ACT.2
タイトルを変更しました。
「セーフッ!!」
「アウトだ馬鹿」
汗だくで教室に飛び込んだ拓夜に、即答で担任女教師からの辛辣な声が掛けられた。
スタイルは悪くないが、綺麗というよりはカッコイイに類する顔立ちとスーツを若干着崩しているせいで不良教師にしか見えないのが欠点だ。
押さえ込んだ笑い声が、クラスメイト達から聞こえる。
「まぁ、最初だからいいか。さっさと座れ、那星」
担任からお許しが下り、拓夜はホッとして自分の席に着く。
教師としてそんな適当で良いのかとは誰もが思っているが、規則でガチガチに縛り付けられるよりはずっと良いというのはこのクラスの共通認識である。
拓夜のように、軽いことなら軽い注意で終わるのだ。……まぁ、逆もあるというわけだが。
その逆の説教を受けた人物曰く、生きた心地がしないというのは誰もが知っている噂だ。
「危なかったな、拓夜」
「侑士お前な……」
斜め後ろから掛けられた声に、拓夜はすぐ反応した。
拓夜の振り向いた先で、さっき彼に掛かってきた電話の主『瀬田侑士』は可笑しそうにケラケラ笑っている。
とはいえ、自分のミスで友人を巻き添えにするのは若干なりとも気が引けるので強くは言えない。
せめてもう少し早く電話を掛けてきてくれれば……とも思っていたが、もう過ぎたことなので今となってはどうしようもなかった。
「珍しいな、お前が遅刻なんて」
「こちとら無遅刻無欠席が取り得だってのに……しくじった」
「なんだ、なにかあった――」
「そこ、喋ってんなよー。特に那星」
2人とも、ビクッと肩を揺らして教卓に向き直る。
鋭い視線が二人を射抜いていたが、すぐに外れた。
「さて、おはようお前ら。あー、今日は特に連絡は無い。いつも通りだ。まぁ、問題なんかは起こすなよ? なにか私に用がある奴は直接来るように。以上だ」
朝のSHR、30秒足らずで終了。
それをいつものことと捉えたクラス委員長が号令を掛けて、クラスに喧騒が溢れる。
拓夜と侑士の二人も例に漏れず、会話を再開した。
「それで? 何かあったのか」
「……なんだっけな」
「おいおい、もうボケたか」
笑いを堪える侑士を睨みつつも、拓夜は今朝のことを思い出す。
――変な体勢で寝てて、何かに悩んでいたような"気がする"んだよなぁ。
この感覚に既視感を覚えるが、今の拓夜にはそれが思い出せなかった。
「そんなんじゃないっての。あー、寝ぼけてたんだよ。たぶん」
自分でも無理矢理気味な言い訳だとは思ったが、まともに覚えてないのだから説明のしようが無い。
「寝ぼけてたって、夜更かしでもしてやがったのか?」
「まぁ、そんなとこだ」
「エロ本でも読んでたってワケだな。期末も終わったのと夏場でテンション上がってるってのもわかるが、そこそこにしとけよ」
「違げぇよ!!」
即反論したが、一瞬で近くに居たクラスの女子から刺さる視線が冷たくなった。
見放すというか軽蔑の視線だ。ボソボソと小声で不名誉なことをつぶやかれている気もする。
ただ、拓夜が否定したところでその視線が消えるわけではない。
むしろ「心苦しい言い訳をしてるよアイツ」的な視線まで増えた。
拓夜は内心歯軋りしながら、机に突っ伏す。
――遅刻だったりこれだったり、今日は厄日かよッ!
放課後。
どこの部活にも所属していない拓夜は、大方の生徒より一足先に校門を出た。
昨日の雨など無かったかのように晴れた夏空の下を、強い日光に辟易しながら歩く。
――昨日の、雨?
不意に記憶の1ピースが戻ってきた。
だがそれ以外のことは思い出せない。いま拓夜が思い出せたことは昨日雨が降っていたということだけだ。
俺はどうしたんだっけ、と思いながら拓夜は歩を進める。
街路樹の下を、暑さ対策に影を渡るように歩く拓夜。
そんな彼の肩に、控えめな「あの」という声と共に手が掛けられた。
「あっ、はい?」
拓夜が振り向くと、そこに居たのは2人組みの男女。手を掛けているのはその男のほうだ。
二人とも拓夜と同年代っぽい容姿をしている。が、平日のこの時間帯に出歩いているのだから年上と考えていいだろう。
色素が薄いのかグレーっぽい髪を後頭部でポニーテールにしてまとめた女はつまらなそうにしているのがわかるが、目の前に居る男は目元の表情が垂れている前髪で見えない。
――まさか、カツアゲか!?
変に邪推した拓夜の表情の変化を気にしたのか、目元は見えないがキョトンとした表情をされたことがわかった。
変わらず、控えめで優しげな声で話しかけられる。
「えっとこの辺りの人ですよね? 近くに休憩できる、公園みたいなところって無いですか?」
どうやら、ただ道を聞きたかっただけらしい。拓夜の邪推は霧散して消える。
拓夜の住むこの街は、近場ではそこそこ賑わっている土地だ。
駅前には大型のショッピングモールがあるし、その付近にもアレコレと店が連立している。
なので隣町からやってくる人も相当数いるのだ。
この2人もその類だろうと推測した拓夜は、その問いかけに少し考えてから答えた。
道案内など何度もやったことだ。こういうやり取りにはもう慣れている。
「5分くらい歩けば、市民公園があります。案内しましょうか?」
「そうですか。それじゃお願いしても?」
「わかりました。じゃ、着いてきてください」
他愛ないやり取りをしながらも、目的の公園には拓夜の宣言通り5分程度で辿り着いた。
平日ということもあってか、公園に人影は限りなく少なかった。
案内を終えた拓夜が今度こそ帰ろうと背を向けたところで、再び声が掛けられる。
「すいません、後一つ、良いですか?」
「なにか?」
「お願いというか――
――我々のために働いてくれ、那星拓夜」
ゾクリと背中を冷たいものが伝う。
あの優しげな声音はどこへ行ったのか。突然切り替わった男の、冷たく鋭利な言葉が拓夜の耳に飛び込んだ。
なぜ自分の名前を知っているのかと問い質すこともできなかった。
自分の内になにか異質なものが入り込んできた気がする。
胸の中心を起点として体内を駆け巡る不快感は末端に向けて進んでいく。
何にも例えられない不快感は、確かに拓夜の体を侵食している。
既に、まともな思考は拓夜から奪われていた。
なにがなんだかわからない拓夜の精神を、"ナニカ"は蹂躙していく。
焦点が合わない。世界が揺れているように視界が揺さぶられる。
耐え切れずに、拓夜はその場で膝を着いて両手を地面に着いた。
太陽に熱せられて熱い筈の地面に手を着いているのに、熱く感じない。
五感がまともに機能していない。拓夜が感じ取れる情報は全てデタラメになっていた。
シェイクされミックスされた感覚が、吐き気すらも呼び起こす。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――――ッ!!
――じゃあ、壊しちゃおうよ。
グチャグチャになった思考の中へ投げかけられた声で、水滴が水面に落ちた時のように波紋が広がった。
――気に入らなければ、壊しちゃおうよ。
さらにもう一度、同じ感覚が拓夜の中に広がる。
たったそれだけで、混乱していた拓夜の思考はひどく澄み切った状態になっていた。
座禅を組んで精神統一をしている時のような、『無』。
――さあ、壊そうよ。
また、もう1滴。
だがそれは『無』ではない。
確固たる色を持った雫が、『黒』が、水面を揺らす。
『無』の中に落とされた、『黒』。
澄んだ水の中に落とされた墨汁は、水を薄黒く濁らせる。
それと同じように『無』の中に落とされた『黒』は無を染め上げた。
拓夜は自分の内で、何かが崩れ去っていく音を確実に聞いた。気分が晴れていく。
天地が逆転したような感覚も、世界が揺さぶられているような感覚も、体を浸食していくナニカも、全てが崩れ去る。
残されたのは、体の奥で燻ぶる熱だけ。
触れている地面の暑さも、見えている地面も、風の音も、元通りしっかりと感じられる。
虚ろになりかけていた意識も、確かに覚醒する。
それを確信した途端、燻ぶっていたはずの熱も違和感も、無かったように消え去った。
全てが、元に戻った。
大急ぎで立ち上がり、目の前に居る男から数歩距離を取る。
男はなにやら驚愕したような顔で拓夜を見ていたが、拓夜にそんなことを気にしている余裕は無い。
十分と思える距離を取った拓夜は、男を睨みつけた。
「なにしやがった……!!」
若干放心していたのか、男は拓夜の怒鳴り声で肩を揺らして目を見開く。
「まさか……俺の『操り人形』が破られるなんて」
「なにゴチャゴチャ言ってんだよオマエッ!!」
「いやぁ、ちょっと驚いただけだよ。初見で抵抗されるなんて思ってもみなかったからさ」
面白いものを見つけたような表情で、男は拓夜を見る。
前髪をかき上げ、紫色に染まった瞳を露にした。カラーコンタクトではない。
それを見た拓夜は、その異様さに1歩後ずさる。
「君も"ホルダー"なら、これでわかるだろう?」
「ホルダー? 何だよそれ」
「……知らないのか?」
怪訝な顔をした男は、「まぁいいか」とつぶやいて髪を下ろした。再び瞳が隠される。
「どうやら君の性格と我々の目的は相容れなさそうだ。邪魔になりそうな芽は早めに摘んでおいたほうがいいとは思わないかい?」
「どういう意味だよ」
「そのままさ。――燕理、焼き尽くせ」
「了解しました、操者」
踵を返した男を拓夜が追おうとしたところで、男を庇う様に燕理と呼ばれた女――改めて見るとまだ少女の方がふさわしいかもしれない――が前に出てきた。
「終わったらいつもの場所に帰ってくればいいよ」
少女にそれだけ言い残して男は立ち去ろうとしたが、振り向いてもう一度拓夜を見る。そして口を開いた。
「何も知らないまま終わるのはつまらないだろう? 冥土の土産に俺の名前を教えてあげようと思ってね。――『藍童蓮珠』、それが俺の名前だよ」
「おい、待てッ!!」
拓夜が上げた声など気にせず、男――藍童はその場から消え去った。
立ち去ったのではない。正真正銘、前触れも無く"消えた"。
近くに居るのかもしれないと周囲を見回したが、どこにも居ない。
それどころか公園内に居たはずの人間は、拓夜と燕理を除いて誰も彼も消えていた。
「一体、なんだよ、なんなんだよこれは!?」
「『結界』です。この空間を世界から隔離しました」
驚愕が多分に混じった拓夜の叫びに答えたのは、燕理だった。
無感情の瞳を拓夜にむけ、無感情な声を唇から紡ぎだす。
「誰にも邪魔されることはありません。操者の命により、あなたを焼去します」
燕理の周囲の空間が、陽炎のように揺らぐ。
彼女が手のひらを上にして横に突き出した手の上には、炎球が浮かんでいた。
それを見た拓夜の顔がひきつる。
「嘘……だろ?」
――そして物語は、始まりを迎えていく。