10 約束の筋肉
10 約束の筋肉
筋肉トレーニングを始めて10か月が経った。筋肉トレーニングを始めようと思い立った頃はどうなることかと思ったが、今のところ案外順調に行っている。思い返してみれば、一番初めに決めたジムが突然の閉鎖になったり、またはよく考えてみたら、一日のうちで、仕事が長すぎるせいで筋肉トレーニングに費やす時間がなかったりで、それなりに大変だったけれども、あれから普通に別のジムを探して、仕事の時間も上司と相談して少しは余裕をもらえるようになった。今は、筋肉トレーニングをするに際して不満な点はほとんどない。仕事が終わればすぐにジムに直行して、鍛えたいところを鍛えまくっている。仕事中ももちろん筋肉のことを考え、休みの日だって筋肉に何かいい情報がないかと常にアンテナを巡らせている。きっかけは元カノの一言だった。昔付き合っていた彼女と久しぶりに再会することになって、それでそのときに言われたのだった。「あなたちょっと見ないうちに太ったんじゃない? そんな頻繁に体重計には乗ってないと思うけど、でも太ったと思うよ。私が言っているんだからほぼ間違いないと思うよ。太ったよ。いやあなたが否定しても私が言っているんだから仕方ないじゃない。そりゃ自分ではあんまり気が付かないでしょうよ。めちゃくちゃ太ってしまったというわけじゃないんだから。めちゃくちゃ太ってしまったというわけじゃなくて、ちょっと太ったんじゃない? という程度なのよ、あくまでもね。あくまでも! でも太ったよね。いや絶対太ったって」彼女からここまで言われて、太ったから何なんだよ、みたいなことは正直少し思ったけれども、しかし太った太ったと言われて、もちろんいい気はしなかった。かといって別に痩せたんじゃない? と言われたところで、こっちも全然うれしいセリフじゃないけれども、とにかく昔付き合っていた彼女から、昔と現在を比べて変化のあったことを指摘されるのが嫌だったのかもしれない。それでそうやって彼女に太ったんじゃない、と言われてからは、絶対に痩せてやる、っていうか前より筋肉とかもつけていい体になってやる、みたいな気になった。そして今があるわけだ。前述したとおり、今は非常に充実した日々を送っており、理想の肉体に向けて一心不乱に努力している。
だがふいにむなしい気持ちに襲われることもある。それは、このまま理想のボディを手に入れたところで俺はどうなるんだ? というものである。だって考えてみれば、今の自分にはそれを自慢する彼女もいなければ、元彼女とも今のところ再会の予定は立てていない。当たり前の話である。だって元彼女は元彼女なんだし、もう俺たちはしっかりと別れたんだから、そんなことあるごとに再開していたら変な感じになるに決まっている。たとえ元彼女に会う理由が、本当に彼女に筋肉を見せつけたいからだったとしても、それは何ていうか自重しておくべきなんじゃないだろうか。じゃあ俺はなぜ今筋肉トレーニングに励んでいるのか? 仕事が終われば筋肉、仕事中にも筋肉、おまけに休みの日だって頭の中は筋肉のことだらけだ。どうしてここまで筋肉に夢中になってしまっているのだろうか。どういう原理が働いて今俺は重たいダンベルとか懸垂とかしているのだろう。やはりそれは考えてみるに、自らへの挑戦、ということがあるだろうと思う。自らへの挑戦といわれて、それを突然きいた人は、はあ? この人何を言っているのだろう、などと思うことだろう。だが筋肉トレーニングをするということは、究極をいってしまえば自己満足なのであり、その自己満足を求め続けるということは、すなわち自らへの挑戦にほかならない。お金にならないのだ。筋肉トレーニングをすること、筋肉トレーニングに力を入れることは、別に誰かに求められてしているわけじゃないし、誰かのためにしているわけでもない。中には素晴らしいボディを作り上げて、それでお金を儲けて生活をしている人もいることだろう。だがとてもじゃないが自分はそこまでのレベルじゃないし、生活費は普通に筋肉とは何の関係もない仕事をすることによって稼いでいる。ということは、やっぱり今俺にとって筋肉トレーニングというものは、自分がしたいからしているだけなのであって、本当に誰かに求められているわけではない、また10か月と続けてしていることから、徐々にその成果も出始めており、その目に見えてきた成果がうれしくてうれしくて仕方がないという状態にあるのだろう。それはいつも通りに仕事を終えてジムに入り、もくもくとトレーニング器具に向かって体を動かし、ベンチで一休みしているときだった。赤色のタンクトップを着た男がふいに近づいてきて、こちらに対してしゃべりかけてきた。「最近よくお見かけしますね」
「ええ、そうですね」
彼とは、それまで話したことはなかったのだが、確かに彼の言うとおり、ニコラスと彼は顔見知りだったと言わざるを得ない。本当にそのときまで彼らは一言も交わしたことがなかったのだが、同じジムに通っている仲であることは、ジムで頻繁に顔を合わすことから容易に推測されたし、またジムに通っている時間も、ジムで頻繁に顔を合わしているという事実から、ほぼ同じであるんだなということがわかる。よって、お互い話をしたことはないけれども、存在だけは常に意識してきた。そしていつか今日のような日のやってくることを、彼の方はどうかしらないが、ニコラスとしてはやってくるんじゃないかと思っていた。いつか彼がこちらに近寄ってきて、こんにちは、みたいなことから何かしらの会話みたいなものを試みてくるのではないかと。もしそのような瞬間が二人の間におとずれたら、ニコラスはどうしようかと思っていたか。彼を拒否するのか、それともこちらもさわやかに対応するのか。ニコラスとしては、もし彼がこちらに話しかけてくるようなことがあれば、こちらも積極的に彼との会話には参加しようというつもりだった。なぜならニコラスは彼のことをずっと見ていたからである。別に変な意味ではない。別にそんななんていうか性的な意味で見ていたわけではないけれども、しかし同じジムに同じ時間帯に通い、そして筋肉を作り上げている仲間として、彼のことは見過ごせないと思っていた。彼のことを見過ごせないというのはつまり、彼とは何かいいタイミングさえあれば、筋肉のことについて語り合える仲間になれるのではないかと思っていたのである。ニコラスは彼の肉体を見るたびに、そして今、それらに加えてこんなことを思った。「きっと彼は自分より先輩なのではないだろうか。きっと先輩なんだろな。年齢も多分上だと思うけれども、そういう意味だけでなくて、筋肉トレーニングの歴もきっと彼の方が上だろう。トレーニング経験も長いだろうし、また筋肉についての知識も、少なくとも自分よりはあるに違いない。こういう相手を待っていたんだ! 俺は何だか、こういう相手がジムにいてくれることを望んでいたような気がする。一人で孤独に筋肉を鍛え続ける作業はつらい。俺は誰かと分かち合いたかったんだ。この筋肉の成長を、筋肉が成長していくにつれて増えていく喜びや不安を! あと食事のこととかも相談したいし、より効率的なトレーニングのことなどについてもいくらでも語り合いたい。だってそんな話って会社の仲間たちとはできませんし、それはどれだけかわいい彼女が出来てもほとんど出来ないことだろう。それに考えてみれば10か月だぞ! もう気が付けば10か月も孤独に俺は筋肉トレーニング器具たちと向き合ってしまった。それも筋肉トレーニング器具たちだけと! 普通ならもっと早い段階でそういう筋トレ仲間、みたいな人は出来てしかるべきだろう。いや俺だってもっと早目にできるだろうと思っていたさ。でも結果としてできなかった。今の今までそういうチャンスはやってこなかった。別にずっとジムの中で一人でトレーニングに励んでいたというわけじゃないんだけど、でも周りの人たちもずっと黙々とトレーニングしているし、それに俺も自分から誰かに話しかけるということはなかったから、本当に気が付けばですね! 本当に気が付けば、何だか今の今までこのジムの中でスタッフさん意外としゃべったのは今が初めてということになってしまった。まあいいじゃないか。いいじゃない。切り替えていこう。今こうして赤いタンクトップの彼が話しかけてきてくれたんだ。彼と話そう。今から彼と話して、そして自分の筋肉欲とでもいうものを存分に満たせばいいじゃないか」
赤いタンクトップを着た男が言った。「このあとトレーニングが終わったら近所の公園に行きませんか?」
「え、近所の公園?」




