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この危うい関係  作者: 素子
本編
45/52

45  大暴走

 ハーストの王族に連なる女性が最初の院長となったと聞く女子修道院は、古い様式の建物だった。その小さな古い修道院はのどかな風景に溶け込んでいる。俗世とは過ぎゆく時間も違うような気がする、とエリザベスは修道院の全景を見下ろせる丘から思った。

 あの門をくぐれば前の身分は意味をなさず、ただ神のもとに祈りを捧げる修道女になる。生活の全ては神の教えに基づくものであり、教義を学び広めて慈善に尽力し奉仕を通じて己の魂も救済する。


 泣いたり笑ったり怒ったり、異性と近しくなる故に思い悩むことはなくなる。

 心をざわつかせたり波立たせることもなくなる。


「レディ?」

「あ、はい、なんでしょう」


 物思いに耽っていたエリザベスは、突然の呼びかけにデボラの上ではっとする。

 クラークが気遣わしげだった。ちり、と胸を焦がし、それを押し殺してエリザベスはゆっくりと口を開いた。


「あれがそうですのね」

「我々の到着を……待っておいででしょう」

「それなら、ここでゆっくりしているわけにはまいりませんね」


 デボラに合図を送れば飲み込みのよい愛馬は歩き出す。

 馬上で揺られながら、エリザベスはクラークと共に眺めた光景をしっかりと覚えておこうと遠くを見やった。


 カデルの王城での初対面のこと、父の形見を渡してくれた礼拝堂でのこと、カデルからハーストへの移送、クラークにとっての帰還の途上で実家に立ち寄ったこと。

 しきたりなどという数々の不作法な振る舞い。平和な光景に胸が締め付けられた際に温かな壁となったこと。

 宴でやきもきしてしまった出来事や、扉を閉じて二人きりとなった執務室での『不作法』なやり取り。死ぬかと思った瞬間に救い出してくれた圧倒的な存在を。


 ハーストの悪鬼と恐れられた外見や武勇とは裏腹の礼儀正しさや意外な細やかさも。

 鋼のような体躯が思いがけず優雅で繊細で、でも強引だったのも。

 傷と髭を指でたどった際の、どうにも気まずそうな揺れる瞳を。

 これから暮らす場所ではけして無縁のこと、だ。なにより俗世の欲や感情とは切り離された世界に身を置くのだから。


 心の中の最も柔らかい場所に、そっとしまって鍵をかけなければ。


 道行きに障害など何一つないまま、エリザベスは修道院に到着した。

 数名で出迎えてくれた中に年かさの修道女がいた。落ち着いてゆったりとした物腰にそうではないかと見当を付けたが、果たして院長と名乗る。


「ベアーズリー修道院にようこそ。私は院長を任されておりますメイベル・コリガンです」

「エリザベス・アン・プレストンと申します。このたびは願いを聞き入れてくださり、感謝の念にたえません」

「神に仕えようというお心に誰が否と言えますか? 私達は神の下で友人となり姉妹となるのです。ようこそいらっしゃいました」


 否、そこは否だろう、おっさん否と言えよとエリザベスの荷を持って熊親父の斜め後ろに控えていたバートは、唇を引き結んだ。

 荷は小さく軽い。着替えといっても以後は修道女の衣装だからと数は少なく、華美とは無縁の生活なのでと装飾品も形見しかない。あとは病人の世話も修道院の生活の一部になると、薬や乾燥させた薬草が入っている。

 細々した物を加えてもこぢんまりとしたものだ。


 むしろ周囲が物々しいくらいで。もう襲撃はないだろうと思えても武装した一団は修道院とはそぐわない。第一人並み外れた大きさの馬と熊親父がいるのだ。

 横にいたエリザベスは、相対的に小さく頼りなく見えた。


「ウェンブル伯……いえ、侯爵におなりでしたか。久しぶりにお目にかかりましたね」

「はい。院長様にもお変わりなく」


 知己があるらしく挨拶を交わし、院長の先導でエリザベスとクラーク、バートが中へ入り残りは散開して待機となる。

 応接室として使っている部屋に通され、三人が腰を下ろしバートは隅に控える。

 茶が供され、いっとき部屋の中は沈黙で満たされた。


「改めてベアーズリー修道院にようこそ」

「どうぞよろしくお願いいたします。修道院に入るにあたり、終身相当の寄進についての文書を整えたいのですが」

「……ありがたい、お心遣いに感謝いたします」


 修道院はどこも経営が厳しい。清貧を旨とする院が多く信徒からの寄進も追いつかないことが多い。貴族からの寄付、有力者による保護などがなければたちゆかない。

 ここは比較的身分の高かった女性が入る修道院なので、終の棲家へと最初にかなりの財産を修道院側に渡す。エリザベスも例外ではなく、母親の持参金代わりの領地からの収入を現金化したものと、地所の目録を持参している。

 クラークとも相談しての対応だった。

 院長は目録に目を通し、金子の入った袋を受け取って短く祈りを捧げた。


「確かに、受け取りました。レディ・エリザベス、今はまだレディと付けさせていただきます。ここでの生活は楽ではありません。どうぞお含み置きください」

「承知しております。色々と教えてくださいませ。わたくしにできることがあれば、是非やらせてください」


 院長とエリザベスは和やかに会話をしている。

 クラークはむっつりと黙り込んだまま、じりじりと時間が過ぎゆくまま、何もできないでいた。


「修道女への誓願の署名をなさる前に、院内をご案内いたしましょう。所用を済ませて戻ってまいりますのでお待ちください」

「ありがとうございます」


 院長が退席し、クラークと、エリザベスと、バートだけが残された。

 部屋の扉は開いたまま。修道院でも、いや修道院だからかそのあたりへの配慮は厳しいようだ。

 しん、と沈黙がおちる。

 エリザベスは残った茶を飲んで、また戻す。

 クラークは両手をきつく組み合わせて膝に乗せていた。


「クラーク、様」

「何でしょうか」

「色々、ありましたね」


 扇子を開いてエリザベスがぽつりと呟く。クラークは複雑な透かし彫りを施した金属の細工物よりも、それを操る手に意識を奪われていた。じっと細工に見入る顔にも。

 あまりにも凝視していたものだから、ふと顔を上げたエリザベスとまともに目が合った。バートが固唾を呑む中、肝心の二人はためらいの空気を発しつつも、一瞬生じた緊張が霧散していく。


「レディ……」

「お待たせいたしました。参りましょうか。……申し訳ないことですが、この先殿方はご遠慮願います」


 エリザベスは扇子を閉じて立ち上がった。つられてクラークも腰を浮かせる。

 扉まで一息でたどり着き、クラークが扉を押さえる。エリザベスが扉の手前で足を止めた。手首から扇子に連なる紐を抜き、要の部分をクラークに向けた。


「お持ちください。もうわたくしには、必要のない物です。クラーク様」

「レディ」

「どうぞお元気で。皆にもよろしくお伝えください。――では、ごきげんよう」

「――レディ」

「……最後まで、名前を呼んではくださらなかったのですね」

「今、なんとおっしゃいました? 声が小さくて」


 吐息とともに最後の言葉を囁いて、質問に答えることなくエリザベスは礼を取ってから扉をくぐった。外で待っている院長の後ろについて奥へと続く廊下を歩き出す。

 振り返らず頭をしっかりと上げて。背中はぴんと伸びて緊張を保ったまま。



 クラークは扉に手をかけたまま、少しずつ小さくなるエリザベスを見送った。

 そんなクラークは背後から衝撃を受けた。首を巡らせると、怒りと焦りを全身にまといつかせたバートが握りしめた拳を震わせている。


「私の背中を殴ったのか、何故だ」

「おっさん、レディは最後に何を言ったんです」

「声が小さくて……最後まで名前を呼んではとかなんとか」


 おそらく渾身の一撃だったのだろう、痛む背中にクラークは眉をしかめた。


「名前? 名前を呼んでとは……」

「どういうつもりだ、思い切り殴りつけるとは」

「おっさん、レディのお名前って呼びましたっけ」

「は?」


 呆気にとられた熊親父の前で、バートは腕組みをしたままぶつぶつと何事か呟いた後でおもむろに切り出した。

 それよりもだ、とクラークは会話に注意を戻す。バートは恐ろしく真剣な顔つきだ。

 名前を呼んだかと問われて記憶を探る。

 ――エリザベス・アン・プレストン。

 たいていレディ、とだけだった。名前を呼んだのはいつだったか、子供を産んでほしい発言をして引きこもられた時と、夜会で毒に倒れた時と襲撃のどさくさでか……それ以外は『王妃様』と堅苦しく呼びかけた『レディ・エリザベス』だった。


「呼んでいない」


 面と向かっては呼んでいない。だがそれがバートの殴打とどう繋がるのか理解できずに、腕ぐむ副官を見つめる。

 そのバートはぐっと鳩尾あたりを服の上から押さえ、表情を歪めたかと思うとぎっと睨んでくる。


「後悔しませんか。婚約は破棄、女子修道院に終生入られる。名前も呼べずに、このまま永遠の別れですよ」


 クラークは歯を食いしばった。

 後悔などとっくにしている。逃げられるのが確定した日からずっとだ。手も足も出ず、扇子だけを残して消え去ろうとしているのに後悔しないはずはない。

 バートどころではない迫力で睨み付けると、腕組みを解いたバートが真摯な表情を浮かべた。


「一生未練がましく生きるつもりですか、親父殿」

「煽るな……と以前にも忠告したはずだ」

「このままでいいかと聞いているんです。レディのお名前も親しく呼ばないまま、ぐじぐじと過ごすつもりなんですか」

「言わせておけば……」


 後悔や未練や失恋の痛みなどの負の感情が副官に向かうと自覚しながら、クラークの身内に怒りの火が灯る。それをバートは見逃さなかった。


「おっさんの先祖は山賊でしょうが。惚れた女をさらった最悪の人でさえ、きっちり繋ぎ止めて伯爵家を興したってのに。何もせずに尻尾巻いて子孫が退却したら、呆れてものも言えません」

「お前……」

「欲しくないんですか」


 するりと頭の中にバートの質問が入り込んだ。


 ――欲しくないのかだと? 欲しいに決まっている。


「どうせならやって後悔すればいいんです。いくらでも慰めますよ」

「焚きつけて、どういうつもりだ」


 片足に重心を乗せて砕けた雰囲気のバートが、熊親父の肩越しを眺めやる。


「先祖返り、したらどうですか」


 ちらり振り返り、熊親父はバートに向き直る。

 恐ろしい沈黙がおりる。バートは空気に息苦しささえ覚えながらも、じっと待つ。

 

 しばらくしてからバートを射貫かんばかりに見つめ、体ごと扉にねじった。


「後は、頼む」

「俺は副官ですよ。お任せください」


 大きな体躯が勢いをつけて走り始めた。バートも後に続く。



 エリザベスは院長に修道院内を案内されていた。礼拝堂、修道女の住まい、作業の小屋。畑や庭なども。

 薬草の扱いと薬作りが得意と話すと院長はたいそう喜ぶ。修道院を頼ってくる病人も多いので、エリザベスの技能は大いに助けになるだろうと期待された。

 役に立てるのなら、とエリザベスも安堵する。

 俗世では役に立っている実感が希薄だったので、必要とされているのなら嬉しいしやりがいもあるというものだ。


 さして広くもない女子修道院なので大まかな見学は済んでしまい、あとは修道女に紹介してから細かいところを教えると言われる。

 院長の指示に頷いて応接室に戻ろうとしたエリザベスは、迫り来る慌ただしい音に足を止めた。

 音の出所を確認する前に、唐突に抱き上げられて視界がぶれる。


「ク、クラークさ、ま? ここは男子禁制の区域です。はなしてください」

「ウェンブル侯。なにをなさるのですか」

「非礼はわびます。後で改めて話はつけます。――が」


 腕一本でエリザベスを抱き上げたクラークは院長に断りを入れてから、走り去る。

 去り際に怒鳴った。


「この人は神にはやれん」

「お待ちを、侯っ、レディッ」


 慌てる院長を置き去りに、クラークは門へと恐ろしい勢いで移動する。

 バートは呆然とする院長の近くで立ち止まり、二人の去った方角へ顔を向けた。


「ウェンブル侯は、どういうおつもりで……」

「重ね重ねの非礼は幾重にもお詫びいたします。ただ、見逃して頂きたく」

「何を、見逃せとおっしゃるのです」


 バートはいてて、とぼやきながら穏やかに笑う。


「最低でも二人、うまくいけばそれ以上の人間の幸せがかかっているのです。天上の愛は至高ですが――地上の恋は切実とご理解ください」

「まあ。上手な表現ですが、いくらなんでもあれはあんまりな」

「ご心配なく。ちょっとばかり先祖返りしたんですよ」


 院長は納得はしたが、事の顛末は心配で祈りの文句を口ずさむ。

 バートはとりあえず先ほど交わした文書を保留にして、エリザベスの荷を門の外に戻すべく担ぎ上げた。

 散開していた護衛を呼び集め、正面にいた護衛が土煙をあげる道を仰ぎ見ているのに苦笑してから、撤収の準備をする。

 傍らには主のいない馬が落ちつかなげに佇んでいた。首筋を軽く叩いて宥める。


「デボラ、置いていかれて寂しいだろうが、上手くいったらこれからもご主人と離れずに済むぞ」


 そう、上手くいったら、と後事を城のアダムスに託すことにした。



 エリザベスは腰にがっちりと腕を回され疾走する馬上にあって、声も出せずにクラークにしがみついていた。

 顔を少しく上向けると無表情のクラークが、ひたすらに前を見据えて手綱を握っている。口を開けば舌を噛むので、問い詰めたいことは山ほどあれど今は沈黙するしかなかった。


 行きはゆっくりとであったのに、帰りは恐ろしい勢いで馬が走っている。

 あっという間に記憶にあった景色になり、威容を誇る城が見えてきた。

 驚いている門番を意に介さずに入り込み、慌てて避ける人を踏みつぶさないように細かく手綱を取りながら、ついに城の玄関前となる。


 さすがに汗をかいているウルススからエリザベスを抱いたまま器用に下りて、クラークは体勢を変えた。

 ――肩にエリザベスを担ぐ。


「旦那様、これは……」

「塔には誰も入れるな、命令だ」


 いぶかしむアダムスに短く言い置いて、大股に広間を横切り階段に足をかける。

 エリザベスは不作法の極みに扱われて城の者に情けない姿を晒していることから、ただただ居たたまれない。


「クラーク様、下ろしてください。わたくしは修道院に……」


 広い背中を掌で叩いても全く意に介さずにクラークは階段を上り始めた。エリザベスがぶつからないように留意しながら、ぐるぐると上っていく。

 そして、クラークの部屋、城主の部屋に到着した。

 扉に閂をかけ、部屋の中央まできてようやくクラークは肩からエリザベスを下ろした。


 床を踏みしめどういうつもりだと詰ろうとしたエリザベスは、無言のまま肩で息をするクラークにひっと息をのむ。

 まさしく獲物を前にした熊の佇まいだった。

 殺されてしまうのではないか、とおののくエリザベスに、クラークが一歩迫った。



 階下ではアダムスが誰よりも早くに立ち直った。


「落ち着きなさい。ご命令通り誰も塔には立ち入らないように。あの剣幕では、違えた者の命の保証はできかねる」

「で、も、レディが……」

「何かあればすぐに対処する。扉を破る斧と槍の用意はしておくように」


 動揺する者を落ち着かせてアダムスは塔の入り口の階段横に椅子を持っていき、腰を下ろした。

 耳は塔に最大限の注意を払い、静かに目を閉じる。

 独り言は誰の耳にも届かない。


「なるほど、初代も……あのようなご様子だったのか」





 

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