演奏の感想。
演奏の感想…という言葉で括るのは何処かもどかしい様な気分に襲われる。演奏を鑑賞する時、私は、瞬間的な観客者として、演奏の地平…その不可侵な地平に接続する。そこは、時間性や歴史性を超えた出会いという記録。媒体に対し、熱心に接続するという現代的な干渉の仕方は、出会いの聖性を侵した〈暴力性〉に満ちていると、断言できる。
暴力性の果て。その俗性を愛するということ。その中に浸ることに苦が無い。それは、一種の「現実から隔絶された」異空間。__「そこも、また、ひとつの現実じゃないか」そういう無粋な、極めて無粋な!!声が聞こえてきそうだ。私は断言できる。そこは、現実ではない。私が、私の全てが、現実ではないと叫ぶことが出来ると。
観客を見ている観客。喪失した現実感の中で、理想や夢を追いかけているのは、一体、どちらの観客なのだろうか。どちらでもよい。それは、無関心の為せる1つの極意。ふざけたニヒリズム。
あの歌に、あの楽器たちに、あの舞台に…私も溶け込みたい。混ざりたい。影響し合う我々の空間共有以上の参加の精神を。ありったけの思いを。只管な好意を…ぶつけたい。吐瀉したい。
この時間が終わるような、次に耐え難い現実が私の目の前にやってくるような、土足で私の不可侵な聖域を侵す、現実という足音が…聞こえる。聞こえてしまう。それが憎らしくて、苦しくて、堪らない。
side-1.ただ1つの挿入歌。歌う演奏を見る私は現場には居ない。時間と距離を隔絶した日本的別空間、違和が正統的衝突を遂げるそのゆらぎの「あいだ」に僕らは存在を続ける。演奏というモノと私というモノ。全く違う我々が同時並列化される空間があった。その空間を記述するという試みが感想だが、冷静さを欠いていた。いや本来は欠くべきなのである。俗の空間=感覚の暴力が流れるように韻に満ちた音の濁流。
文体の崩壊。命の尽き果てようとも、超える思いをぶつける行為に…弾けるほどのキータイプに熱を出すという唯一の愛情。台本無き、熱を。思想無き、愛を。幼児的な「好き」を。離れたくない、我が儘を。ぶつける行為に全てを。
空間の切り替わり。全ての正常化、正しい循環に、仮想に浸かりきった私は、「そこ」が好きだからこそ、時間性を恐れる。正しい進み方をしないと…皆が迷惑してしまう事は、分かりきっているのだが、私が、自身が、その進みに、反抗し…て、しまう。
想像の世界からの反抗。戻ることなき、幻想の果てで、僕は誰かを相手にただ、甘えていたいから…無理が通る媒体で無理を言う。交通や交換、そういった他者と何かしらの生産行為をするという記号性に閉鎖的な土地で、僕は、僕の夢を1人で勝手に叶えながら、生きていく。そこに見果てぬものを見ようとする、中堅批評家のやりがちな作者の意図の外の外の外にあるものを、異常読解するという思想的試みをしたい。
全ては、あそこが素敵だから。何時迄もいたいから。離れたくないから。そのようなメンタルヘルスな感覚の私的肥大、その延長線上に「勝手」に配置した、個人的ユートピアにいる感覚を、あの乖離する、いや、乖離している感覚を引き継ぎながら、穏やかでいるために…穏やかでいなければいけないのだから。
鎮静が愛される周囲の環境。それら全てに唾吐くような言動。それは___確かな、演奏の感想。