても、誰が一番変わった行為を初めにしたのか、ということになれば、それは間違いなく俺だろう、平和な日常にさざ波を立てたのはほかの誰でもない、自分だ、という意見に支配されるに至った。ところがニコラスとしては、そのような意見を持ったからといって、それでじゃあ事態はどうなっていくんでしょう、いやいくべきなんでしょう、みたいなことも思い始めていた。そうなってくると、もはや何を考えても、それで? それで結局なんなんだ? 何になる? とほぼ無限の問いかけが自分自身を襲うようになる。自分で自分の首を好んで絞めているようなものだから、他人からみれば滑稽な様子かもしれないが、本人にとっては大変切実な問題である。思考が何だか前に、確実に前には進んでいないような気になって気がめいる。考えることが意図せずに堂々巡りのような状態になってしまって、休みたいのに休むことが出来ない。自分が今何をしているのかわからなくなってくる。隣の奴は誰だ。誰だこのずっと微笑みながら自分に語りかけてくるさわやかな青年は! 俺は一体何がしたかったんだ、この10か月という長い間、俺は果たして何を求めていたんだろう、という気持ちになってくる。これではいけない、とニコラスも思わないでもなかった。だが彼にはどうすることもできないように思われた。現状を自らの力で打破するためには、気力も体力も、それから新しい事実を発見するための時間などもないようだった。そしてその悩ましい間にも、ヴィックの話が恐ろしいスピードと量で続いた。「きっとみんな本当はニコラスさんみたいに筋トレがしたいんだと思いますよ。ええきっとそれはそうですよ。絶対にみんな心の中ではそう思っているんです。誰が働くことを好んでしていると思いますか! 結局みんな嫌なんですよ。あそこの人たちは、みんなずっと長い時間働いていて、まるで長い時間会社にいることが正しいこと、唯一の評価されるポイント、みたいに思っているみたいなんですがね、ニコラスさんならわかるでしょう、そんなことないって! そんなことを評価されたって自分はちっともうれしがらないって! まあみんながみんな筋トレをしたいと思っているのかどうかはわかりませんがね、しかし少なくともみんな個人的な理由から日々の労働時間の短縮を上司に願い出て、かつそれが快く承諾されることになったらどんなにうれしいことだろう、みたいなことは思っているはずですよ。そのようなことを絶対にあの人たちは思っているはずですよ。ニコラスさんが先に成し遂げちゃったんですよ。そのようなことを、会社に認めさせたニコラスさんはすごいって話です。だからみんなからその分今回のように嫉妬されてしまっているわけなんですけれどもね、でもニコラスさんが今どんな気持ちでそのベンチにずっと座っていらっしゃるのか僕にはわかりますよ。あなたが今じっと黙って考えていることって僕にはわかるんです。不思議ですか? でもつまりこういうことでしょう? クソくらえですよね。今更他人がどんなことを言ってきても知ったことじゃない、俺はどうせ自分の好きなようにしかやらないんだから、それを邪魔する奴らはみんなクソくらえ――あなたならきっとこのようなことを思って全然みんなからのダメージなんて受けていないことなんでしょうね。僕もそう思いますよ。今日あなたを取り囲んできた人たちはみんな社会の負け犬にすぎないんだってね」




