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15 全員の筋肉

15 全員の筋肉


 ニコラスは思わぬところで同僚のアギー・マーシャルと口論になってしまった。その日ニコラスは、いつも通りに仕事終えて、ジムへと出発しようかというところだった。マギーがすっと目の前に現れて、それで自身の結婚というめでたい話から、急にニコラスが個人的な理由からジムに通っている点を非難し始めたのである。情緒不安定か。ニコラスは混乱した。まず自分が個人的にジムに通っている件について、どうして同僚の女からああでもないこうでもないと言われないといけないのか理解できなかったし、また何といっても不思議だったのが、それを今更いうかね? という点だった。そうなのである。本当にそれってなんで今更言いがかりをつけてくるのか。よしんば個人的な理由でジムへと通うことが社会人として邪悪なことだったとして、でもそれってそれを始めたのはもう10か月も前のことだよ? 10か月も前のこととなれば、もはや何度季節が変わったことかわからない。ほとんど1年も前の話であるといってもいいくらいだ。どうしてそんな前に起きた出来事を彼女は今になって蒸し返してくるのか。今彼女が真の理由を知ったから、というのが妥当なところかもしれない。もしかすると彼女は、自分の勤務時間の減った理由を、もっと別なことであろうと考えてそれで納得していた、ところが今になってほかのところからきいた話によると、どうやら彼はものすごく個人的な理由からジムに通い始めたのであり、これではいけない、だって彼が勤務時間を減らしたことによってできた穴を必死に埋めてきた私たち同僚はどうやったら救われるっていうの、彼のわがままのために自分たちのプライベートな時間を削っていたかと思うと吐き気がする、最悪、気分は最悪、みたいな思考に陥っているのかもしれない。でもそんなのって言いがかりだ。俺は知らない。だいたい先にも述べたように、みんな必死になってこの会社で働いて働いて働いているけれども、もっと冷静になれ。広い視野を持とうと試みろ。そりゃ俺がまったく残業をしないとか、普通の人の半分くらいしか働かない怠け者だというのなら、みんなの仕事の負担になっていることを謝る。だがしかしそうなのか? 俺は言いたい、そうなのか? 現実はそのようになっているというのだろうか? いやなってなどいないさ! 現実は、俺みたいに仕事の後にジムに通っている人間でも働き過ぎなくらいだ。ここのみんなは本当にはっきりいって働きすぎなんだよ。俺の労働時間が短縮されたことによってみんなにしわ寄せがいっているだと? そんなの無視しろ。無視してください! みんな本当に冷静になれよ。この世の中には断ってもいい仕事だってあるはずだ。そんなの俺のジムがうらやましいのなら、はっきりとそういって、そしてお前らもジムか、それに相当するところに通い始めればいいだろうが!


 ニコラスとアギーの口論は収まるところを知らなかった。やがてそれを近くで見ていた人たちも彼らを囲むように輪になって参戦してきた。会話の最中にヤジのようなものが飛んでくる。ニコラスの話し相手がアギーから、いつのまにか別の男性社員にとってかわっているようなこともあった。ある一人の男性社員が言う。「だからなんで俺たちが、お前のそのジムに通っているあいだも仕事をしなくちゃならないんだよ。それも本来ならお前がやるべきことを俺たちが家に帰る時間を削ってまで仕事をしているんだぞ! 今までずっとそうだった。でも真面目なお前のことだから、きっと何か大変な理由があるんだろうと思っていた。親御さんが危ない状態にあるとか、それか自分自身がもはや重い病気にかかっているとかな! だがアギーからきいたぞ。俺たちはアギーからきいたんだ。お前最近ジムに通っているらしいじゃないか! 自分の筋肉を鍛えたいがために、わざわざ会費とかを払って大きなジムに通っているらしいな! このペテン師野郎め。お前はここのみんなをいいように欺いた詐欺師だ。筋肉詐欺師だ。そんなの自分の筋肉の強化に努めたいっていうのかよ。そんなに自分の筋肉の成長が大事か! お前が一体どんな風に毎日筋肉トレーニングとかをしているのかは知らないがな、食事とかにも気を付けているんだろうな! もちろん筋肉トレーニングをわざわざジムへ行ってやるような奴だから、そりゃ普段の食生活から筋肉を意識したものにしているんだろう。お前は鶏ささみ野郎だ。鶏ささみ野郎! 鶏の胸肉!」

 鶏ささみ野郎って何なんだ、おまけに鶏の胸肉って……鶏の胸肉ってそれ何の悪口にもなっていないじゃないか! ニコラスは男の話をきいてすぐにこのようなことを思い、彼に対してすぐさま反撃の一手を打ってやらねば気がすまないぞ、と思った。だがそのとき彼の頭の中にもう一人の自分ともいうべき者から静かに声をかけられた。「いやニコラスここは冷静なるんだ、冷静になるんだニコラス! 今ここで感情のままに怒りをあらわにしたら、もうお前にあとはない。お前がいくら正しかろうと、間違ったことを一切していなかろうと、そんなことはもう何の力にもなってくれない。お前はきっとこの会社での居場所を失って、それでついに会社を去らなければならなくなってしまうだろう。会社勤めをしているからこその日々のジム通いだ。わかるか? もしお前がこの会社をやめて、それで自由な時間がたくさんできたから、これで思う存分にジムに通えるぞと心を弾ませることになったとしたら、お前は大ばか者だ。お前はものすごいレベルの大ばか者だよ。筋肉トレーニングは無料じゃないのだ。時間があればあるほどそれだけに集中することは不可能なのだ。お前はサラリーマンだ。サラリーマンで、毎月の安定した収入があるからジムに通うことが出来ているし、自分の満足の行くトレーニングができているんだ。もしお前が仕事を失って、それで毎月の収入が途絶えたとしよう。もはやお前にジムに通い続けるお金などないことだろう。そりゃ少しの間くらいだったら、蓄えもそれなりにあるだろうから、ジムに通うことも可能かもしれん。だがそのような期間もすぐに過ぎ去ってしまう。お前が仕事を辞めて、でもすぐに再就職が決まる、ということになれば話は別だが、そんなことが可能なのかな? 今ここで自分の怒りを爆発させて、それで周りのみんなからの理解が得られなかったとしよう。お前は徐々にこの会社での居場所を失って、それで結局は仕事を辞めなければならなくなる。そのときお前はすぐに社会に復帰できる手立てを持っているとでもいうのか。いや俺はお前の分身だからわかる。お前にはそんな計画などありはしない。そんなあてなどどこにもないんだ! さあだから俺の声に恐怖するんだ。俺の声に恐怖し、そして冷静になって今目の前に迫っている事態をどうやって収めればいいのか考えるんだ。お前が切り開くんだ。お前が今自分の置かれている状況というものを把握して、しっかりとそれを乗り越えろ」

 ニコラスはしかし頭の中のもう一人の自分ともいうべき人物にそう語られたものの、実際にどのようにことを運べばいいのかわからなかった。今自分はほとんど絶体絶命といってもいいような状況に置かれている。職場のみんなから自分一人だけ先に仕事を終えて帰ったあとで筋肉トレーニングに興じていたことを指摘され、かつそれがほとんど犯罪級に悪意のあることと非難されている。事実がどうであれ、もはや燃え上がってしまった彼らの気持ちを鎮静化させることは容易ではない。なぜなら10か月分もの余計な労働が彼らの記憶に新しいからである。彼らは実際にそのあいだずっと苦しかったことを今でも鮮明に思い出すことができるのである。先月も苦しかった、昨日も苦しかった。一昨日もだ! というような感じで。

 オフィスではいつの間にか鶏の胸肉コールのようなものが起こっていた。ニコラスとアギーを取り囲んで、大の大人たちが一斉にとーりにく、とーりにく、とはやし立てまくっているのである。ニコラスはもう限界だと思った。鶏ささみ野郎はやはり百歩譲ってまだ悪口として成立しているとしても、やはり鶏の胸肉はただのスーパーなどでパッケージングされている商品の名前なんじゃないのか! それか生物的に鳥を見たときに発見される彼らの胸の筋肉の総称だ!

 ニコラスは自分たちを取り囲んでいるほかの従業員たちに向かって言った。「お前らはさしずめ豚のミンチ野郎だ。豚のミンチ野郎どもだよ。そんなにおもしろいのか。そんなに一人の人間を取り囲んで謎の言葉ではやし立てるのがおもしろいのか。だったら好きにしろ。好きなだけ俺のことを鶏の胸肉と呼べばいいだろうが。だが一つだけ言っておくぞ。一言だけ言っておくことにする。いくら俺を鶏の胸肉とはやし立てたところで、問題の根本的な解決にはなっていないし、それどころかそうやって他人をはやし立てる行為は、そこへ一歩も近づいて行かない行為だ! わかるか、このことがまったくどれだけ恐ろしいことかお前らには本当にわかるっていうのかよ」

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