1 筋トレの極意
1 筋トレの極意
ニコラス・アディソンは最近筋肉トレーニングを始めた。理由は昔付き合っていた彼女と久しぶりに再会したときに、彼女から「ちょっと太ったんじゃない?」と言われたからである。もちろん彼はすぐに彼女の意見を否定した。「そんなことないとも、そんなことなどない! そんなことなどあるわけないだろう。僕が太っただなんてそんなね。まさかそんな事実などこの世の中のどこにもないんだよ。仮にあったとしよう。そのような、この僕が君と付き合っていたころと比べて太ってしまっているという事実がこの世のどこかにあったとしようじゃないか。そんなことを面と向かって僕に言ってくるなんて君はひどいよ。君はどうかしているよ。仮にだよ? 本当に仮に僕が以前と比べて太っていたとしようじゃないか。その事実はオブラートに包むべきだよ。オブラートに包んで、それでその事実を僕に伝えるとしても、ものすごく慎重になってもらわなきゃ困るよ。とってもいいのは、その事実をオブラートに包むのもそうだけど、まずはその事実を僕に直接伝えるべきかどうかということをしっかりと君自身が君自身の中で検討することだよ。そうしてやめたっていいんだ。別にやめたっていいんだぜ? 君が僕のことを久しぶりに見て『あ、この人前と比べてちょっと太ったな』と思ったとしよう。でもそれって言わなきゃいけないことなのかな。必ずしもそれって僕に伝えなきゃいけないことなんだろうか。僕はそうは思わないよ。僕はそうは思わないね。だって逆にさ。逆に僕が君のことを久しぶりに見て『あ、この子前と比べて太ってしまっているな』と思ったとしても言わないよ? 面と向かって君に言うかというと、そりゃ言わないと思うよ。なぜなら君が僕にそう言われていい気分にならないのは目に見えているからね。僕が君にそう言って、ただちに君がその発言によって不機嫌な気持ちになるのかどうかはわからないけれども、でもそう言われて君がよろこぶようなことはないだろう。僕と君との関係がプラスになるようなことはないだろうね。そのようなことがすばやく想像されるから、だから僕は決して君に『あ、この子太ったな』と思ってもそんなこと言わないよ。そんなこと言っても本当に何もいいことなんてないからね」
だがニコラスの元彼女は言った。「事実は事実として受け入れるべきよ。あなたが太ってしまったのは嘘でも幻でもない、紛れもない事実なのよ!」そして彼女は急に自らの胸の前で両腕を組んで「だから冷静になって考えてみると残念でもあるの。本当にあなたのその今の発言は、私にとってとても残念なものよ。だってあなたは現実を受け入れられていないんですもの。まったく現実をうまく受け入れられていないんでしょうね。もっとオブラートに包んで発言すべきですって? 私は昔から自分の思ったことは素直に人に伝えるという性格よ。あなただってそのことは十分に認識しているはずよ。それなのにどうしたの。それなのにどうしたのと私はあなたに言いたいのよ。どうしてしまったのニコラス! あなたは本当に私と別れてから一体どうしてしまったというのでしょうね。太ってしまったのもそうだけれどもニコラス、今こうしてあなたと久しぶりに話してみて思うことがあるわ。ニコラス! あなたはどうしてしまったの! あなたはそんな人じゃなかったはずよ。私の言いたいことに対してオブラートに包めだの、本当ならそんなことは発言すべきじゃなかっただの。そんなことを言う人じゃなかったのにね! きっと仕事がうまく行っていないのね。きっと仕事がうまく行っていないからそんな私にあてつけのようなことを言って私のことをイラつかせてくるのでしょう。もう別れているんだから放っておいてよ。私のことをいたずらに傷つけたって何にもならないに決まってるじゃない。それか寂しいのね。私と別れて、それでずっと一人でいなくちゃならない時間が増えてしまったから、心の安定が図れないのでしょう。あなたは将来や過去のことに対して不用意に不安になってしまっているのよ。だからそんな久しぶりにあった元彼女に対しても『本当ならそんな発言は無意味なんだからすべきじゃなかった』みたいな堅苦しくてつまらなくてきついことが言えるのよ。どこかアミューズメントパークにでも行って来たら? USJとかディズニーランドみたいなところに行って来たらいいじゃない。かわいいキャラクターたちとかがたくさんいるし、おもしろい乗り物とか建物とかもたくさんあるからいい気分転換になると思うわ。まあ私と別れてしまったから、そういうところに気軽に一緒に行ける人もどうせいないんでしょうけれどもね」
「これは筋力増強時におけるバルクアップなんだよ」ニコラスは言った。「勘違いしてもらっちゃ困るなあ。本当に勘違いしてもらっちゃ困るよ。僕が以前よりも太ったんじゃないかって? そんなわけないだろ。いやそんなわけある! 確かにそんなわけあるとも。僕は以前よりも太っただろうね。君と付き合っていた頃よりも完全に体重は増加してしまっているよ。でもそれは意図的なものなんだ。ストレスが重なって暴飲暴食に陥り、それが自分では制御不能になってしまってそれで結果として体重が増加してしまったというストーリーはこの僕には当てはまらない! 僕のはバルクアップなんだ。バルクアップ、つまり筋肉を増やすために、一時的に自分で意図して体重を増やしているにすぎないんだ」
彼女がニコラスに対して冷ややかな視線を送ってくる。次に彼女は絶対にニコラスに対してこう質問してくることだろう。「は? バルクアップって何? バルクアップって一体何なのよ」だがそれは俺も同じ気持ちだ! ニコラスはバルクアップというキーワードを使ってみたはいいものの、それが具体的には何なのか、実際にはどのような現象や事象に対して使う言葉なのかはっきりとはしていないのであった。何となくは知っているのであるが、しかしその知識が本物なのかどうかはわからない。バルクアップ。とりあえず、筋肉をつける前に一旦脂肪でも何でもいいから体に外側を大きくし、そこから減量なりなんなりをしてやせて筋肉を残す、みたいなことでいいのだろうか。いやわからない、わからないんだぞ。なぜなら俺は、本当のことを言うと、もちろんバルクアップなどしていないからだ。結果的にバルクアップになっているということはこのあとの展開でありうることかもしれないが、しかし現時点では、やはりこの増量はバルクアップなどではない。ただの日々の生活の怠慢によってもたらされた結果だ。それなのに俺ときたら、バルクアップなどという謎のキーワードの力を使って、口うるさくなってきた彼女を封じようともくろんでしまった。もくろむどころか、実際に彼女の口を封じこんでしまった。おかげで今のこの彼女からの冷たい視線があるってわけだ。ああバルクアップ。本当にバルクアップとは一体なんなのだ。俺はどうして今こんな嘘を彼女についてしまっているんだろう。
彼女が喋り出す前にニコラスは言った。「要するに俺は目覚めてしまっているというわけなんだよね。筋トレというすばらしい世界をもうすでに発見してしまっていうというわけなんだよ。君と付き合っていたころにはまさか自分が筋トレの世界に足を踏み入れることになるとは思ってもみなかったよ。だがどうだろう。俺は足を踏み入れたよ。そして筋トレのすばらしさに気づいてしまったんだ。だから俺は今夢中なんだ。自分の筋肉を自分の力によってトレーニングし、構築していくという作業に没頭しているんだよ。君には今の僕がどう見えるのかな? どう見えるのかなんて知ったことか! ストレスがたまって太ってしまったとでも思っているんだろう。君と別れてさびしい生活を送ってしまっているに違いないと思っているんだな。だがそれはあえていえば君の願望なんじゃないのかね。自分と別れたくせに相手が別のものに夢中になって楽しくやっている――この事実に耐えられないばっかりに、君はああでもないこうでもないと僕のことを責め立ててくるんじゃないのかね。とするとだ。とすると! 本当に事実と向き合えていないのはどっちなのかな。事実を事実としてうまく認識できていないのはどちらなのだろう。まあ考えるまでもないかな。そんなことって真面目に考えてみる価値なんてないよ。僕はやさしい人間だからね、もうこれ以上お互いがお互いを傷つけ合うことはやめようじゃないか」
すると彼女はニコラスの頬を思い切りつねって言った。「うるさいデブ! 今まさに本物のデブになろうとしているデブになりかけの小デブ! どうせ毎日料理を作ってくれる人もいなくなったからコンビニのお弁当とか近所のラーメン屋などに信じられない頻度で通っているんだろう。くやしかったら前みたいに痩せた状態で私の目の前に現れてみろ。それで『ちゃんと野菜とかも気を付けて毎日食べているから体の心配はいらないよ』くらいのことを言ってのけってんだ」