44 修道院
「レディ……」
クラークは自分の声が虚ろに響いているように思えた。
眼前には椅子に座り体をこちらに向けているエリザベスがいた。碧の眼差しに迷いはなく落ち着き払っている。
決断を下した者の目だ、とクラークは感じた。
「御身が脅かされることはないでしょう。もし不埒な輩が現れても、私、私が……」
側でお守りします、と続けようとしたクラークはふっと顔をうつむけたエリザベスに言葉を失った。
その手には文字通りにエリザベスを守った扇子があった。現場で回収し、その細工に驚きながらクラークは刃を研がせた上でエリザベスに渡していた。折れた手首を動かす練習にも扇子は随分と活躍し、今も控えめに広げて閉じる動きによどみはない。
「わたくし、こちらで『静養』させていただいたおかげで、色々と考える余裕を持てました」
「は、あ」
クラークが立ち、エリザベスが座っている位置関係から、エリザベスが目を伏せるともうクラークからは表情がうかがい知れない。置き去りにされているのではないかという不安から、クラークはただ立ち尽くすだけだった。
腕にして抱きしめもし、ここにいてもいいかとエリザベスの方から口にしてくれたというのに……『何故だ』とクラークの脳裏には疑問符だけがぐるぐると踊っている。外見からは熊親父が微動だにせず、空気だけがどんどん緊張をはらんでいるにすぎなかったが。
「ハーストのみならずカデルにも、わたくしがこのまま俗世にあるのをよしとしない人がいるのに思い至りました。その中に恥ずかしながら親族がいたのも問題です。短期間のうちに多くの経験をして――疲れも感じております。
今後は夫や父をはじめカデルとハーストの方々を祈り、静かに暮らしていきたいと思いましたの」
「しかし、レディ……」
「ウォーレン卿、いいえ、クラーク様には語り尽くせぬほどのお心遣いをいただきました。心から感謝しております」
静かに椅子から立ち上がってエリザベスがクラークに向き直り、正式な作法での礼を取る。
「ありがとうございました」
「――婚約の話もなかったことに、ということですか、レディ」
「もともと不穏な方々をあぶり出す、その名目上の婚約であった……と認識しております。目的を果たした今となっては……」
ぐ、と踏み込んだクラークに気圧されるように、エリザベスは半歩後ずさった。
修道院に入ると決めるまでの葛藤は繰り返したくない。できるだけ穏便に、どれだけ感謝しているかを伝えて可及的速やかに準備を整えて――離れる。
胸の詰まる思いをやり過ごせば、もう思い悩む日々を送らずにすむ。
自分を叱咤し、エリザベスはクラークと視線を合わせた。
「わたくしとの婚約の意味は――ないと思いますの」
バートが熊親父の様子をうかがうと、暖炉を向いて床に敷いた熊の毛皮にどかりと座り込んでいた。
火を入れてある暖炉は炎が揺らめいて、熊親父にも暖かい色味を与えてはいる。
しかし恐ろしいほどに表情は虚ろだった。
「親父殿、おやじどの」
遠慮がちな呼びかけを無視する熊親父の背中は、微動だにしない。
もう一度と口を開きかけたバートの前で山が動いた。――熊親父が抱えていた樽から酒を注いだ杯を煽ったのだ。一息で杯の酒を飲み干すと、またがくりと背中を丸めるように暖炉を眺めやる。
抜け殻がそこにいた。
バートはこめかみを押さえながらどうしてくれようこのおっさん、と心中で悪態をつく。こんなに早く使い物にならなくなるなんて予定ではなかったのに。
フローラ達の件が片付き、これで憂いも去ったと思ったらこれだ。
肝心要のレディにあっさりと修道院行きを告げられて、翻意もかなわず引き下がった熊親父の現状がやけ酒かと思うと、バートはただただ情けなかった。
遠く王城で、恐れ多くも国王陛下と宰相閣下のお考えのもとお膳立てされたというのに。領民も、もちろん城の者は領主であり城主の縁談を喜び心から成就を願い、一丸となって動いたつもりだった。
熊な親父なだけで怖がられるのも気の毒だったし、団員以下の平穏な日々と恩恵を得るための打算もあった。賭けという本人には知られてはならない理由もあった。
それでも熊親父の隣にレディがいる光景を夢見たのだ。
「おっさん、なにうらぶれているんですか。騎士団長で新侯爵様の威厳かたなしですよ」
「もうどうでもよい」
「なに絶望した乙女みたいなこと言っているんですか。おっさんがぼやいても同情なんて買えません」
「……人の傷を抉って塩を塗り込むのか」
酒樽を抱えこんで背中を丸める熊親父。哀愁は漂っても鬱陶しいだけだとバートは一蹴する。恋に苦悩するおっさんの図など美しくもなんともない。
これがヒューだったら迷わず背中を蹴り飛ばすか踏みつけている。ただ相手が熊親父ではそうもいかない。熊に説得を試みる、なんとも気の重い時間が始まった。
「で、レディは修道院行きの理由をおっしゃったんですか?」
先刻のエリザベスの発言はあっという間に城中に広まっていた。ルイザとジェマは泣きそうで、ヒューは今後の熊親父の荒れっぷりを想像して涙目だ。アダムスは難しい顔でそれでも機械的にあれこれ指示をしている。バーサに至っては一度卒倒し、気付いてからは礼拝堂に籠もって恐ろしい形相で祈りを捧げている。
騙されてこの地から引き離された司祭は――無事だった。遠路旅をして伏せっているはずの旧友自ら戸口に迎えに来たのを見るに及んで、仔細はわからないなりにとんでもないことが起きたと判断して踵を返して戻ってきたのだ。
おおまかな事情を知らされた司祭はそれでも死せるベニーズ伯と、死にゆくであろうフローラ達の魂に祈りを捧げた。
本人達は司祭の思いも知らず、ひどい有様で王都に送られてしまったが。
司祭もバーサと一緒に祈りを捧げている。レディとは熱心に語り合ってもいた。
信仰の道に入りたいというエリザベスの願いを最もすんなりと受け入れただろう司祭は、バーサとは違ってレディや熊親父をはじめとした皆の心の平穏を祈っているのではないか。
バートは、しかし、はいそうですかとは受け入れがたかった。
うまくいっていたように思えたのに、ここにきて修道院入り。この間命を狙われ結果として負傷させられた経緯はあるにしても、心変わりには何か理由があるはずだ。
「疲れたのだそうだ。静かな日々を送りたいと」
「確かにそう思われても仕方はないですがね、親父殿。静かな環境を整えれば済むでしょう。外の圧力に負ける親父殿とも思えませんし」
「婚約している意味はないとも言われてしまった」
「……親父殿」
杯を握りつぶさんばかりの熊親父だった。手の関節が白んでいる。
さすがに面とむかって告げられたのは気の毒だ。結果やけ酒でも仕方ないかもしれない、が。逆にそこまで突き放すレディの意図は何だろうと、バートはいぶかしみ熊親父に食い下がる。
「親父殿は引き止めたんですか?」
「……決心は固かった」
「引き止めたんですか?」
再度の追求に熊親父はいかにも渋々の様子で返答する。
「レディの意思が最優先とは国王陛下からも宰相閣下からも念を押されている。今更、私にできることなどない」
「戦場の悪鬼が戦わずして尻尾を巻いて退却したんですか、情けない」
「言うな。私はもとから不釣り合いだったのだ。熊親父だからな。もう一人にしてくれ」
バートの挑発に熊親父は乗ることなく、殻に籠もっている。
ことごとく縁談が壊れ続け、この年まで独り身できた熊親父に植え付けられた心の傷は深い。此度は希望が見えたところで突き落とされたも同然だ。
バートは熊親父には打つ手なしと退散する。暖炉に向かっている広い背中はひたすらに哀愁を漂わせていた。
二番目に上等の酒の出番なんだろうか、と深いため息をつきそうになる。
懐も寂しくなる上に、あの状態のおっさんを立ち直らせなければならないのか。
迫り来る重圧に、鳩尾がきり、と悲鳴をあげる。
撫でさすりごまかしつつ、バートは別のところからの追求を試みる。
エリザベスは休む直前の身支度を調えていた。部屋着を寝衣に着替える程度だが、ジェマとルイザが両脇についてエリザベスに手出しをさせなかった。
おろした髪を一房すくい上げて梳かしながら、ジェマがとうとう声をかける。
「レディ、あのう……」
「なんでしょう」
「本当に、修道院にお入りになるのですか。あそこはなんにもありませんよ」
そう遠くないところに小さいが由緒ある女子修道院がある。エリザベスはそこに入るつもりだった。クラークに修道院に入る旨を伝えてから、腫れ物のように遠巻きにされていたのについにジェマが直接当たってきた。
夕食時クラークは姿を見せず、バートとアダムスはちらりちらりとうかがうそぶりを見せていた。若いだけに我慢しきれずにというところか、とエリザベスは微笑ましく思いながらも居住まいを正す。
「修道院は俗世とは一線を画すところだから、享楽はないでしょうね」
「退屈で死んでしまうかもしれません」
「あなたのように若い娘さんだったらそうかもしれないけれど、やることには事欠かないでしょうし静かな気持ちになれるのですよ」
丁寧に梳かしていた手を止め、ジェマの呼吸が荒くなった。後ろで震えている気配もする。エリザベスは身をよじって振り向いた。
「ジェマ?」
「レディ、行かないでください。旦那様の側にいてください」
「泣かないで、目が腫れてしまうわ」
「だって、あんなに、お似合いなのに」
ぼろぼろと涙をこぼしながらジェマがしゃくり上げる。ルイザも涙こそ見せていないが、我慢しているのか顔に力が入っている。
「もともとが仮の婚約だったのだから、これ以上は……クラーク様にもご迷惑です」
「そんな」
「もう決めたのです。ね、泣かれるとわたくしも辛いの」
静かに諭されてはジェマも言を告げない。涙が乾いたのをしおに挨拶をしてから部屋を出る。扉の閉まる音とともに、エリザベスはぐったりと疲れを覚えた体を寝台に横たえる。ただ寝付けずに何度か寝返りをうつ。
もう決めた。でも迷っている。身内でせめぎあう相反する感情を、ついついもてあましてしまう。
これでいいのだと自分に言い聞かせたにも関わらず、思い悩んで抜け出せない迷路に入ってしまっている。
権力を握る存在によって決められた婚姻の無意味さは、身をもって知っている。
いずれクラークに失望されるのも怖い。何より――とエリザベスは手を組んで腹部の上に置いた。情けないことにフローラの毒がエリザベスを蝕んでいる。それが故に逃げ出すのだ、とエリザベスは自嘲した。
階上のエリザベスが寝台の上で眠れずに居た頃、階下のクラークは酔えもせず眠りもかなわずに熊の敷物の上であぐらをかいていた。
他にも眠れぬ者の多い夜だった。
エリザベスの決心が固いと悟り諦めたクラークは、修道院に入る許可を得るために女子修道院へと使いをやった。
持って行くものはごくごく少ない。父の残した母の細密画だけは持ち込むつもりだったが、エリザベスは持参した品々を望まれれば分け与え自身の財産の整理にもとりかかる。
カデルの父親の所領は広大で、修道院に寄進するのは不適当と思われた。
ハーストの国王陛下に爵位ともども裁断を委ねる。カデルに残っているドーズ伯がしばらくは代理で治めてしかるべき相手に継がせるだろうか。
母親の所領からの収入を、修道院への寄進に充てようと考えていた。
長くは待たず、修道院からはエリザベスが身を寄せるのを赦す返事が届けられた。
エリザベスの支度も終わり、とうとう、その日がやってくる。
修道院へは馬車ではなく、エリザベスの希望で馬で向かう。デボラに乗りエリザベスはクラークと並んで、修道院への道を辿っていた。
クラークとエリザベスの間に会話はない。見事なまでにきっちりと二人は距離を取っている。完璧な礼儀作法を身につけているだけに、一線を画すと決めた両者の態度は慇懃で――よそよそしかった。
食事では顔を合わせるものの事務的な会話だけで、周囲がいくら気を揉んでも距離は縮まらない。見送られるのは苦手だと送別の宴も断り、あっさりと最後の夜をエリザベスは引き上げた。
部屋まで送りクラークは口を開こうとしたが、結局出たのはお休みなさいだけで。バートに罵倒に近い苦言を呈されても、どれだけ自己嫌悪に陥ろうとも無情にも時間は過ぎて朝を迎えたのだ。
日課の朝の礼拝を済ませて、張り詰めた空気の中で朝食が供される。
そして悲壮な顔付きの召し使い達に見送られて、エリザベスとクラーク、護衛の者らが馬上の人となった。
「クラーク様」
「なんでしょう、レディ」
馬の立てる音しかしておらず単調な響きに眠気さえ漂いそうになった頃、エリザベスはクラークに呼びかけた。
喪服のエリザベスは背筋をぴんとのばしてデボラに乗っている。優雅な手つきで手綱を握り、前を向いたままで言葉を続ける。
「デボラをどうかよろしくお願いします」
「……お任せください」
やや喉に絡むような声でクラークは応じた。
「可愛がってもらってね」
エリザベスがデボラに話しかけているのを耳に拾いながら、繰り返し頭に響く単語は。
――可愛がって。
――可愛がってあげたいのは今のクラークの願望そのものであるのに、不謹慎すぎて言えやしない。
どんなにゆっくりと進もうとも確実に修道院は近づいている。
別れはすぐそこまで来ていた。