13 上司のご機嫌
13 上司のご機嫌
ニコラス・アディソンが筋肉トレーニングを始めてからおよそ10か月の時間が経過しようとしていた。そのあいだ、彼の筋肉は成長を続け、もはやそれは彼が筋肉トレーニングをしていると知らない人でも、彼の肉体を見てしまえば、きっとあの人筋肉トレーニングしているんじゃない? そうじゃないとあんな筋肉ありえないわ、というしかないレベルにまで発展していた。もちろんニコラスとしては、別に人からそんな噂を立てられたいがために筋肉トレーニングに励んできたわけではなかったので、たとえ本当にどこかで誰かがそのような話をしていたところで、彼の幸福度にさしたる変化はなかった。だが今日という日である。ニコラスの目の前に一人の男が現れた。そして彼はニコラスに向かって堂々とたずねてきたのであった。「君、もしかして筋肉トレーニングでもしているのかね」その男の名前はエイブラハム・パリ―、ニコラスの直属の上司だった。ニコラスの作業していたデスクの横にエイブラハムがやってくると、二人の間に不穏な雰囲気が微かに流れた。しかしそれは確かに不穏な雰囲気だった。どちらがその雰囲気の主な成分を担当しているのかは定かではなかったが、それは二人の今の空気感としては正しいもののように思われた。それはこのような発想から得られる。だって逆に上司であるエイブラハムがニコラスのもとにやってきて、二人の間にすぐにフレンドリーな雰囲気が流れたら、それはきっとニコラスが何かエイブラハムのお気に召すような仕事をやり遂げたあとでしかありえない。では思い出してみよう。ここのところニコラスは、エイブラハムのお気に召すような仕事をやり遂げたのか? 残念ながらその答えはノーである。ニコラスは普段通りの仕事しかこなしていないのであって、どう考えても今エイブラハムがデスクに近寄ってきて、お褒めの言葉をかけてくれるような事態など発生しているわけがなかった。それなのにエイブラハムさんは俺のデスクに近寄ってきたんですよ! こりゃもう何か言われるんでしょうね。言いにくい、言われたくない嫌なことを言われるんでしょうね。パリ―課長の説教タイムの開始というわけですよ。エイブラハムが続けて言った。「いやもしかしてなんだがね、まさかとは思っていたんだがね。しかししているんだろうな。君は私の知らないところで、知らない時間にこっそりと筋肉トレーニングをしているんだろう。どのような方法をとっているのかはしらないが、しかししていることには間違いないんだろうな! この筋肉トレーニングをしている野郎め! 私の知らないところでそんな筋肉トレーニングなどに励むとはどういうことなんだ。何か特別な考えでもあるっていうのか。君にはその筋肉を使った企みみたいなものがあるのか。もしそんなものがあるというのならば今すぐそれを私に打ち明けなさい。そして白状するんだ。どうしてそんな目に見えるほどに筋肉を鍛え上げてしまったのかね! 筋肉を鍛え上げてしまったんだかね。君はその分厚いスーツを着ていれば、今自分の集中していることが周りにばれないと思っているのかもしれないが、世間はそんなに甘くはないぞ。世間はそんなに甘くはないんだぞこの二十代後半め! 確かに君の今のスーツ姿だけみていると、おやこの人学生時代に何かやっていたのかな? やけにいいカラダをしているな、きっと何か打ち込めるスポーツでもあったんだろうな、という印象を与えるにすぎないかもしれないが、私の言いたいことは、いいかねニコラス君、このオフィスで働く女性社員たちのゴシップ力をなめるなよということだよ。決して君はここのオフィスで働く女性社員たちの噂話の力というものを見余ってはいけないんだぞ」
「一体何がおっしゃりたいんです、パリ―課長」
ニコラスはおもむろにエイブラハムの方を振り返って言った。彼が身勝手に、そしてこちらの反応など全然無視して猛烈に自らのセリフをまくし立ててくるからである。そんなに猛烈にセリフのまくし立てられるようなことをした覚えはないがな? ニコラスは彼の話を聞いている最中にこう思ったわけなのであった。それで彼のセリフのキリがいいと思われるところで、ニコラスはふと彼の方を振り向いて彼の言葉をけん制してやろうというアイデアを思い付いた。だって本当に彼にこんなに言われる筋合いはないと思うんけどな! パリ―課長にそんなにめちゃくちゃ長いセリフを言われる必要はないと思うんだけど! っていうか俺だけなのかな? もしかしてこの広い世界といえでもこのような考えを持ってるのは俺だけ? それってつまり、別に仕事をきっちりとしていれば、あなたの知らないところでというか、ほかの誰でもそうなんですけど、誰の知らないところでも自分の判断だけで筋肉トレーニングってやっちゃダメなんですか。自分が筋肉トレーニングに励んでいることってそんなに世間に公にしないといけない事柄なんですか。
エイブラハムが続けて言ってくる。「まさか君が本当に筋肉トレーニングをしているだなんて思ってもみなかったよ。そんなこと想像すらしたことがなかったね。君はいつも真面目に仕事に取り組んでくれる奴だから、きっと仕事が終わったあとは家に帰ってゆっくりとしているもんだと思っていたよ。そのように思い込んでいだってわけさ! お酒とか飲んでいるんじゃないかってね。君はそういえば、みんなの前ではあまりお酒を飲むようなことはなかったと思うけれども、でもそれは、お酒が苦手だからじゃなくて、みんなの前で飲むのが嫌だからなんじゃないかと思っていた。君みたいに大人しい奴はね、家で一人でいつも豪快に好きなだけお酒を楽しんでいるんじゃないかと思っていたんだよ。好きなおつまみとかを買ってね、それでダラダラとテレビなんかを見ながらお酒をちびちびと飲んでいるってわけさ! ところが君の真実は筋肉トレーニングなんだよ。筋肉トレーニングなんだってさ! まさにびっくり仰天だね。こんなことって本当にありえることなのかと耳を疑ってしまうほどさ。君が筋肉トレーニングとはね。どのような方法でそれに取り組んでいるのか知らないが、もしかするとジムってやつかい? 君はもしかして筋肉トレーニングのために、専用のジムに通っているんじゃないだろうな? は! もしかして以前君が労働時間の短縮を希望してきたのって、そのジムに通う時間を確保するためだったのか?」
それ以外に何があるって言うんだよ、とニコラスはエイブラハムの話をきいていて思った。そして相変わらずこの男の話の長いこと長いこと。この男の話の内容といえば、思っていること、頭に浮かんできた言葉をすぐにすべて言葉にしてしまうからなのか、意味が重複しているところが多々あることはもちろんのこと、まるで自分自身に言い聞かせるように喋るから、話を聞いていてだんだんとこちらの態度もだれてくる。だからこちらの内面にも、早く終わってくれないかな、なんて本音も芽生えてくる。それにしても今更そこに合点がいったというわけなんですか。ええ、以前確かに私はあなたに労働時間の短縮を申し出ましたよ。労働時間があんまりにも長いように思われるんで、それをもう少しだけでも短くしてもらえませんか、とね。もちろんそれは私が私自身の今後の筋肉トレーニングの時間を確保するためのものですよ。ちゃんとしっかりとジムに通える時間がどうしても欲しかったからなんです。しかし今になってそのことに気が付くとはね! 私の労働時間の短縮希望の魂胆がやっとあなたの中で明確になったというわけなんですね。10か月ですよ! 私があなたに労働時間の短縮の希望を出したのは、もう今からかれこれ10か月も前の話なんですが? 逆にじゃあ今まであなたはなぜ私が労働時間の短縮を希望してきたと思っていたんですか。そしてなぜあなたは私の希望をかなえてくれたんです?
「そういえば君は確かに筋肉と答えていたんだったな」エイブラハムが言う。「だが筋肉という答えだけでは、まさか君の考えに筋肉トレーニングというものがあるとは思い至らないじゃないか! 私はたずねたはずだ。あのときの君に、私はどうしてそのような希望を持つにいたったのかねということを君にたずねたはずだよ。そしたら君は何て答えたかね? 自分で何と答えたか覚えているか? ただ一言だけ筋肉です、と答えやがったんだよ。ただ一言部下から筋肉ですと答えられたら、もうそれ以上その問題に対して言及できなくなるのが上司という生き物の性さ。いやそんな性なんてないが、しかし私はきっとこのようなことを思ったに違いないよ。筋肉の病気なのかな? 彼は今何か筋肉の重い病気にかかっていて、それで長い時間の労働が難しくなってきたから、その時間の短縮を希望するに至ったのかな? 勤務中もずっと筋肉が痛むし、かつ治療にも莫大な時間とお金をかけていかないと改善する気配が得られないから、だから君は社内での真面目君という評価を捨ててでも自らの筋肉の病と向き合わなければならなくなったんだね。そういうことなら上司として君の希望を聞いてやらないわけにはいかないな――多分このような方向性で君の発言を解釈したんだと思うよ。それなのに君って奴は!」




