09 大失態
クラークが面会したい旨を伝えて取次ぎを頼み、しばらく待った。承諾をもらってバートはエリザベスの部屋の扉を叩く。
廊下に立っている、背後のクラークはものすごい威圧感を発している。緊張からなのは理解できるが、ここまでくれば殺気の域だ。少しは落ち着いて欲しいと忠告しようと振り返ったバートは、クラークの表情を認めて黙って背を向ける。
侍女が扉を開けて、二人は中に通された。
エリザベスの私室はこじんまりとしている。さすがに寝室は別だが、城の王妃の間と比べると何もかもの距離が近い。一人掛けの椅子が女性用で小さいためそちらにエリザベスが座り、クラークは長椅子に腰掛けてバートが背後に立つ。
応対したエリザベスは、よそよそしかった。
「ウォーレン卿、どのようなご用件でしょう」
お茶を一口ゆっくりと飲み、そして一言。王妃であった時以上の繕った表情で、いきなりクラークの出鼻はくじかれる。
城を出てからのエリザベスが日に日に塞ぎこんでいるとは、付かせた騎士からの報告で知ってはいたが、実際目の当たりにすると確かに元気がないようだ。
馬車の旅が辛いのだろうか? それともカデルを離れることが辛いのだろうか。
クラークがもう少し冷静だったら、あるいはエリザベスの心中が察せられたかもしれなかった。ただクラークはようやくエリザベスを訪問する口実ができ、城の王妃の間よりも彼女自身の個性を感じさせる部屋に通されたことで、少々落ち着きをなくしていた。
カデルの城を出てからも、景色を眺めるために少し馬車の窓を少し開けてもいいかと人づてに問われて、警備の関係上細めにならと返答したのがエリザベスとの接触といえる程度だ。
エリザベスは配慮してくれたのか、わずかにカーテンを開けただけですませてくれてクラークを煩わせることはなかったが、馬で要人の馬車の周囲を付いてくクラークが外からエリザベスを見ることもかなわなかった。
途中で寄った貴族の館でも国王の遺児と母親を優先させるようにとの申し出があって、エリザベスは女主人の部屋に入りたがらずにいた。
女主人の部屋に入ってくれたなら、ハーストの国王陛下とほぼ隣り合わせになるので姿を垣間見たりできただろうが、入ったとしてもほとんど出てくることはない。義務から同席する夕食の席でも目を合わせてくることもなく、終われば部屋に引きこもる。
結局接点らしい接点もなく、ここまで来てしまっていた。
ようやく会えたと思えば、親しみのかけらもない。元々親しくもないのだが、一層強固な線引きがされたように思えた。
それでも小さな卓越しという近い距離で目の前に座ったエリザベスが、自分に視線をよこしただけでクラークの心臓は情けないほどに跳ね上がった。
「ほかでもないのですが、こっ……こ」
「――鶏ですか?」
「いや、こ、子供についてです」
「王子や姫君達になにか?」
とたんにエリザベスが心配そうな顔つきになる。国王の遺児達は詳しい事情は知らされず、ただ母親と一緒に馬車で旅をしていると思っている。自由に外に出られないのが不満なようだが、貴族の館の庭では厳重な警備のもとで遊ぶこともできて、それなりに楽しんではいるようだ。
それでも大人でも座りっぱなしを苦痛と思う馬車に揺られる旅だ。体調でも崩したのだろうか、とエリザベスは染み付いた王妃としての責任感から気遣わしげにクラークの言葉を待った。
まるで縋られているような――クラークにとってはある意味目の毒な表情だった。
背後のバートは、クラークの耳が見る間に赤くなるのに気付いた。
おいおい大丈夫か? 親父殿、頭に血が上っている。危惧するバートの、その憂慮は不幸にも的中してしまった。
「そちらには問題はありません。実は子供……子供を産ませたいと思いまして」
「ウォーレン卿? お話がよく……」
エリザベスが小首をかしげた。その仕草はバートでさえ可愛らしいと感じられるものだった。
だから、至近距離のクラークなどひとたまりもなかった。
「どなたの子供でしょうか」
「わ、たしの、私のです」
「それがわたくしに何か関係がありますでしょうか」
「あります、大ありです。私はあなたにと願っているんです」
クラークはそれ以上続けられなかった。頭がうまく回らずに適切な言葉も思いつけずに、途切れてしまったのだ。
エリザベスの私室の空気が凍る。壁際の侍女もエリザベスに付いているハーストの女性騎士も、バートも信じられない告白に硬直してしまっていた。
当事者のエリザベスは、クラークを見つめたまま碧の目を丸くしている。
だが、次第に細められて冷ややかで剣呑ですらある光をたたえた。
静かに持ったままだった茶器を小卓に置いて、抑揚のない低い声を発する。
「ウォーレン卿はお帰りです。お見送りはいたしません。わたくしは気分が悪いので休みます。食事は不要です」
一息で言いきると、すっと立ち上がって寝室の扉を開けてすばやく閉めた。中から鍵のかかる音がする。脱兎のごとくエリザベスがいなくなっても、呪縛はとけずに皆、そのままの位置から動くことができない。
一番早く立ち直ったのが、バートだった。
後ろからクラークの肩を手でつかんでゆさゆさと揺さぶる。
「おやじっ、親父殿、何てことを。あんた、なに言っているんですか」
「なにって、私は子供を……」
「子供じゃなくて子馬でしょうがあぁぁっ。親父殿、何を言ったか分かってますか?」
がくがくと揺さぶられながら、クラークは会話を振り返る。
――私(の馬)の子供をあなた(の馬)に産ませたい。
――私はあなたにと願っている。
バートは突然立ち上がったクラークに気おされて半歩後ろに下がった。はじめは微動だにせず、次第に小刻みに揺れる大きな体躯がぎこちなくバートを振り返る。
そこにはさっきまでの赤みが消えうせた、それはそれで恐ろしい熊親父がいた。
「バート、私は――もしかしてやってしまったのか?」
「もしかしなくてもそうです。すぐにお詫びと訂正を」
ふらり、とよろめくように足を出したクラークが、次にはすごい勢いでエリザベスの消えた寝室の扉へと取りすがった。
どんどんと扉を叩きながら、必死に声をかける。
「すみません、レディ・エリザベス。さっきのは間違いです。あなたではなくて――」
中からは何も反応はない。それが心底恐ろしくて、クラークは中のエリザベスに聞こえるようにと大声を張り上げた。
「レディ――っ、聞いてください、エリザベス。産ませたいのはデボラ号にです。私の馬のウルスス号との子供をと思いまして。あなたさえ良ければ、デボラ号をハーストに連れて行きたいのです」
どんどんと叩いても、扉の向こうからは何も返ってはこなかった。その場にうずくまり項垂れたい、いや自分で穴を掘ってでも入りたい心境のクラークの耳に、かちりと小さな音が届く。
凝視するクラークの前で扉が小さく開いた。向こう側から扉の影に隠れているのだろう、姿は見せないながらもエリザベスがクラークに声をかけた。
「デボラをですか」
「え、え。拝見しましたがあれはいい馬です。うまくいけば優秀な子馬がと思って……」
「連れて行ってよろしいんですか?」
「勿論です。そのためにお願いにあがったのです」
ようやく扉がそれまでよりも大きく開いて、エリザベスが顔を見せた。さきほどの剣呑な光は瞳には宿ってはいない。
扉を挟んで対面できてクラークは心底ほっとした。仮にも一国の王妃だった女性に何てことを言ってしまったのだろうか。
「先ほどの発言は申し訳ありません。あなたではなくて……」
「承知しました。誤解はとけましたから大丈夫です」
エリザベスはクラークを見上げた。バート達にはクラークの大きな背中が壁になって、エリザベスの表情は分からなかった。
クラークにエリザベスがかすかに笑いかけたのだ。
「あなたはわたくしの夫と父を遠ざけたお人です。その方がわたくしとなんてありえないのに、早合点をしてしまいました」
「それは……」
「デボラを連れて行けるのなら嬉しいです。ありがとうございました。子馬については相性もあるでしょうから、時期がきたらでよろしいでしょうか」
こくりと頷くクラークに、エリザベスは軽く頭を下げて扉を閉めた。
クラークはしばらく扉の前でじっとしていたが、きびすを返した。侍女と女性騎士にくれぐれも口外しないようにと、本人は依頼のつもりだが他者からすれば軽い脅迫をかけて、バートとともにエリザベスの私室を後にした。
クラークの部屋で、バートはまず水差しから注いだ水をごくごくと飲み干した。ついで許可も取らずに酒瓶を開封して、同じくあおる。
「親父殿」
「言うな」
「おやじどの」
「だから、言うな」
クラークは寝台に突っ伏している。時々獣じみた呻き声をあげて髪の毛をかきむしる。
バートは熊親父がいよいよ壊れたかと、醒めた気分で酒を注いだ。
「いくら願望があるからって、いきなりあれはないでしょうが」
ぐうっと呻く声がくぐもる。頭を抱えて寝台に突っ伏す姿は、お気楽三人組が目撃したなら格好の酒の肴になるはずだ。
バートにしてみれば、身悶えるおっさんなど別に楽しくもないが。
「しかもどさくさにまぎれて名前を呼び捨てにしているし」
「私はそんな」
「『聞いてください、エリザベス』確かに言いましたよ、親父殿」
もはや唸るばかりの熊親父をやれやれと呆れながらも、バートは少々気の毒にも思った。ここで至って単純な事実が浮き彫りにされたからだ。
エリザベスにとってのクラークとは。
クラークも自覚をしたのだろう。バートには見られたくないのか向こうに顔を横向けて呟いた。
「いやでも宰相殿を思い出す場所だ。あの人がよそよそしくて当然なのに、私は何をやっているんだろうな」
「親父殿……」
「夕食後に陛下のところにうかがうが、それまでお前は自由にしてろ」
杯に残った酒を飲み干してバートは廊下に出る扉に手をかけた。
「でも、まあ親父殿。いつか実現したらいいですね」
「何がだ」
「子供ですよ」
「ばっ、か者。さっさと行け」
下手すると枕ではなく短剣でも飛んできそうだったので、バートは素直に部屋をあとにした。
そして想像してみる。赤ん坊を抱いた熊親父。
宙を睨んで、想像力も限界になったのか、バートは腕をさする仕草を見せて騎士の詰め所に向かう。
明日からはエリザベスの馬の手入れも仕事の一つになるだろう。
異常に疲れた夕刻のできごとだった。
そしてバートもクラークも知らなかった。寝室にこもったエリザベスがクラークの発言を思い出しては、勝手に熱くなる頬に手をあてて冷まそうと努力していたことを。