第1話 記憶を捨てた。
* * *
あれから、男は何かに追われるままにあてもなく逃げ続けていた。
背後から迫りくる何かばかりを気にしていた男は、前方にある一つの気配に気付かない。
「!!」
「きゃあっ!?」
少し急になっていた斜面を駆けあがったところで、一人の少女と出会う。
「び、びっくりした…」
森の中で一人、座り込んでいた少女は目を丸くしながら立ち上がる。
声をあげてしまった事が恥ずかしかったのだろうか。少し気恥ずかしそうにしている少女は、二十歳を目の前にしている男よりも幾分幼く見える。まだ、十五、六といったところだろう。
肩あたりまである真っ黒な髪。そして、茶色くて丸い瞳が自分の姿を映した。
「すごい汗、顔も真っ青よ」
心配そうに様子をうかがう少女の声と共に、背後からはあのうめき声が近付いて来る。
「っ!!」
振り向いたそこには、先ほどよりも確実に近付いている血に塗れた敵軍と、仲間達の姿。
逃げなければ、と足を踏み出そうとして、それは失敗に終わった。
何日もの間、逃げ続けていた体はとうの昔に限界なんて超えていたようで、一度立ち止まってしまった足はカクンッと力なく崩れ落ちる。
「大丈夫!?」
男に駆け寄って、体を支えようとした少女の手を払った。
「に、逃げ、っ、ごほっ」
逃げてくれと、伝えようとしたそれはカラカラに乾いた喉に詰まり、言葉にならずに終わる。
早く、早くしないと追いつかれる、そう思って後ろを見れば、少女も男に倣って振り返る。
「なにか…あるの?」
「な、にかって…!」
かすれた声を絞り出せば、少女はきょとんとした顔で男を見つめている。
なにか、とはなんだ。この少女は一体何を言っているのだろうか。
血塗れの姿で、うめき声をあげて追いかけてくる彼らを見て何も思わないのか。ほら、振り返ればもうすぐそこまで来ている。
森の向こうを凝視している男を見て、少女はもう一度よく目を凝らしてみるが、不思議そうな顔をするだけだった。
「なにも、見えないけど…?」
(そんな…そんなはずない。だってもう、実際にすぐそこまで…!)
「それより、あなた大丈夫?顔色悪いわ」
そう言って、彼らのことを気にもとめずに背中に手をあてた少女に、男は言葉を失った。
そうこうしている間に、目前までやってきた彼らに男はもう駄目だと、とっさに少女を腕に抱き、覆いかぶさるようにしてギュッと目をつぶった。
「きゃあっ!?!?」
迫りくるソレに身を固くするが、少し経っても何も起こらないことに違和感を覚える。
「ちょっと、離して!!」
どんっと胸を押されて、少女を解放すれば、少女は目をまん丸に見開いて男と距離を取った。
「急になにするのよ!?」
「あ、え…?」
男がきょろきょろとあたりを見まわしても、先ほどまで近くにいたはずの彼らの姿が見えない。
(なん、で)
「ねえ、聞いてるの?……後ろになにかあるの??」
しきりに背後を気にする男に、少女は怪訝な視線を向ける。
(見えて、ないのか………いや)
違う。そうではない。出会った時から、少女には何も見えていなかった。
きっと、初めから「彼ら」はいないのだ。
そもそも、殺し、殺されたはずの彼らがいるなんてこと、あるはずがなくて。だが、それならばこれまでずっと自分を追い続けていたものは、なんだというのか。
(あれが全部…全部気のせいだって…?)
ぐるぐるとまとまらない考えを巡らせていれば、突然、男は腕を掴まれる。
「血が…!!」
「血」という言葉に、どくりと心臓が嫌な音を立てた。
見れば、右手の甲には、またべっとりと血がついている。
「…!!」
何故、確かに拭ったはずなのに。男がごしごしと服に血をこすりつければ、少女は慌ててそれを制止する。
「駄目よ!そんなに強くこすったりしちゃ!」
傷に良くない。と言われて、自らの手に視線を落とせば、手首のあたりでぱかっと開いた傷口から、鮮やかな血が滲む。
(僕、の…)
返り血だと思っていたそれが自らのものだったとわかり、男は心の底から安堵した。
「とにかく早く手当しないと、私の村に来て!」
立てる?と少女に腕を引っ張られて、ふらふらとおぼつかない足取りながらも立ち上がれば、少女がそっと男の体を支えてくれる。
「あなた、どこから来たの?」
この辺じゃ見かけないけど、という少女の問いに男は言葉を詰まらせた。
◇ ◇ ◇
自分は、国を捨てて逃げ出した。
罪のない、多くの人を殺めて。
そして、自分についてくれた仲間も、みんなみんな死んだ。
その全てが自分の責任で、自分が犯した過ちだった。
男に、言いようのない息苦しさが襲う。
「…わ、からない」
男の返答に、少女は首を傾げる。
「どこから来たのかわからないの?あなたの名前は?」
「…わからない」
少女は、疲弊しきっている男の姿を頭から足の先まで打ち守る。
「もしかして、あなた…記憶がないの?」
◇ ◇ ◇
全て、覚えてる。忘れられるはずがなかった。自分が犯したこの大きな過ちを。
でも、それを、受け入れることが出来なくて、向き合うことから逃げてしまった。
だから、僕は…。
-記憶を失くしたフリをした-
またお会いできて嬉しい限りです。
激しく試行錯誤中です。頑張ります。




