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この危うい関係  作者: 素子
本編
40/52

40  新司祭

 跪いていたはずのクラークに後頭部と腰を緩く支えられて、いつの間にかエリザベスは立たされていた。首を傾けて覆い被さるようなクラークから与えられる熱に浮かされる。

 自分が邪魔者ではない、他の誰でもなく自分が求められている。――震えがくるほどに嬉しい実感だった。眉をひそめられる行為をしている自覚は充分にある。礼儀も作法もどこかに蹴飛ばしている、しかもいい大人が二人して。

 それでも止められなかった。


 この大きな体は揺らぐことなく受け止めてくれる。太い腕はしっかりと抱きしめてくれる。大きな手は安心するほど力強く包み込んでくれている。

 エリザベスは安堵と至福の息をついて、ゆったりとクラークに身を委ねていた。


「親父……さ、ま」


 扉を開けて覗き込んだヒューはエリザベスを抱きしめたままの熊親父にぎろりとにらまれ、文字通り石になったかのように動きを止めた。

 司祭が出て行ってからかなりの時間が経つのに中が静かなままだったので、どうしたのだろうとヒューにとっては自然な流れだった。それが何がどうなってこうなっているのか分からないが、熊親父がレディと抱き合っている。

 ヒューは熊親父から放たれた殺気に慌てて、しかし音を立てないように扉を閉めた。


「どうしたんですか? レディはまだ旦那様といらっしゃるんですか?」


 背後で尋ねてくるルイザにヒューはゆっくりと首を振った。


「邪魔をしない方がいい。親父様に殺される」


 さっきの一睨みで寿命が縮んだ気がしたヒューは、中から開けられるまではけして扉を開いてはならないと言い聞かせる。あれは馬に蹴られるどころではない。冬眠前の飢えた熊が腹を満たそうとするのを邪魔したようなものだ。

 ここは戦場かと錯覚するような念の籠もった一瞥に、ヒューは黙って扉を守る役に徹する。バートには話を通しておこうと考えながら、あれは合意の上だろうかと要らぬ心配をしてしまう。

 レディは静かだったが、意識がなければ熊親父は寝かせるとか何かするはずだ。まさか締め落としたわけではないだろうなと、悶々としながらも扉を背に誰も入れない態勢でいる。


 

「ヒューさん、あの、お二人は……」

「俺に聞くな。今は待つしかない。こちらからは何があっても開けては駄目だ。開ければ……恐ろしいことになる」

「レディは大丈夫なんですか?」

「親父様と一緒だ。だから……」


 だから安全なのか、危険なのか。あえて先は言わずヒューは想像の余地をルイザに残した。ルイザは扉とヒューへ交互に視線を走らせて、きゅっと自分の服を握りしめてヒューを睨み付ける。


「もし、レディの悲鳴でも聞こえた日には絶対に赦しませんから」

「なら黙って聞き耳を立てていればいい。外でうるさくするのも親父様は愉快じゃないだろう」


 そう、できるのは気配を消して絶対に邪魔をしないこと。

 ヒューは達観して重々しくルイザに頷いた。



 クラークの作る心地よい場所に身を預けていたエリザベスは、ふと自分を抱く力が緩んだのを機に顔を上げた。

 金褐色の瞳が収まっているいかつい頬にそっと手を伸ばして触れる。手の平にざらりと強い髭の感触が這う。そのまま指先で額から頬に走る傷をなぞった。クラークは大人しく、エリザベスのなすがままに少し腰を曲げ顔をうつむけている。

 日に焼けた頬がうっすらと赤みを帯び、それ以上に瞳が熱に浮かされたように潤んでいた。

 

「この傷は、戦で? 痛かったでしょう」

「兜をしていなかった私の落ち度で、随分昔の話です。出血だけは派手でした。かえって威嚇になったようですよ」


 血まみれの凶悪な大男が武器を振り回していたのは、さぞ印象的だっただろう。

 目をやられないだけ良かったとこともなげに呟くクラークに、エリザベスの指は傷から太い眉に、皺のある目尻に、そしてまた頬へと戻った。先ほどまでの名残か、少し濡れた分厚い唇に親指を這わせるとそれまでも赤かったクラークの頬が一層熱を帯びる。

 思わず開いた唇がエリザベスの指を挟んだ。


「っ、ウォーレン卿」


 とっさに小さな声を上げると、クラークの歯が指先にあたり軽く食まれる。


「わたくしの指は、食べ物では」

「失礼を」


 丁寧な謝罪を述べながらも目だけは獰猛に獲物を狙っている。

 エリザベスはぞくりと背筋を震わせた。不用意に手を出せば爪で引っかけられて動きを封じられ、食べられる。

 いまだに腕の中にとらわれている状態で煽る真似をした自分が悪い。


「わたくし、そろそろ。司祭様の件はわたくしからもお礼を申し上げます」

「レディ」


 低い声の中に抗いを赦さない響きを含んで、クラークが引き止める。

 くっと包囲が狭まった気がして、エリザベスはさきほど引いた手の持って行き場を無くしたままその場に佇んだ。

 壁のようにそびえる分厚い胸や肩に視線を向けて、続きを待った。


「どうか、ここにいていただきたい」

「ここに、ですか」


  エリザベスはかすかに頷いて額をクラークの肩口に当てた。頭上から安堵のため息がふる。想いをそのまま伝えるかのように甘やかに包囲が縮まり、エリザベスは進んで虜囚となる。

 ともに離れがたく、二人はしばらくそのままでいた。



 

 内心そわそわと落ち着き無く、エリザベスは歩きながら意味もなく扇子を少し広げては閉じて弄ぶ。

 司祭と一緒に執務室に入った際と出てきた今では、まるで天と地ほどにも心持ちが違う。フローラのことはひとまず置くにしても、クラークと想いが通じたのだとはしたなくも実感できた。

 自分を襲った人物が、組織が特定され解決に向かえば――。自分に与えられたもう一つの選択肢が現実味を帯びてきた。

 

「レディ、なにかよいことがあったのですか?」


 ルイザが興味津々に尋ねる。ヒューは賢明にも沈黙と傍観に徹した。

 エリザベスは簡単に顔に出ていた浮かれようを自戒しながら、慎重に言葉を探した。


「ええ、とても嬉しいことがありました。司祭様も旧友にお会いになるために近日中に旅立たれるそうです」

「近日中にですか」

「代わりの司祭様がおいでになるようですよ」


 城の祭礼を一手に担っている司祭の不在はなかなかに影響が大きい。

 穴を埋めるために代わりをよこす細やかさに、ルイザもそれならと安心した。礼拝堂にはここで亡くなった伯爵様とやらの亡骸が安置されている。司祭様が不在ではどうしてよいか分からないから。

 塔に上がる足取りさえ軽やかに感じられる、とエリザベスはひそりと苦笑した。女主人の部屋からの眺めはひときわ素晴らしく、エリザベスはその美しさを心に刻みつける。



 司祭が手紙をしたため、先方へはクラークの厚意で早馬で届けられた。驚くほど小さな荷物をまとめてから三日ほどして、臨時の司祭がやってきた。

 おそらくこちらへの旅も慌ただしかっただろうに信仰と期待で疲れを感じていないかのような、まだ若い司祭が着任する。城付きの司祭と固い握手を交わし精力的に礼拝堂を見て回る。


「私は若輩なのでまだ城付きはおろか、地域の礼拝堂も任されてはおりません。貴重な素晴らしい機会を与えて頂き感謝いたします。このお話をいただいてから、ご旧友である司祭様への祈りを欠かしておりません」

「それは彼も喜ぶでしょう。土産話がまた一つ増えました。不在の間、よろしくお願いします」

「はい、精一杯つとめさせていただきます」


 若い司祭は力強く頷いて、司祭から物のありかや城付きの司祭としてやるべきこと、一日の流れなど教わり翌朝に司祭を送り出す。

 司祭と入れ替わるようにべニーズ伯の領地からの使者も到着した。

 クラークは司祭と使者とに次々と対面する。司祭は精力的に朝の礼拝をこなしていた。熱意に満ちて短期間ながら責任ある職務を果たそうとしている。黒髪と茶色の目とほっそりとした指が印象的だ。


「どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ頼む」


 さっそくに侍女たちの注目を集めて微笑むさまは、城付きの司祭にはなかった若さゆえのものか。

 反対にべニーズ伯の使者達を引見したクラークの表情は厳しかった。疑惑で限りなく黒に近い灰色のべニーズ伯の使者だ。何らかの心づもりがあっても不思議ではない。加えて伯爵令嬢となったフローラの件もある。

 使者は無表情がいっそう恐ろしさを加えているクラークに対峙せざるを得なかった。


「このたびは主が大変にご面倒をおかけいたしました。お詫びとともにご厚情に感謝いたします」

「病の身をおして私の宴に出席してくださったお心には、こちらが感謝する次第だ」

「伏した主へのご配慮に関してもうかがっております」


 べニーズ伯の使用人の中でも有能な人物が選ばれてきているのだろう、口上も態度も申し分ない。尻尾をつかませないつもりかと、クラークは見透かそうとでもするかのようにわずかに目を眇めた。

 

「――では、近日中に伯爵令嬢や城にいるべニーズ伯の従者とご一緒に、ご遺体を引き取っていただこう」

「はい、そちらについての手筈も整えてまいりました」


 城の中に留め置いたべニーズ伯の従者におかしな動きはない。フローラにしてもエリザベスと顔を合わせてからは大人しく客室にいる。

 かえって不気味なほどに静かだ。

 王都にやった使いがまだ帰ってきていない段階では、厳しい追及を行う証拠が足りないのがもどかしい。だが相手は棺を運んでの旅になり足は速くないはず。

 もし罪状が明らかになれば、道中でも押さえられるだろうとクラークは踏んだ。


「では元からの従者達と合流してことに当たって頂きたい」

「ひとまず失礼いたします」


 恭しく頭を下げ使者は退出する。扉が閉じられるまでクラークの表情は揺らがなかった。ふ、と短く息を吐き傍らのバートを振り返る。


「どう思う?」

「今のところは何とも」

「客室の監視は?」

「ご令嬢が引きこもっていますから従者もそれに倣って、です」


 エリザベスと接触した際には大いに心配したが、こうまで大人しいと逆に懐疑的になる。

 女性の考えは謎だ。しかも意識から閉め出したい相手ならなおさら。

 ぐっと眉根をよせてクラークは椅子に肘をつき、こぶしを顎から頬に当てた。

 

「怪しい動きがあれば対処せよ」

「ご令嬢――フローラだけは無傷で、ですか」

「身分柄、沙汰は王都でとなるだろう」


 ベニーズ伯の最期のどさくさに紛れて貴族令嬢におさまってしまった手腕には舌を巻くしかない。

 それだけに何を企んでいるかが気になる。

 クラークはむっつりと押し黙って考え込んでいる。バートは黙っていれば熊親父もなかなか、と控えている。

 

「親父殿、ベニーズ伯やその他の人物の関与が明らかになり処罰が終われば、謹慎も終了ですか?」

「もとから二、三ヶ月と言われているからな」

「それでレディとはいかがです?」


 ヒューからあらましは聞いているが、バートは素知らぬ体で熊親父に尋ねる。

 頬杖をついたクラークがふいと顔を逸らしたが、バートはかすかな変化を見逃さなかった。不機嫌ではない。ただ口に出すのが恥ずかしいのか気まずいのか。

 ああ、やっと胃も落ち着いてくれるかとバートはフローラの去った後を考える。

 レディの修道院入りは体を張って阻止するだろうから、一緒に王都に戻ることになるのか? これで騎士団にも平和がもたらされるとバートは未来に期待を寄せた。



 使者ーベニーズ伯の使用人は客室でフローラと顔を合わせていた。


「伯爵様――ベンジャミン様は今回の件は聞かされておらず困惑しております」

「書類と証人に文句はつけられないはず。伯の意識がはっきりしていたのはこちらのご領主も認めているの」


 物怖じせずに悠然としているフローラに、慇懃にクラークに対峙していた使者は攻めあぐねている。

 優雅に扇子を動かしていたフローラは口元を隠したまま、微笑んだ。


「この処遇はレクター様からの申し出で、こちらから働きかけたわけではないの。それに、ベンジャミン様はお優しい方だから私を放り出したりなどなさらないでしょう?」


 確信を持って断言され使者は言葉を失う。確かに寄る辺ない美女からすがられれば、年若い伯爵などひとたまりもないだろう。

 しかも手回しのよいことにこの『女神』は伯の嫡男とも面識があるらしい。

 フローラはぱちりと扇子を閉じて、立ち上がり窓辺へと移動した。礼拝堂を見やって首だけを巡らせる。その角度がもたらす効果も計算済みだ。


「レクター様の棺とともに城を出ます。司祭様は祈りを捧げてくれるでしょうか」

「そう、ではないでしょうか」

「では司祭様にご挨拶もしなくては。棺には沢山の花を入れましょう」


 喪服のフローラの美貌を黒い色彩が引き立てている。有能であれど男性である彼らには抗うすべはなかった。



 ベニーズ伯への追悼の祈りは夕刻、クラークやエリザベスも出席して行われた。

 フローラはクラークと並ぶエリザベスを認めても何も言わず、正面に向き直って手を組んで目を閉じ頭を垂れる。エリザベスも同じように祈りの姿勢になった。

 クラークによれば、フローラ達は明朝出て行くとのこと。なにか接触があるかもしれないと、ルイザとジェマがぴりぴりしていたが特にこれといったこともなく、このまま別れそうな雰囲気だった。


 エリザベスはそれに幾分かほっとした自分を恥じた。やはり本人を目の前にすると複雑な思いがぬぐえない。あっさり離れられるなら、自分もそうだがクラークにとっても心の重石となったものが除かれるのではないか。そんな都合のよい思いさえ湧いている。



 司祭のよく通る声で祈りが行われた。解散という時にフローラがクラークとエリザベスのもとに近づいた。


「色々とありがとうございました。明日、出立いたします」

「――旅の無事を祈る」

「お体にはお気をつけください」


 クラークとエリザベスからの挨拶に、フローラは深く頭をさげた。


「ありがとうございます。クラーク様もどうぞお元気で」


 すっと姿勢を正してフローラは司祭に歩み寄り、何事か相談を始めた。

 エリザベスはこれがフローラの最後の虚勢かと黙ってやり過ごす。


「レディ、戻りましょうか」

「はい」


 クラークに促されて礼拝堂を後にしかけたエリザベスに、司祭が急ぎ足で近寄った。


「申し訳ございませんが、レディ・エリザベスは薬草にお詳しいとか。助けていただきたいのです」

「なんでしょうか」

「ベニーズ伯の一行が旅の途中で、熱や腹下しに効く薬を持って行きたいそうなのです。手持ちのは切らしているらしく。あいにく私は薬草にはさほど詳しくないので……」


 司祭は心底申し訳なさそうにエリザベスに依頼した。フローラが熱を出していたのを思い出し、エリザベスは頷く。


「わたくしにできることなら」

「ありがとうございます。薬草庫においでいただいて、この際ですから私にもご教示いただければ」


 エリザベスはクラークを見上げて、先に戻ってくれと頼んだ。

 クラークは護衛の騎士と侍女を残してしぶしぶ引き上げる。

 薬草の独特の匂いが充満する小部屋にエリザベスは足を踏み入れた。乾燥させて束にしたものがつり下がっていたり、棚には調合したものが整然と並べられている。あまり広い部屋でないので、エリザベスは護衛と侍女に声をかけた。


「部屋の外で待っていてください」


 念のため扉は開けたまま、エリザベスは忙しく行き来して目的の薬草を手に取って潰したり煎じたり、丸薬にしたりする。司祭は真剣な眼差しでその様子をつぶさに見守り、細かく質問しては紙に書き付けている。

 ある程度の人数分の薬ができあがり、小分けにして表書きに薬の種類と一回分の量を書いて調薬は終わった。


「ありがとうございました。それにしても薬草にお詳しいのですね。これはどういった効能があるのですか?」

「食が進まない時などに良いとされています」

「こちらは?」

「煎じて蜜と一緒にして、眠りを誘う薬です」


 なるほど、と乾燥させた薬草を前に司祭は感心している。いずれはどこかの責任者となって、医薬にも携わらなければならない。

 エリザベスは若い司祭の熱心さを好ましく思った。


「では、わたくしはこれで」

「一行の旅の困難を軽減してくださって、感謝いたします」


 司祭は再度礼を述べ、エリザベスは城に戻る。

 明日になれば取り巻く様々が変わる、とエリザベスは漠然とした緊張を抱いた。


 それぞれの思惑を胸に夜はふけ、朝を迎える。






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