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この危うい関係  作者: 素子
本編
43/52

43  お終い   

 武器を手に戦った経験はないが、極意は聞いている。

 ――いかなる時も目を閉じず、全てを把握するよう留意して勝機を見いだせ、と。


 だからエリザベスは、手首の戒めから解放され抜き放つことのできた刃を振るった。

 ごたごたのさなか結局研ぐことはかなわなかった刃は、それでも最低限の仕事は果たした。フローラに顎を押さえられていたので下から振り上げた刃先は、頬を傷つけた。

 はじめはきょとんとして動きを止めたフローラは、指先を頬に当てた。

 手を顔の前にもってきて、指先を濡らす血に目を極限まで見開いて、絶叫をあげた。


「顔……私の顔に、血、血が、傷がぁ、ああ、ああああっ」


 後ろでエリザベスを押さえていた偽司祭で王城の侍従であった男も、騒ぎに気を取られて拘束が緩んだ。

 唯一の武器をしっかりと握り直し、その場を逃れんとしたエリザベスは痛烈な蹴りを受けて地面に転がる。蹴りは脇腹に入り、呼吸のたびにずきずきと痛む。

 起き上がろうとした鳩尾を容赦なく踏まれた。


「か、はっ」


 空気を絞り出されるように、苦鳴をあげるエリザベスの腹部をぐりぐりと踏んでいるフローラの形相は凄まじかった。

 つい先ほどまで己の計画にぎらぎらと瞳を輝かせていた一種異様な美は薄れ、憤怒と憎悪で顔が歪んでいる。


「……よくも、よくもよくもよくも。邪魔者がぁっ、私の顔に傷をつけて――絶対に赦さない」

「フ、フローラ」

「殺してやる」

「よしなさい、暴行の痕があると不審をもたれます」

「男に殴られて衝動的に刺し殺したことにすればいいじゃないの、楽になんて殺してやらない」


 顔の傷に恐慌をきたしている間に、毒の小瓶は取り落としたらしい。

 仕込みの短刀を握った手首を蹴飛ばされ、次いで踏みつけられた際にぼきりと内側から響く音と痛みがエリザベスを襲う。

 たまらず手が開いて短刀を取り落とし無事な方の手首を当てて体を丸める。フローラに晒した背中を今度は何度も踏みつけられた。


 呼吸もままならず、痛みのためにエリザベスの目に涙が浮かんだ。


「よせ、フローラ。早く始末して立ち去りましょう。この先はもうウェンブル伯の領地じゃない、飛び地に迎えが待っているから」


 男の制止もフローラの耳には届いていないようで、狂ったようにエリザベスの背中を蹴り続けている。


「気にくわなかったのよ。身分があるだけでご令嬢だ、王妃だ、女侯爵だって。私の方が美しいのに」

「フローラ、やめなさい」


 割って入った男に引き離されながら、フローラの呪詛は続いた。

 這って距離を取ろうとするエリザベスの耳にも、容赦なく突き刺さる。


「あんたの親族が教えてくれたわ。子供も作れない、国王にも愛されない、つまらない女だと。さっさと身を引くか後を追えばいいのに、侯爵位を手にして敵と婚約なんて。とんだ面汚しで家の、国の恥だって」


 よろめきながら立ち上がろうとするエリザベスは、男の手をすり抜けたらしいフローラにまた蹴りつけられた。


「前回も今回も政略で、自身が望まれたことのないおかわいそうなレディ。クラーク様にも名前も呼んでもらえていないでしょう」


 無事な方の手でフローラの足首を掴むと、激高したのか平手が振ってくる。

 したたかに頬を張り飛ばされて、口の中に血の味がした。


「跪いて求婚された? 好きだ愛していると言われたことはある? ないでしょうよ。あんたみたいな取り澄ました女は政略以外でなんて求められないくせに。跡継ぎも生めずに今度は伯爵家を、いいえクラーク様の侯爵家を潰すつもり?」


 男に背後から羽交い締めにされながら、フローラの口からは様々な言葉が吐き出される。

 一つ一つが毒であり刃であり、悪意であった。


「つまらない女のくせにっ、目障りでしかない」

「落ち着きなさいフローラ。もう充分でしょう。致命傷を与えて放置しますから、苦しんで死にますよ」

「傷口を踏んでやるわ」


 男の説得にフローラの激情はいくぶんかおさまった。

 羽交い締めを解いてもエリザベスに掴みかかることはせずに、ただ肩で息をしている。



 エリザベスは剣を抜いた男を、剣を見上げた。

 ここで命が終わるのかとぼんやりと考えた。夫が亡くなった時に本心から悲しかったかといえば、嘘だ。むしろ父親が命を終えた時の方が痛手だった。

 あの時には死にたいと願っていたのに、今は死にたくない。

 生きていたいのだ。死にそうな今になって、痛烈にその存在を思い浮かべる。


「クラーク、さま」


 ちゃんと名前を呼びたかったと、後悔の涙が頬を伝った。



 剣の柄を両手で握り、そのままエリザベスに突き刺そうとしていた男の腕に矢が刺さる。痛みと攻撃を受けた衝撃に目を剥く男と、慌ててあたりを見渡すフローラ。地面に座り覚悟していたエリザベスの耳に蹄の音が届いた。

 誰よりも聞きたかった声も。


「レディッ」


 ウルススに乗り途方もない威圧感で現れた熊親父は、ハルバードで剣を飛ばした。斧槍に近い部分の金属を巻いてある柄で司祭と称していた男の頭を殴打する。

 兜をしていても衝撃は凄まじいのに、剥き出しの頭部を殴られてはひとたまりもない。腕に矢が刺さったまま、男は昏倒した。


 ウルススから下りたクラークは立ちすくむフローラを一瞥して、いや、睨み付けた。


「戦場以外で女性に手はあげぬ主義だが、お前は別だ」

「クラー、」

「私の名を口にするな」


 平手であっても熊親父が放てば凶器を手にしたと同じ。フローラは派手に吹き飛んだ。

 

「二人は殺すな。情報を吐かせろ、どんな手段を使ってもだ」

「……承知しました、親父殿。ヒュー、よくやった」

「夢中で射かけたので、当たるなんて」

「お前の弓の腕は俺たちが知っている」


 手際よく賊二人を縛り上げて地面に転がしたバートは、ヒューを褒めつつ気遣わしげにエリザベスを見つめた。

 熊親父に抱き起こされているが、頬は腫れて唇の端は切れているし、黒い喪服にはあちこちに汚れがついている。

 なにより手首の角度がおかしい。


「レディ、痛むところは?」

「……どこもかしこも、息をするのも痛みます、が」

「が?」


 クラークの頬に指先を当てて、エリザベスは掠れた声で呟いた。


「生きているから……痛いんですね。もう死んでしまうかと思っていました」

「レディ」

「……クラーク様」


 無事な方の手を背中に回して、エリザベスはクラークの胸に顔を埋めた。

 馬にはフローラと偽司祭をそれぞれつみ、ウルススに慎重にエリザベスを引き上げてクラークは手綱を取った。

 なるべくエリザベスに響かないように馬を歩ませる。

 息をしても痛いというのは本当らしく、身じろぎするたびにエリザベスは眉根を寄せていた。


「大丈夫ですか。馬車にお移ししますから」

「いいえ、このままで」


 細心の注意を払いながらゆっくりと帰城し、エリザベスを横抱きのまま急ぎ湯や薬の準備をするようにアダムスに申し伝えて塔の階段を上った。

 女主人の部屋で寝台に下ろし、怪我の具合を本人に確かめる。

 一番ひどそうなのが手首の骨折で、添え木を当てて布で縛る。

 頬の張れも痛々しいが、密かに恐れているのが腹部を蹴られたというくだりだった。


「右の脇腹と、真ん中あたりは踏まれて……背中も蹴られたような」


 痛み止めと今後は熱が出るだろうからと熱冷ましの薬を煎じたものを、エリザベスは唇と頬の内側の傷に配慮しながら少しずつ飲み下した。喪服はもう駄目にするつもりで涙にくれるルイザが袖の部分から鋏を入れて、脱がせていく。

 着替えの時点で男性陣は部屋を追い出され、熊親父は階下へと足を向けた。


「二人は?」

「地下牢の貴賓の間にお入れしました」


 アダムスが応えるのにむっつりと頷き、地下へと歩を進める。

 貴賓の間といっても、他よりはましな寝台が入っている程度の場所だ。

 腕を吊った偽の司祭は、腫れ上がった目蓋を懸命に瞬かせていた。バートに耳打ちされ、クラークは偽司祭に向き直る。バートがいい仕事をしたらしい。司祭であった頃の面影はなかった。


「テイラー。王城の侍従でアーデン伯の子息か。父親も計画に荷担したのか? 荷担していたなら頷け」


 顔も腫れて口をぱくぱくと開けても、しわがれた声しか出ていない。

 熊親父の恫喝に、竦んだ様子の男は小さく頷いた。クラークは舌打ちする。


「なら、ここで葬れないか」


 目に見えて震えだした男に構わずに、クラークは隣の獄の前に立った。

 そこには片頬を腫らし、反対側には軟膏を塗った布を貼り付けてあるフローラが寝台の上でうずくまっていた。

 人の気配に顔を上げ、クラークを認めてはらはらと涙をこぼす。


「お願いです、助けてください。私は騙されたんです」


 冷ややかに無言を貫くクラークとは対照的に、フローラは言を尽くす。

 ベニーズ伯に連れてこられたこと、彼の死で迎えに来た伯の使用人達が棺を用意していたこと。それにエリザベスを紛れ込ませて逃げる算段だったこと。


「まさか伯の死まで利用してレディを逃がす計画だったなんて……私は知らされていなかったんです」

「逃がす?」


 初めてクラークが反応した。

 フローラは食いついたこの機会を逃すまいと、潤んだ瞳で訴えかける。

 クラークさえこちらに引き入れられれば、浮上する可能性もまだあるかもしれない。

 そんな一縷の望みにすがった。


「その通りです。カデルの中ではレディは不運にも近親の方を次々となくされ、なおかつお心に染まぬ……と噂されている境遇にいらっしゃると同情しきりなのです。

 ですから密かにレディをここから連れだし、国境を越えさせる計画があったのです。私はそれを、レディを拐かしたと聞かされた後で知ったのです。私は無理に共犯にされたのです、クラーク様」


 檻の鉄格子に繊手をかけ、か弱げに握りしめて泣き濡れる。

 笑顔で百人を惑わし、泣き顔で千人を落とす。そう言われたこともある『フルール』の涙は、残念ながら熊親父には通じなかった。


「――戯れ言はそれまでか? 計画の概要は掴んでいる。先刻王都からも返事があった。加えてお前はレディを殺害しようとした実行犯だ。

 一応貴族の身分だからここで吊すことはしない。王城まで引き回され、獄吏に委ねることになる」

「そんな、そん……な」

「お前はベニーズ伯を利用したつもりだろうが」


 突然話の方向が変わり、フローラは目を血走らせたかんばせをあげた。

 一睨みで誰もに怯えを生じさせると評判であったクラークが、厳しくフローラを見据えていた。


「利害で繋がっているにしてもあまりにお粗末な連中だ。ベニーズ伯ほどの老獪な人物が、計画が破綻しないなど楽観していたはずはない。ならばなぜ伯は計画に乗った? 目的はお前だろう」

「わ、たし?」

「お前は伯に気はなかったが、おそらく伯は違う。お前を本心から欲しただろう。だがご自分は老齢で病の身、顧みられることはないと判断していたはずだ」


 フローラはクラークを凝視したままだ。

 このまま話が続けばひどく嫌な方向に行ってしまう。漠然と予感しながら、フローラには止める手立てがなかった。

 淡々と、ひとかけらの同情も示すことなくクラークは続ける。


「だから計画に乗り、お前を引き入れた。アーデン伯の馬鹿息子に直接的に手を汚させてな。お前に令嬢の身分を与え、伯爵家の一員にした。

 計画が露見すれば家が潰されるのは火を見るより明らかだ。――ご自身が存命だろうとそうでなかろうと、近しい者も断罪される。そう、お前もだ」


 名指しされてもなお、フローラにはこの行く末がしかとはわからない。

 

「お前はベニーズ伯爵令嬢として断罪される。花街の花ならどこぞの墓地に投げ込まれて終わりだろうが、ベニーズ伯と令嬢であれば同じ場所に眠れるだろう。あの棺を使ってやってもいい。未来永劫、共にあれとな」


 フローラの顔からゆっくりと血の気が引いていく。足下からなにかが這い上り搦め取られていくような錯覚を覚える。

 自分の行き先があの死した老人のところで、あの棺に眠る伯の上か下だとクラークは示唆しているのだ。


「貴族をはじめとした道連れには事欠かない。お前は死してなお語り継がれるだろう、ベニーズ伯とともに。生を共にできないのなら死後は離さぬ、伯の意向はそのあたりではないかと私は考えている」

「……いや、よ。私が、私は女神の名を持つ女なのに、死ぬなんて、あんな老人に縋り付かれて……なん、て」

「これでお前は誰のものにもならない。伯はご満足だろう。伯爵家を潰しても構わないほどの妄執で想われたのだ、お前も女冥利に尽きるだろう?」


 ずるり、とフローラがへたりこんだ。

 格子の間からのろのろと宙を見つめる瞳の生気は薄れている。

 のし上がる手段で駒に過ぎなかったベニーズ伯に、滅ぼされる。利用したつもりが手の上で踊らされていた。このまま罪人として死んでいき、死してなお伯から逃れられない。

 どこぞの画家が目撃すれば『虚無と絶望』と名付けて絵筆をとったに違いない、そんな光景だった。


「お前達は王都に移送する。さぞ注目をあつめるだろう。伝説の最後に加えればいい」


 クラークは踵を返した。

 地下牢に狂気をはらんだ哄笑が響き渡る。女神の終焉だった。



 かなり痛めつけられたエリザベスだったが、献身的な手当で回復の兆しを見せた。

 クラークは欠かさず見舞い、合間を縫ってエリザベスの襲撃犯達の移送の指揮を執り、顛末を記して王都に送る。

 宰相が与えた期限を過ぎ、そろそろ王都に戻らなければならない頃になっていた。


「レディ、ご気分はいかがですか?」


 椅子に腰掛け外へと顔を向けていたエリザベスは振り返る。


「クラーク様、もう手も動くようになりました。まだ違和感や少しの痛みが残ってはいますが」

「それはよかった」

「それで、わたくしを狙う一味とやらの問題は解決したのでしょうか」

「まだ完全にではありませんが、おおむね黒幕達は判明して個別に追求が始まっています。収束も時間の問題でしょう」

「そうですか」


 エリザベスは膝に置いていた手を重ねてゆるりとクラークを見上げた。


「では、当初のお約束の通り、わたくしは修道院にはいります」






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