42 女狐達
体に伝わる不規則な振動でエリザベスは目覚めた。
頭が重いがそれ以上に体が変だ。動かせず、なにか重石が乗せられていると判断した。目隠しの上にご丁寧に口になにか詰め込んだ上で口元も布が巻かれている。
その上体全体に布がまとわりつく感触がある。――殺されていないだけましだが、拐かされたのは間違いないようだ。
必死に前後の状況を思い出す。最後の記憶はとても丁寧な口調と慇懃な笑顔。
『どうぞ、よい夢を』
司祭が、と思い返してざらりとした不快の念を抱く。あの司祭が危害を加える敵方なら、旧友の見舞いに旅立った司祭様は。あの人の良い司祭様はおそらく騙されていたのだろう、ただその先は。最悪の可能性にエリザベスの背筋には冷たいものが走った。
どうやら何かに詰められて馬車で運ばれている最中らしい。
かなりの速度で移動しているようだ。この調子では馬を潰しかねないが、必死にクラークの領地から遠ざかっているのだろう。
どこに連れて行かれるのか。誰がどんな目的なのか。
エリザベスは身動きもままならない状態でも、得られる情報に神経を集中する。
音、体に伝わる振動。重み。
助けをよべない状況で、脳裏に浮かぶのはクラークただ一人だった。
どれくらい移動したのか時間の感覚がつかめないまま、振動が止まったのは感じられた。ぎっと音がして上に乗せられていた重石が取り除かれる。無造作に上下を抱えられ、納められていた場所から出されたのもわかる。
意識を取り戻しているのを気付かれない方がいいかと、息を殺して外の様子に耳を澄ます。
「棺は……に」
「できるだけ早く」
「こちら……二頭」
きれぎれの単語では意味はつかめないが、次にはどうやら馬の背に乗せられたらしい。
誰かが鞍にまたがり、体を折って乗せられた自分を落とさないように手綱を握って馬を走らせたのを感じる。
遠ざかる馬車の音も聞こえてきた。
クラーク達を攪乱するために、二手に分かれたようだ。
縛られていてなおかつすっぽりと布袋に包まれているので、何度も馬からずり落ちそうになる。後ろで戒められた手首に力をこめて、何とか緩まないかとあがいていると手首に触れるものがある。
この際なんだろうと助けになるのならと意識を集中させる。そしてエリザベスは気付いた。いつも手首に通して、持ち歩いていた扇子だと。
――どうにかして仕込んである物を、短刀を取り出せないか。エリザベスは必死で手首をひねった。
クラークは恐ろしい勢いでウルススを走らせていた。
運悪くその姿を目の当たりにした者は、慌てて道をあけて脇によける。子供が見たなら通り過ぎた後で後方から泣き声があがる始末だ。
どこだ、どっちへ行った、逃がさない。
その一心でクラークは手綱を握っていた。
主人の逸る気持ちを馬も感じ取っているのか、蹄の音も高らかにウルススも見事な疾走を見せる。普段よりも甲冑や鎧の分だけ軽いからか、全身を使っての見事な走りようだ。
そう遠くへは行ってはいまい。クラークの読み通り、しばらく行った先の見晴らしのよいところで、それでも急いでいる風の一行を見つけた。
「――見つけた」
抵抗すれば聞く耳は持たないと、クラークはハルバードの柄を握りしめた。
何気なく後ろを振り向いたベニーズ伯の一行は、来た道を恐ろしい勢いで迫ってくる単騎を認めた。全身からみなぎる迫力に、騎乗するのが誰かと瞬時に悟り慌てて前方にも伝える。
それまでも急いでいたのを全速力にして、ともかく逃げおおせようと焦っている。
その焦りようがクラークの怒りに火をつけた。
逃がすものか。ウルススへと上体を傾け、疾走の中でも聞こえるようにと声をかける。
「あれが、敵だ」
荒い息をしながらウルススがぶるりとたてがみをなびかせる。承知、と受け取りクラークは鋭く前を見据えた。もしエリザベスが無事でないなら――ぎり、と奥歯を噛みしめてクラークは手綱を握りしめる。
どんなに急ごうとも荷物を積んだ馬車に、貴婦人の乗った馬車。行軍などとは不似合いな者達なので距離は詰まる。しかも蹄の音も勇ましい軍馬に乗った戦場の悪鬼に迫られれば、最初から戦意は喪失している。
応戦など思いもよらず、ただただ離れ逃げることを主軸に全速力で行き過ぎようとする努力は、長くは続かなかった。
強引に前に回り込みハルバードの先を突きつけられて御者は顔面蒼白だった。
フローラが乗っている馬車はぴっちりと窓を布で覆っていて中が見えない。怯える馬と劣らずに怯えまくっている御者に、クラークは低い低い恫喝をよこした。
「止まれ。ハルバードのどこが好みだ。槍か、斧か、柄か。どこででも叩きのめす、一人残らずだ」
ひゅっと薙いだ切っ先を騎士の喉元近くに当てて剣を封じる。それでも斬りかかる命知らずは、無造作な振りで馬からたたき落とす。ウルススが踏みつけた気もするが注意は払わない。足下で何かが砕けて悲鳴も上がるが気にしない。
手綱を切り馬の鼻先にハルバードをかすめ、主に護衛役の何人かの戦意を削いでから、クラークは止まれと呼ばわる。
止まらないと殺る。充分に意図を突きつけて、クラークは馬の足を止めた。
「扉を開けろ。開けないと叩き割る」
馬車の外から呼びかけるが、中から応じる声はない。
もう一度同じことを言い、いよいよ扉をぶち破るかとハルバードの柄を持ち替えて長さを調整する。
かすかな音と共に内側の掛けがねが外れ、馬車の扉が小さく開いた。
ぐいと扉を引き、開け放す。
中は布を引いているせいで薄暗いが、人の気配はする。黒衣の女が座席で震えていた。
「出てこい」
びくりと大げさに身をすくめた女は、腰が抜けたか立つ気配がない。
クラークは苛立ち、ハルバードの槍先で窓の布を引っかけて外した。
顔面を蒼白にしてぼろぼろと涙を流しながらこちらを凝視するのは、そばかすの目立つフローラとは似ても似つかぬ若い娘だった。
「誰だ。フローラはどうした」
「……わ、わたし、は、お嬢様付きの……侍女、で。とちゅう、までは一緒だったの……です、がっ」
「どこで別れた」
「地理に詳しくない、の、で、わかりかね……」
後は言葉にならず、ただ体を熱病のように震わせる侍女の口は割れそうになかった。
クラークは手近の男を締め上げた。
「女主人はどこに行った」
「馬で……」
「一人でか」
「いえ、二頭、で。一つには袋の荷物と従者で。……ご自身はもう一頭に相乗りで」
「荷物はどこから出した」
震える指が指し示したのは荷馬車で。クラークは馬首を巡らせて荷馬車の幌の中を覗き込む。
「逃亡しようとすれば、斬り捨てる」
素っ気なく言い置いてから荷馬車を改めた。磨かれた棺が中央に置かれ、ずれない配慮のためか周囲にも荷物が納められている。
ここから持って行った荷物――逃亡用の荷だろうか。
フローラのいた馬車の中、御者台や後部の座席に人は見いだせない。ならばここだろうかと、クラークは血走った眼をせわしなく動かした。
錠のかかった箱を手当たり次第に壊しながら中を改める。だが、いない。
エリザベスが、いない。
とうとう最後に目が止まったのが、最初に視界に入った物で。
さすがに棺を暴く非礼を心中で侘びながら、クラークは棺の蓋に手をかけた。一人で軽々と開けた蓋を側に置き、中で静かに眠っている亡きベニーズ伯を見つめた。
血の気のない顔がエリザベスではないかと予想していたのに、それは裏切られた。
花に囲まれて眠るベニーズ伯しか見いだせない。
唇を引き結び、狂いそうな思いにとらわれながらクラークは棺に蓋をしようとして、違和感を覚えた。
なにがどうおかしいのかと自問しながら、戦場での勘は大事に拾う習性で素早く目を走らせる。そして気付いた。ベニーズ伯の横たわる位置が、深いことに。
まるで、そう、その下に隠しの空間があるかのようだと。
クラークの脳裏には礼拝堂でのからくりが浮かぶ。
どうにかして自由を奪ったエリザベスを棺に納め、絹の内張を施してから主の遺体を横たえる。怪しまれないように花で埋め、泣き濡れた蹌踉とした足取りで棺を荷馬車に移してから馬車に乗り込む――。
「よくも、こんな下手な芝居を」
うかうかと騙された自分にも憤りを感じ、クラークはぎりぎりとハルバードの柄を握りしめた。
ただ、ここに居ないとわかった以上、探さないとならない。主から遅れはしたが許容範囲内で追いついた一団に彼らの捕縛を任せて、クラークは短くバートの名前を呼んだ。
「レディと女狐を追跡する。狩りを――始めるぞ」
バートはヒューをかすかな仕草だけで誘い、熊親父に頷いた。
「いつでも。号令を、親父殿」
「地の利はこちらにある。けして逃さぬ」
熊親父が無表情に呟き、バートは静かに脇に付き、ヒューはごくりと唾を飲み込んだ。
「親父殿、敵は?」
「ここから離れたのが三人。待機していたかは不明だ」
「こっちから何人か連れて行きますか?」
「レディの安全が最優先だ。なによりも早さを」
バートもヒューも地元の民しか知らない細い道も熟知している。
なにより、女性二人を連れているとなればどうしても足も鈍るだろう。
そこに望みを託して、三人の狩人は追跡を始めた。
馬の背に荷物のように乗せられて走って走って、どれくらい経っただろうか。
「ここらで一度休みましょう」
誰かの声で馬の足が止まった。自分が落ちないようにと時折手で支えていた存在が馬をおりたのをかしぐ感じから悟り、エリザベスは緊張の度合いを高めた。
自分は馬の上のままかと思っていたら、不意に荷物をおろすような気軽さで地面に下ろされた。地面を感じ、崩れないように座り込む。
とっさに肘を広げ、手首のひねりを大きくした。
どうにか扇子の要の宝石に指先が触れた。ここを押したままで骨の部分を引っ張るのには苦労する。全部抜けなくていい。一部が引き出せればそれで縄に切れ目が入れられれば。
手首の擦れる痛みに顔をしかめながら、エリザベスは仕込んだ刀に集中した。
「フルール、いやレディ・フローラ、水をどうぞ」
「ありがとう。ねえ、そこの麻袋は目障りね」
開けて、とフローラの声が聞こえて頭の上をごそごそと触れるものがある。おそらく袋の口を縛った縄を外しているのだろう。
唐突に空気が入ってくる。目隠しがまず外され、ついで口の周りを覆っていた猿ぐつわと、口中の布が取り去られた。
口の中は布が水分を吸ってしまってからからだ。
素早く右に左に目をやれば、意外すぎるほどに人が少なかった。
フローラと、顔は司祭だが今は司祭服を脱ぎ捨て貴族の子弟のような格好をしている男性、そして自分の戒めを外した男性だけだ。
エリザベスは自分に視線を当てたまま、小さな杯を口に運ぶフローラを見返した。
「なぜ、と言いたげなお顔ですこと」
「確かに理由はうかがいたいですわ、フローラ様」
「レディ、とつけて頂きたいわ」
伯爵令嬢になったからレディかと鼻白む思いで、エリザベスは口をつぐんだ。
麻の袋は胸の下あたりでわだかまっていて、もがく手元を隠してくれているのがありがたい。どうにかずらして現れた刃に、エリザベスは縄を押しつけるのを繰り返した。
「これは失礼を。レディ・フローラ。これはどういうおつもりですか」
「どうしたなんて。私は駆け落ちの挙げ句に心中したレディの見届け役ですから」
「駆け落ち……心中?」
なにを、馬鹿なと反駁しかけたエリザベスは恐怖で引きつってしまった。偽司祭がにやにやしながら、後ろからもう一人の男性の胸を貫いたからだ。
うめき声を上げた後で、男性はどさりと横倒しになった。
「こんなあばら屋で申し訳ありませんが、見つけてもらわねばなりませんからね」
「――あなたは、いったい」
「おや、声で思い出しませんか? ハーストの王城であなた様は私の盆から火酒の杯をお取りになったのに」
あの毒を仕込んだ火酒の杯を運んだ――侍従?
目の前で人の死んだ衝撃に崩れそうな心を、夜会の回想でエリザベスはどうにか立て直した。呆然と侍従を見つめるエリザベスを、フローラは冷ややかに見下した。
「あの時に死んでいればよかったのに。意地汚く生にしがみつくから、手間がかかること」
「誰の、差し金です」
いったんは力を失い、結わえられた手がだらりと下がる。
ただエリザベスは話を引き延ばしたかった。この様子からは遠からず自分も殺される。
心中に見せかけてこの死んだ男性の隣にでも転がされてしまう。その前に黒幕は知っておきたかった。
……違う、時間稼ぎをすればもしかしたら見つけてもらえるのではないか。そんな淡い、淡すぎる期待にすがったのだ。
「あなたの親族。お父様の跡を継ぐつもりだったのが、あなたが女侯爵に叙せられてしかもクラーク様とご婚約。婚姻契約書に署名すればあなたの領地も爵位もクラーク様にいってしまう。それが赦せないという人が死を望んだの」
「わたくしの……親族」
手紙をよこした親族だろうとエリザベスは胸を痛めた。自分しか子が生まれなかったために、父に養子にして跡を継がせるようにと迫っていた叔母と従兄弟。父が頑として受け入れず、そのうちに王妃になったために話は立ち消えになったはずだった。
自分に子供が生まれれば長男は無理でもその下の男子ならば、女子でも婿を取って跡を継がせることになっていたのに、状況が変わり看過できなかったと見える。
フローラは妙に嬉しげに指を折って数え上げる。
「あとはクラーク様をよく思わないハーストの貴族。心中に見せるのも目的だけれどきっと追ってくるでしょうから、激高したクラーク様に殺されたとしてもいいの。婚約者を、カデルの前王妃でハーストの国王陛下お声がかりの婚約者を殺したとなれば、クラーク様といえど無事ではすまないから」
「どう……して、あなたは卿を慕って、いらしたのでは」
「はっ、誰があんなむくつけき、獣みたいな男を」
憎々しげに顔を歪めて吐き捨てたフローラはおぞましく、エリザベスは目を見張った。
「妻も愛人もいない、爵位のある男だったから相手をしてあげただけ。この私が日陰の身なんてとんでもない」
「なら……」
「それなのに、何度声をかけてもあまりなびかない。あまつさえ、私の手紙を読みもせずに踏みにじるなんて。赦さないと思った」
フローラの矜持を文字通り踏みにじったような行為に、フローラは逆上している。今も思い出しては怒りが静まらないようだ。
侍従はどこか醒めた様子で見守っている。
「だから苦痛を与えてやろうと思ったの。これで罪に問われればよし、うまく逃れたら婚約者を亡くした傷心のところを慰めれば私に傾くはず。爵位と財産を手に入れてやる。いずれは王城で、私は一番になるのよ」
未来を疑ってもいない狂おしい眼差しは、エリザベスにも侍従にも向けられていない。
エリザベスは慄然とするしかなかった。
「そんな……理由で」
「私を馬鹿にするなんて赦さない。あなたも身分があるだけで私を馬鹿にして。子もなせないくせに」
突然に攻撃の矛先が向いて、エリザベスは息をのむ。
馬鹿にしたつもりはない。ただフローラが敵視しているだけだ。しかし……。
「どうせクラーク様は愛人を迎えて跡継ぎを作るはずよ。惨めに正妻の座にしがみつくより、私に明け渡しなさい」
「卿は、クラーク様はそんな方じゃない」
愛人を作るような器用な真似ができるとは思えないと、エリザベスは反駁する。
それをフローラは一笑に付した。立ち上がり、エリザベスの腹部を靴の先で蹴る。
「子供を作れない人が……。生きていても仕方ないでしょう? 早くその場を譲りなさい。私が妻に、あなたの親族とやらがカデルの侯爵になるの」
「卿はわたくしにここにいてほしいとおっしゃった。わたくしが邪魔ではないとおっしゃった」
「だから? あなたを領地に、子供の産める相手を王都に置くつもりかもしれないじゃない。どのみち役立たずなんだから、死んで」
おしゃべりがすぎたわね、とフローラは侍従に目配せする。
侍従は懐から小瓶を取り出した。
「駆け落ちはしたものの先行きを悲観して、あなたは背後から男を刺した。ご自分は毒をあおった……という筋書きです」
フローラに小瓶を手渡して侍従は背後に回り、エリザベスをおさえにかかった。
にんまりと唇に弧を描いてフローラは小瓶の蓋を開けた。顎に手をかけて、唇の端に小瓶を押しつけようとした。
抵抗し、もがくエリザベスは手首の痛みも忘れて刃に縄を擦りつけた。鋭い痛みを感じぶつりと音が聞こえた気がする。
体を近づけていたゆえに、侍従は気付くのが遅れた。
エリザベスは反射的に戒めの外れた手首をひねり、唯一の武器を手にしていた。
扇子から引き抜いた短刀を振り回す。
絶叫があがった。