16 筋肉の気持ち1
16 筋肉の気持ち1
わけもわからないまま、そして何だか愕然とした気持ちでニコラスはその日のオフィスを後にした。そして本意ではなかったのだが、いつもの駅のホームにあったベンチでぐったりと座り込んでしまった。つい今しがた自分の受けた仕打ちが信じられなかった。ああそうだあれは確かに仕打ちだった。仕打ちといってもいいものだった。あんなの集団のイジメじゃないか。もはやイジメといってもいいだろう。だって大の大人たちがあんなにもみんなで一緒になって俺の筋トレのことを責めてくる。俺がそんなに悪いことをしたっていうのかよ。そんな鶏肉鶏肉とはやし立てられなければならないほどのことをしたっていうのか? そりゃ冷静になって考えてみれば、頭のおかしな行為をしているのは俺ではなくて彼らであるということはわかっている。筋肉トレーニングに励むことは悪いことではないし、またもし仮にみんなに黙って自分だけ抜け駆けのような感じでそれに励んでいたことが悪かったとしても、俺はやはりそうなったとしてもこのようなことを言ってやりたい。「いや働き過ぎなのはお前らなんだよ。俺たちはこの会社でずっと働きすぎなんだよ。筋トレの一つや二つくらい自由にできない人生って何なんだ。そんなものにどうやって価値を見出せっていうんだよ。目を覚ませ。さあみんなこそ目を覚ますんだ!」でも俺にはみんなの心を変えることはできなかった。彼らの胸にショックを与えることはできなかったんだ。俺はこのような主張をもう彼らにした。彼らには訴えかけたのだ。だが彼らは鶏肉コールをやめなかった。そればかりか俺のセリフが終わると、もっと大きな声で彼らは連動さえした。そんなに鶏肉コールのすることが楽しいっていうのか。そんなに俺に向かって鶏肉鶏肉と言っていたいのか。だったらそうすればいいじゃないか! 好きなだけいつまでもそうしていろよ。でも俺の心は、いつかその謎の、無駄だってことはわかっているのにいつまでも鳴りやみそうにない鶏肉コールに痛みを覚えるようになっていた。だんだんと限界がやってきて、俺はオフィスを飛び出さざるを得なくなってしまった。物事は何も解決していない。何にもよくなったりしていないはずなんだが、だが俺は彼らのそのようなコールに本当に参ってしまって、それで彼らへの説得を放棄してオフィスを出てきてしまった。ああこれからどうしよう。また明日もあのオフィスに顔を出さなきゃいけないってわけなのか。あのオフィスにはもう俺の味方はいないだろう。アギー。アギーだって俺の味方にはなってくれないことだろうな。そういえばそもそもあいつが俺への不満を打ち明けてきたんだよ。あいつが俺への不満を具体的に言ってきたから、だからそれにつられてみんなも俺への不満を爆発させてきたんだ。俺はもうあのオフィスの人間たちからは求められていないってわけなのか。いなくなって清々されるような人間になってしまっているというのか。辞めるか……? もうオフィスに居場所がないんだったら、あのオフィスに通い続けたって何もいいことの起こるはずはない。むしろみんなとの軋轢を深め、みんなのモチベーションを下げて、自分の仕事もままならなくなるはずだ。そんなところには確かに俺だってもう行きたいとは思わないね。しかしそうするとこれからの生活はどうする? これからの生活費はどうするってわけなんだ。もうあのオフィスでは限界だと自分が感じているのであれば、それに従うのもいいだろう。でもやっぱりそうすると今後の安定した収入がなくなるわけだから、生活費もどこから出せばいいのか不透明になる。もっと考えてみよう。そりゃ仕事を辞めたからといって、その日からすぐに生活に困るというわけではない。俺だってそれなりの蓄えはしているさ。それなりの蓄えはちゃんとしていますとも! そんなのずっと続くわけがないだろう! そんなの続いたって少しの期間でしかないはずだ。すぐに次の仕事を見つけなきゃ、俺はこの街で住むところも失ってしまうことになるぞ。それでもいいのか? え、俺は本当にそんなことになってしまってでも今の会社を辞めなければならないと考えているのかな? 筋肉は? 会社を辞めてしまえば生活費のこともあるけれども、生活費のことを考えなくちゃならなくなるくらいなんだから、もちろん筋トレのことなんて考える余裕なんてそもそもなくなってしまうんだろうな。嫌だ。嫌なんだな? だったら俺はこの問題について、もっともっと徹底的に冷静になって考えてみるべきなんだろう。
そうしてニコラスがやはり不本意ながらも、いつまでも駅のホームのベンチに腰かけて静かにしていると、急に横のスペースに座ってきて声をかけてくる者があった。若い男の声で、声の聞こえてきた方を振り向いてみると、そこには確かに二十代前半くらいに見える、若若とした、そしてさわやかな印象を誰にでもすばやく与えることを得意にしていそうな青年がいた。彼は言ったのだった。「ニコラスさんですよね? ニコラス・アディソンさん」
「あなたは?」
ニコラスは言った。確かに自分の名前はニコラス・アディソンで間違いなかった。彼はそれを言い当てたのである。それでどうして言い当てたのか? 彼は俺を探していたというのだろうか。では一体何の用だ。この俺に声をかけて、俺から何かを奪い取ろうとでもいうのかな? 俺はニコラス・アディソンですよ!
「私はあなたの同じ会社で働いている、後輩のヴィックです。ヴィック・ブリザードというものです」男は言った。
「ヴィック・ブリザードだって?」ニコラスはそう言った後、もう一度青年の姿かたちをまじまじと眺めてみた。ニコラスはそもそもヴィック・ブリザードという名前の男を知らないのだった。だから彼のことを今いくら一生懸命にまじまじと眺めてみたところで、あ、なるほど君があの噂のヴィック・ブリザードか、初めまして、と合点の行くことは永遠にないように思われた。だが名前を正式に名乗られたからには、一度その名前を自分の頭の中で反芻してみて、自分の中にそのようなデータがなかったかどうかを調べてみる必要がある。明らかにないと判明している場合は、いくら今までの記憶をすぐにたどってみることが人間の性だからといっても、そのような手間はできるだけ省いた方がいい。
ニコラスは言った。「知らないな、ヴィック・ブリザード? 同じ会社で働いている俺の後輩だって? そんな名前は聞いたこともないよ」
「それはそうでしょう」ヴィックと名乗る男は言った。「私もこうしてあなたにお目にかかるのは初めてですからね。ですから初めまして! 私はヴィック・ブリザードというものです」
「ええ、初めまして」ニコラスは言った。「私はニコラスといいます。ニコラス・アディソンです。もっとも、あなたはもうすでに私のことをご存じのようですがね」
「その通りなのです」ヴィックは言った。「私はあなたのことを知っているのです。あなたがあなたであるということを知っていたからこそ、今日私はあなたにこうしてお声掛けをすることにしたんですよ」
「それで何か用なんですかな?」
ニコラスは言った。ヴィックと名乗る男が、ニコラスに何か用事があって声をかけてきているのは火を見るよりもあきらかなことだった。なぜなら思い出してみれば、つい先ほど彼はこちらが名乗る前にこちらの名前を言い当ててきたのだし、また同じ会社で働いている、などという情報もそこに盛り込んできたのである。よってやはり明らかに彼はこちらの正体を知っていて、かつその正体に用事があるからこそ近づいてきたのだろう。だったらその用事とは一体何なのだ。解決してやる。その用事が果たして何なのかということを必ず俺は解いてみせるぞ。
「今日のあのみんなからの仕打ちはひどいものでしたね」ヴィックは静かに語り始めた。「まさかみんながあんなふうに団結するものだとは思いませんでしたよ。普段はとてもおとなしい人たちなのに、ああいうときにはみんなあんな風になってしまうんですね。何と言ったらいいのやら。本当に何と言ったらいいのやらね! いや正直に申し上げますとね、私もあの場にいたのです。今日、私もあの場にたまたま一緒にいたんですよ。普段はあなた方とは部署が違うので、いつもあの場にいるというわけではないのですがね。しかし今日はたまたまだったんです。たまたまあなたがみんなに糾弾されているあの場に出くわしてしまったのです。そしてその一部始終を目撃することになったんです。もし私があなたの立場だったら、もう誰のことも信じられないでしょうね。あんなにみんなからはやし立てられたら、もうあの会社での仕事などどうでもよくなってしまうでしょう。私はあとからわけをきいたんです。あの明るい茶色い髪の毛の女性に――確かアギーさんとおっしゃる方だったかな? あの人になぜあなたがあそこまでみんなに糾弾されることになったのかということを教えてもらったんですよ。するとどうでしょう、あなたがみんなからあんな仕打ちを受けた理由は、何やら個人的な筋肉トレーニングのための時間創出にあるらしいじゃないですか」
個人的な筋肉トレーニングのための時間創出って……ニコラスはヴィックの話を聞きながらも、いやそれで君は今私に何の用事が? みたいなことをずっと思っていた。彼の思惑がまったくわからなかった。




