14 隠し事
14 隠し事
オフィスでの一仕事を終え、さあ今日もこれからジムに行って思う存分に筋肉トレーニングの時間を楽しむぞ、と思っていると、ニコラスはふいに後ろから声をかけられた。誰だろうと思って振り向いてみると、同僚のアギー・マーシャルである。彼女がニコラスの目の前に立っていた。そういえば彼女とはこれまでに、何度か退社時間のことで話をしたことがある。およそ10か月前のある日、ついに自分の労働時間の短縮が認められて、それでジムに通い始めたころのことだった。彼女は自分がなぜ労働時間の短縮が認められたのかということに疑問を持ったらしく、ねちっこくその理由を自分にたずねてきた。まあ冷静になって考えてみれば、それは同僚として、同じオフィスで働く仲間として当然の疑問だったかもしれないが(どうしてあなただけがさっさと家に帰れるのよ)、当時の自分としては、彼女と話すのは億劫だった。彼女にちゃんとした理由みたいなものを説明してやってもいいかとも思ったが、結局はそうしなかった。なぜなら、一生懸命にこちらがその真意を彼女に話したところで、それがそのまま彼女に伝わるとは思えなかったし、またあえて時間をかけて彼女にそうする理由もないと考えたからである。彼女は恋人でもなければ友人ということでもない。プライベートでは一度も遊んだことがない、ただの会社の同僚なのである。別に喋りたくないことがあるのなら、無理に彼女には喋らなくてもいいはずだし、自分も彼女の話の中で、聞きたくない部分が出てくれば、それに無理に耳を貸す道理もない。ゆえに彼女からどうして労働時間の短縮が認められたのかと問われても、そんなことなぜなのかと言われても知らない、僕にそんなことはわからないよ、みたいなことを言っていればそれでいいのだ。ところで急に今になって何の用事だというのだ。何かまったく自分の知らないところでわけのわからないことが起こり、それが巡り巡って今彼女の口からそれが何なのかということを知らされるとでもいうのか。いや俺は今からオフィスを出てジムに向かうところなんだ。平和な時間を過ごしたいんだ。いつものように筋肉トレーニングに励んで、ほかのわずらわしいことから素早く、かつできるだけ長い間解放されたい。だからわけのわからない話が俺にあるからといって、律儀にそれを俺に教えに来てくれなくてもいいんだよ、アギー。君もさっさと仕事を終えて家に帰ったらいいじゃないか。家で君が何をしているのか俺は全然知らないけれども、君も俺みたいに仕事が終わった後の時間をゆっくりと楽しむがいい! アギーが何かを言おうとしている。ニコラスはあえて自分から彼女に話しかけてみることにした。「おおアギーじゃないか。どうしたんだい? ところで最近雰囲気変わったよね?」
「え?」アギーが小さく反応する。
ニコラスは続けて「髪の毛をと伸ばし始めたからなのかな? 髪の毛が伸びたからなんだろうね。前は何ていうか、もっ活発なイメージがあったけれども、今は髪の毛をかき分けたりなんかしちゃって、とても大人っぽくなったよね。ネイビーのジャケットもすごく似合っていると思うよ」
「そうかしら?」アギーが言う。「でもそういうことって最近みんなから言われるの」
「やっぱりね」ニコラスは言った。「だって誰が見ても一目瞭然だもの。君は本当に前とは雰囲気が変わったよ。まるで別人みたいだ。いや、別に前がそんなにひどかったと言っているつもりはないんだけれどもね」
「わかっているわよ」アギーが言う。「でも確かに今の私は以前の私とは違うの。以前の私とは違って何ていうか、もっといろいろなことに興味を持てるようになったし、いろいろなことが見えるようになってきたのよ」
「本当に素敵な女性になったんだね」ニコラスは言った。「それでほかの人たちからもちらほらと噂話はきいているよ。誰かいい人ができたんだって?」
いい人というのはアギーにとっての新しい恋人のことである。
アギーは言った。「実は今度その彼と結婚することになったの」
「そりゃ良かったじゃないか」ニコラスは言った。そして少しだけ間をおいてから「それで僕に何か用なのかな? 何か僕にやって欲しいことでも?」
「あなたが前に労働時間の短縮をパリ―課長にお願いしていた理由がわかったわ!」アギーがこれまでの優しい口調とは全然違う、ついに親の仇を見つけた! 覚悟しておけよこの悪魔め、鬼め、などと今にも言い出しかねないような勢いで言った。
「急にどうしたんだいアギー」
ニコラスは彼女がどうしてそんなに急に態度を変えてきたのかわからなかった。付き合っていた彼との結婚が決まって、これから少なくとも数分間はその幸せなエピソードが語られるんじゃなかったのか。普通ならそうなるはずなのに、しかし今の彼女ときたら全身に怒りのオーラのようなものを身にまとって、こちらのことをにらみつけてくる。そんなに憎らしいのか。俺がかつてパリ―課長に労働時間の短縮を申し出た理由がそんなに君の気に入らないものだったのかね。いや確かに君にもその理由は筋肉であると伝えたと思ったんだが? 多くのことは語らなかったけれども、でも確かに筋肉の問題があってね、というようなニュアンスを発表させてもらっていたと思ったけれども? とにかく今君がそんなに怒りに満ち溢れている理由がわからないな。怖いよ。結婚という幸せな出来事を控えた君が、ここまで豹変して自分以外の誰かに怒りの感情をむき出してもいいものなのかね。そんなことで逆に君はいいのかね。
困惑しているニコラスをしり目に、アギーは言った。「あなた筋肉トレーニングをしているらしいわね! 自分が筋肉トレーニングをしたいばっかりに、あのとき課長に労働時間の短縮をお願いしたらしいじゃない! 自分のためだったのね! 私はてっきりあなたが何か筋肉の病気にかかっているか、それかほかの誰かのために仕方なく自分の労働時間を削ることにしたんだと思ったわ! それなのにあなたときたら! あなたときたらまさか筋肉トレーニングをするためだけに、それに集中するためだけにあのパリ―課長にお願いしていたとはね! 自分の希望が通ってさぞあなたはハッピーだったことでしょうね。でもその分ほかのみんなに負担がのしかかっているのよ。そんな筋肉トレーニングがしたかったからなんて理由で、みんなが納得すると思っているの!」
「だから一体何のことなんだよ、アギー」
ニコラスは言った。そしてそのように発言している最中に、さっさと以前のアギーに戻ってくれないか、結婚のことをうれしそうに、はずかしそうに俺に報告してきてくれていた、たった数秒前の君に戻ってきてくれないかね、それにしてもほかのみんなが全然納得していないだって? 納得していないってどういうことなんだ、俺が労働時間を短縮させてしまったばっかりに、ほかの同僚たちにそのしわ寄せが行っていたとでもいうのか、それでだから彼らは、俺の労働時間の短くなった理由が、当人か、もしくは親族などの病気のためだったらまだしも、ただ自分の希望をかなえるためだけのものだと知ったら、とてもじゃないけれどもそれを許すことはできないといっているのか、この俺をどうにかしてやりたいと思っているってことなんだな! と思った。
ニコラスは怒り狂っているアギーを目の前にして、すばやく自分のことを擁護しなければならないと思った。だが彼は言った。「それのどこが悪いって言うんだ!」
「何ですって!」アギーが言う。
超える。ニコラスは続けて言った。「ああ確かに俺は自分のためにやったさ。自分がただ筋肉トレーニングをしたいばっかりに、あのとき課長に申し出たんだ。とにかく今の労働時間は長すぎる。労働時間が長すぎて、家に帰ってもほとんどプライベートな時間がないからその部分についてどうにかしてくれってな! 課長は押し黙っていたよ。だってそりゃそうさ! 確かに法外なんだからな。俺たちがこなしている仕事の時間っていうのは、普通の脳みそを持っている奴からしてみたら異常なんだよ。普通じゃありえないことが起こっているんだ。俺も筋トレに憧れる前は、そんなことちっとも知らなかったよ。いやきっとどこかではそのとこに気づいていたんだろうが、しかし気にしていなかった。現実はこんなものなのだろうと思って、自分を騙していたんだ。だがそれももう限界だった。俺は自分が筋肉トレーニングをしようと思ったとき、そして通うジムまで意気揚々と決めたとき、はじめて自分の置かれている状況というものを正しく認識しなければならなくなったんだ。仕事を終えて家に帰ってみても、ジムに通う時間なんてどこにもなかった。ということは、俺はじゃあ今の会社で働いている限り、一生ジムには通えず、自分の思うような筋肉トレーニングはできないってことだ。そんなのってクソったれだろ? 君だってそんなのってクソったれだって思うだろうが」




