接近6
何言っちゃってんの、あたし。
だめだ、動揺しすぎ。
ってか、あたし!先生!
もっと堂々としろってば。
春果君は、唐突にふっと笑った。
身にまとう空気が木枯らしから小春日和くらいに暖かくなる。
周囲の体感温度をコントロールできるなんて、すごい技術だ。
彼は、自分のストールを首から外したと思うと、あたしの首にふわっと巻いた。
爽やかなシャボンのような香りが、あたしの首元からさり気なく立ち上る。
春果君の温もりに、あたしの首が包まれる。
ほっ、心が和む。
「もういいよ。疲れてるのに、ごめんな。俺、実験に戻るから、また聞きに来るよ。三顧の礼って言うじゃん?まだ二回しか来てないし、心の準備だって必要だよな。でも次は三回目になるんだから、今度こそOKしてくれよ。あ、後、俺また夏菜の授業に出るから、よろしくな」
春果君は、ガラッと教室のドアを開けて、最後にもう一度振り返って人懐っこいエンジェルスマイルをあたしに投げかけて出てった。
ほんとに、よく笑う子だな。
会うだけで幸せな気分になれる。
あたしも見習わなきゃ。
しかし三顧の礼って諸葛孔明か、あたしは。
そんな大それたものじゃありませんが。
悪い気はしないけどね。
そこまでしてもらうほどの価値は、あたしにはないんだよ。
しかも、君たちなら、あたしじゃなくても頼んだら誰だって来てくれるでしょう。
特に女性教師なら諸手を挙げて、いい年して自推だってするだろうよ。
何か、今日も色々あって疲れちゃったな。
何だかんだで怒涛の数時間だった。
もう、さっさと宿題の採点終わらせて帰ろう。
学生たち、ちゃんとやって来てくれてるといいんだけど。
適当にされてると、それ直すのだけで馬鹿みたいに時間かかっちゃうから。
しかも、いちいち読まれるかどうかも定かじゃないコメント残してさ。
何となく、報われない感がこみ上げる。
あ、モヤモヤする。
自分が好きでやってる事だから、何も言う必要ないんだけど。
学生が悪い訳じゃ、もちろん無いし。
勉強は権利であって義務じゃないから、彼らが学問に対してどう言う態度で臨もうと、それは彼らの自由なんだよ。
そして、あたしがどんな風に授業を構成しようとも、基本要領に沿ってれば基本的にはそれも自由な訳だし。
自由な中で、敢えて時間のかかる方法で彼らの英語力を伸ばそうとしてるのは、”あたし”だ。
なのに何かスッキリしない。
ま、こんな日もあるか。
きっと、あたしクタクタなんだ。
少し休んだら、またやる気ちゃんも顔を出すようになるだろうし、今はやる気ちゃんにも休暇をあげよう。
やる気ちゃんの相方って何て名前なんだろう。
ダルダルだから、ダル気ちゃんか?
どっかの野球選手っぽくなっちまった。
ま、いいか。何か響きが可愛いし。
あたし、ダル気ちゃんとの上手な付き合い方も学ばなきゃね。
やる気ちゃんばっか可愛がってたら、ダル気ちゃんが拗ねて手に負えなくなっちゃうかもだものね。
よし、ダル気ちゃん、あたしは今あなたを心の最前面に置きつつも、それでもやらなきゃな事やっちゃうからね。
あたしは、気乗りがしない自分を敢えて叱咤して、学生たちの宿題を開いた。
面倒な事はサッサと終わらせなきゃ。
窓の外からは、燕のおちょくるような鳴き声がピーピー聞こえきてる。