06 次の山
「親父様が変だ」
「変だな」
「ああ、変だ」
昼食時の賑やかな一角で、心持ち顔を寄せ合うようにしているのはヒュー、ルイス、イアンだった。
宰相の件の前後はさすがに重苦しい雰囲気だった城も、いよいよハースト国王を迎えるとあって活気と緊張を取り戻していた。毎日の報告も、ハースト国王が順調にカデルの王都に向かっている様子を伝えている。
鍛錬も再開されて彼らは熊親父からきつい、いや、ありがたい指導を受けている。表面上は別に変わったことはないのだが。
スープをすくいながらヒューが。
「なんだか、全体的に挙動不審だ」
パンをちぎりながらルイスが。
「じっと手を見ては溜息ついてた」
あぶった肉を咀嚼してイアンが。
「咲いている花の前でうずくまって、唸ってた」
それぞれの目撃情報を持ち寄り、やはり熊親父が変だとの結論に達した。
特に最後の花の前で唸る熊親父情報は、想像したヒューとルイスの顔に何ともいえない表情しか浮かばせない。
熊親父と花。何の取り合わせだ。
恐ろしく似合わない。全く似合わない。親父に似合うのは戦場であり、殺伐とした雰囲気であり、熊であり……。
手にするのならハルバード。あるいは戦場で死体の前であろうと、平気でかぶりつく肉のはずだ。
「邪魔な場所に生えているから抜こうとしていたとか?」
「いや……なんていうか、確かにものすごい形相で眺めてはいたけどな」
「花が不憫だな。親父様が睨みつけたせいで枯れてなかったか?」
こそこそしゃべりながらも、しっかり食事を平らげていた三人の頭上から声がかかる。
声の主はバートだった。
「もうすぐ昼休憩は終わりだ。さっさと持ち場に戻れ」
副官の指示にがたがたと椅子を引いて食器を戻しに行く三人の背後から、バートは誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「変ではない。あれは、恋だ」
そして自分の台詞に怖気をふるったように、肩をすくめた。
王妃は宰相の件から数日寝込んだ。途中で熱も出し、無理をしていた体がようやく悲鳴を上げたような状況だった。最初の一、二日はこんこんと眠り続けた。
やっと熱も下がり始めて目を覚まし、慣れた寝台に横たわっているのに気付いて体を起こそうとする。
「王妃様、お目覚めですか。ようございました。一時はかなりお熱が高くて、皆が心配しておりました」
「そう……だったの」
痛む喉を叱咤して声を出し、侍医の診察を受けた後で果汁を少し口にした。
薬を飲んで再び寝台に横たわる。
「わたくし、礼拝堂にいたと思うのだけれど」
「ええ……あの、ハーストの騎士団長様がおいでになって、その……」
礼拝堂でも側に控えていた侍女が、言葉を濁した。
エリザベスは思い出そうとして額に手を当てる。確か、ウォーレン卿がやってきて父の棺に髪の毛を入れてくれたと、そして形見を渡してくれた。
それから……どうだったのだろう。
「記憶があいまいなので、覚えていることを教えて」
「は、い」
侍女から形見を渡された後で、ウォーレン卿をなじり、胸をこぶしで叩いた挙句、そのまま泣いて気を失った経緯を知った。
あまりの事実になかったことにしてしまいたいと真剣に思った。
どれをとっても王妃の振る舞いには相応しくない。
何よりエリザベスを打ちのめしたのが、ウォーレン卿の胸にすがって泣いた、そして抱き上げられて王妃の間に運ばれたという点だった。
『泣いて構わないのです。そして恨むのなら私を恨んでください』
気負うでもなく、自分に酔っているのでもなく、淡々と当然のことのように告げられた内容が口調とともによみがえる。
真に受けたわけではないだろうが、確かにそれでたがが外れたのは感じた。
爆発するような怒り、悲しみがそのまま前に立つウォーレン卿に向けられた。
何もかも奪っていく象徴のウォーレン卿。その胸で泣いた挙句に抱かれて運ばれたなんてと、エリザベスは両腕を抱きしめながら唇を噛む。
うつうつと考えているとまた熱が上がってしまい、慌てる侍女に上掛けを増やされてエリザベスは大人しく眠ることにした。
王妃の病状の経過はアラステアから知らされる。
懸案であった宰相の件が済んで、次の山場は言うまでもなくハースト国王陛下の入城と条約の締結だ。
それをもって戦は正式に終了する。無事にハースト国王とカデルの王族をハーストに送るまでは、気を抜くことは赦されない。
「王妃様のご病状は徐々に快方にむかっているそうだよ、クラーク」
「そうか」
宰相の執務室だった部屋を引き継いだ形のアラステアは、そっけないクラークに片方の眉だけを器用に上げた。
外見で恐れられることの多い騎士団長だが、その中身は最上だと知っている。
戦場の悪鬼が最近どうにもその平静さを欠いているのにも、何となく気付いている。
ただクラークが口を開かないのであれば、それは話す時期ではないと判断しているか話す意思がないかだ。
アラステアは何も言わずに、連絡事項のやり取りに戻った。
執務を終えたクラークは視察と称して愛馬に乗り、城下へと駆けていった。
翌朝、解熱したエリザベスはふと花瓶の花に目をとめた。実家の周囲にも咲いていた、エリザベスの好きな花だった。
「これは?」
「王妃様へと。護衛の方が持っていらっしゃいました」
「そう……良い香り。どなたが……」
「それが、カデルの者らしいのですが名前を失念したと。調べて害がなさそうだったからと、持っていらっしゃいました」
エリザベスは懐かしい香りを吸い込み、柔らかく微笑んだ。
その頃王妃の間の扉の両脇に護衛として付いていたイアンとルイスは、目で合図を交わしていた。
すなわち、何も見ていない。何も知らない。互いにそれを確認する。
脳裏には夜更けにやって来て、恫喝ともいえるほどに低い声で囁いた――。
『お前達は何も見ていない。いいか。いいな』
こくこくと頷くと、じっと扉を見やって重量感を感じさせずにきびすを返し、足音も立てずに立ち去った後姿は。
見てはならないものを見てしまったイアンとルイスは、誰にも言えない重い秘密を抱えることになった。
「親父殿。朝食にしますか?」
「そうだな。もう少し後にする」
「分かりました。用意はできていますから、いつでもどうぞ」
くん、と自分の服の袖を嗅いで立ちのぼる、似つかわしくない香りにクラークは渋面を作った。
夜勤を終えて無言で食事を取っていたイアンとルイスの間に、背後から小さな袋が現れた。バートがルイスに小袋を押し付ける。
「親父殿からだ。非番で花街に行く際の足しにしろだと」
馬鹿騒ぎは起こすなよ、と一応の忠告をしてバートは立ち去る。イアンとルイスは、何でお前らだけと文句を言うヒューに構う余裕もなく、よこされた小袋の意味を考えた。
「これって口封じ……」
「それを言うなら口止めだろうが」
しかしクラークなら、むしろ口封じという表現の方が相応しいように思われた。
後日イアンとルイスはヒューと一緒に花街へと繰り出すが、酔っ払ってうかつなことは口に出せないと酒に対しては妙に自制する様子を見せて、付き合いが悪いとかえってヒューの不審を買った。
エリザベスは小さな花束を持って礼拝堂に行き、長い祈りを捧げた。
そして城はぴんと張り詰めた緊張に包まれる。
整然とした隊列、翻るハーストの旗。
前後を騎馬に守られて到着した馬車から出てきたのは、ハースト国王であるレジナルド・ブリス・キングスリー・ハーストその人だった。
青年から壮年の間の偉丈夫、とカデルの者の目には映った。
年の頃は三十半ばだが、落ち着いた様子はもっと年上に見える。ゆったりと出迎えの一同を見渡す。膝をつき、頭を垂れたクラークを認めて声をかける。
「ウェンブル伯、ご苦労だった。ドーズ伯もな」
同じく丁重に出迎えるドーズ伯、アラステアにも声をかけてハースト国王は城を一瞥する。
クラークとアラステアを左右に従えて、ハースト国王は一歩を踏み入れる。
そこには深く礼を取った敗国の王妃、エリザベスがいた。
ハースト国王はつかつかとエリザベスに歩み寄り、手を取って顔を上げさせた。
「私がハースト国王、レジナルド・ブリス・キングスリー・ハーストだ」
「わたくしがカデル国王、ウィリス・アーロン・カデルが妃、エリザベス・アン・カデルにございます」
顔を上げた一瞬、視線が自分をとらえたようだとクラークは思う。
名状しがたい色をのせた碧の瞳は、次にはクラークから外された。
ハースト国王は礼儀正しくエリザベスを伴い、歩いていく。
二人の後ろに付きながらクラークは黒い衣装に身を包んだ王妃の、背中に現れている緊張を感じ取った。
エリザベスには辛い作業を強いる。カデルを終わらせ、ハーストの下で再生させる幕引きを担わせる。
それでも俯いたりせずに頭を上げて姿勢よく歩む王妃は美しい、と貼り付けた無表情の下で感心した。
宰相の家の者に聞いて用意させ宰相の墓にも供え、城へと持ち帰った花に似た凛とした様子から目が離せなかった。