04 酒盛り
その朝のクラークはいつもに増して口数が少なく、反比例して迫力だけが増していた。
体をほぐした後で、自らは剣も棒も振るうことをせずに、指導に時間を費やした。バートがなぜ手合わせをしないのかとたずねると、短い一言が返ってくる。
「手加減できそうにない」
得物を持たないのが賢明だ、とバートはクラークの意思を尊重して大人しく引き下がった。それからもクラークは黙々と指導を行った。
昼食の前に、クラークは王妃へ使いを出した。
鬱々と悩んでも時間の浪費だ。第一王妃に謁見を申し込んですぐに果たされるか分からない。。第二に、ここで無駄な時間を過ごせば親子の時間がそれだけ減る。第三に――嫌な用事なら早めに済ませてしまうほうがいい。
午後の約束の時刻に内心の緊張に顔をこわばらせて、傍目には鬼気迫る表情でクラークは王妃の応接の間へと赴いた。
それほど待つこともなく、王妃が現れた。夫の首を確認して以来、黒い衣装をずっと身につけている。
「お待たせいたしました。葬儀の準備に追われていまして」
「いえ、忙しいところに申し訳ない」
そこで落ちる沈黙が耐え難い。手には小さすぎて華奢な茶器に淹れられた茶を飲み、少しでもと間を持たせる。
卓に戻して顔を上げれば、こちらを静かにうかがう碧の眼差しがあった。
「ご用件は何でしょう」
「――父君の件、です。六日後となりました」
「そう、ですか。卿自らお伝えいただき、ありがとうございます」
「宰相殿は城内の部屋におられます。面会はご自由に」
「重ねてのご配慮、ありがとうございます」
昨夕の宰相が親なら、今の王妃はまさしく血を継いでいると感心させられるほどに、受け入れ方がよく似ている。が、王妃の方が痛々しい気がする。
血の気が引き、手を膝の上で組んでぎゅっと握り締めている。
普段であれば押し隠すだろう動揺も、さすがに幾重にも苦難が降りかかった現状では隠しきれなかったか。
「他にご用は」
「いや、別に」
早く帰れと受け取ってクラークは立ち上がった。王妃自らも見送りにか扉に近寄る。
ひそ、とクラークにしか聞こえない小声で王妃が囁いた。
「できるだけ苦痛の少ない方法を選んではいただけないでしょうか」
「――考慮します」
「わたくしにも罪を問うてはいただけませぬか」
「それは――無理です」
そこだけは断言して、クラークは王妃の手を取った。いんぎんに腰をかがめて甲に唇を押し当てる。騎士が取る礼の一つだが、様子を見ていた侍女からは王妃様が食われるかと思ったと述懐される光景だった。
下から包み込んだ手に少しだけクラークが力を込める。
「王妃様に問える罪は報告されておりません。どうぞ、御身をお大事に」
しっかりと王妃を見据えた後に一礼し、外に出る。王妃に付かせている自国の護衛騎士に囁きかける。
「王妃の自害と逃亡、誘拐に目を光らせろ。けして、騒動を起こさせるな」
「は」
短く返事をして騎士は王妃の間へと戻る。クラークは、今は冷徹な団長の顔でいた。
夫の、父親の後を追いたいと願う王妃を、死なせるわけにはいかない。幼い王子はいるが王妃もカデルの象徴であり、ハーストの庇護のもとで健やかでいる様子を周知させることが重要になる。それが政のきれいごとだ。
その一方で、人知れず王妃は泣くのだろうか、それとも涙をこらえるのだろうかと黒い衣装に身を包んだ姿態を思い出す。忠告を含めて取った手の指の細さと柔らかさ……そこまで反芻して、クラークは自分が王妃に触れたことに思い至る。
それまで堂々と歩いていたクラークが廊下の真ん中で唐突に立ち止まり、それまでとはうって変わった急ぎ足で自室に向かうのを、すれ違う者達は慌てて廊下の端によりながら見送った。
バートは乱暴に扉が開けられる音に眉をしかめた。不調法者は誰だと注意しようとして、それが上司で主と気付いて言葉を飲み込んだ。
むしろ熊親父がこんなに急いでいるのなら、別な理由があるはずと表情を引き締める。
「親父殿、何か不測の事態でもあったのですか?」
ならばすぐに騎士達に召集をかけなければと問いただすバートの前で、クラークは自分のごつごつと大きな手を見つめている。
あまりにもそのままなので、バートはクラークの側まで近寄った。
「親父、殿?」
「不測、不測か。手を……」
「手がどうかしましたか。毒のついた仕込み針でも刺されたんですか、それとも矢で狙われたんですが? 獣と素手でやりあったんですか?」
「白くて、柔らかかった」
「賊の特徴ですか。すぐに騎士を招集します。賊の人数は、親父殿」
反乱目的の賊か、と気色ばむバートにようやく気付いて、クラークはなだめる仕草をとった。
「賊ではない、騒ぐな」
「でも、親父殿」
どかりと長椅子に腰をかけてクラークは再び手を見つめた。
商売女のように爪も長くない、香水もきつくない、白い手を引き立てるかのような黒い衣装の袖と細い指……。
我ながら細かいところまで無意識のうちに観察しているものだ、と見当違いの感想を抱きながらクラークは手の平で顔を覆う。
と、やけどでもしたかのように手を引き剥がして、今度は唇を覆った。その顔は赤く、汗ばんでいる。
バートは目の前で熊親父の百面相と顔色の変化をつぶさに眺め、今日の予定を頭に浮かべて導き出された結論に、こめかみをぐりぐりと押さえざるをえなかった。
もしや、まさかと思ってはみるものの。
熊親父なのに、いい年のおっさんなのに、戦場の悪鬼なのに。何だ、この初恋に身悶えるような青臭い反応は。
確かに今まで熊親父と対面して平然としていた女性は皆無に等しい。そんな相手に興味と関心を抱くのも、ある意味自然だろう。だが、あの成り行きで顔を合わせてなぜこの反応になるのか。
大方、手を触れでもしたんだろうとはうわ言、いやたわ言から推測できる。
人目もあるし、なによりお互い立場がある。儀礼の域をでない接触だっただろうに、この有様か。
もし、これがもっと個人的な関わりにでもなった日にはと、バートは暗澹たる思いに囚われる。
この熊親父は果たして使い物になるのだろうか。
かの人が味方なら、敵でない程度でもいい。それなら問題はないが、万が一敵に回るようなことがあれば再起不能になるかもしれない。
既に好かれる要素などないに等しくても、これ以上親父殿が嫌われるようなことが起きなければいい。
バートは自身と騎士団の平穏のために祈った。これ以上……。
葬儀の準備と並行して身の回りの整理をさせながら、王妃エリザベスはずきずきと痛む頭に手を当てた。
戦が始まってからずっと、醒めない悪夢の中にいるような気がしている。
夢よりもひどい現実は、一つ一つエリザベスから大切なものを奪っていく。
夫である国王、民の命や大切な国土、国の命運、そして、唯一の肉親までも。
自分から全てを奪う象徴のように、要所要所で現れるとエリザベスは先ほどまで滞在していた、ハースト騎士団長を思い出す。
大きくて人相は凶悪、強い酒と金髪、赤毛の女性が好きな……。
きゅっと握りこんできた手はみなぎる熱と力を伝えていた。剣を振るい、命を刈り取るのも納得できる大きな手だった。
あれなら造作もなく、自分の命も消してくれるだろうに。
残された父との時間はあまりにも短い。焦りと出口のない憤りはエリザベスの奥深くに溜め込まれる。
クラークは、火酒の樽を二つ持ち込んだバートを胡乱げに見つめる。
差し向かいで座り、大きな手にはひどく小さく見える杯を押し付けてバートは勝手に酒を注いだ。自分にも手酌で注ぐと、ぐいとひといきで飲み干した。
「美味いじゃないですか。親父殿も空けてください」
「あ、あ。お前、一体どうしたんだ」
「なんでもありません。親父殿と飲みたくなっただけです」
さらりとそう言ってバートは空の杯にまた酒を注ぐ。カデル国王の葬儀も終わり、早いもので今夜は宰相の処刑前夜になっている。
宰相と王妃は水入らずで夕食を取っているはずだ。今夜ばかりは親子の交わりを邪魔しないようにと、アラステアからもクラークからも通達が出されていた。
早々に自室に引きこもったクラークだったが、バートの来襲で平穏はなくなっている。
「お前、ヒューに花街に誘われていなかったか」
「いいんです。俺は親父殿と違って女に不自由はしませんから」
「言ったな」
熊のように唸りながら、クラークは杯を干していく。王妃がクラークのために別に取り置きしている火酒は、なるほど極上だとバートは感嘆する。毒が入れられないようにとだけ注意はして保管しているが。
王妃に処刑を伝えてからこちら、クラークは王妃と顔を合わせないようにとあれこれ用事を作っていた。
ここ数日は城内の反発を考慮して、朝の鍛錬にも顔を出していない。
バートは人知れず細やかな配慮をするクラークを、尊敬に値すると思っている。
ただ何をしても、外見や印象からあまりよく取られないのが気の毒だとも。
「親父殿」
「何だ」
「お疲れ様です」
脈絡のないことを言い出した副官を、クラークはじっと見つめる。
この聡さが頼もしくもあり、私生活ではやや煙たくもあり、だ。
「あまり飲まないぞ。酒臭いままで明日を迎えてみろ、カデルに対して失礼だろう」
「親父殿、本当にいい男ですね」
「なんだ、それは」
いえ、と一人で納得した様子で酒を飲むバートを変な奴と思いながら、クラークはゆっくりと杯に口をつける。今後の予定を整理する。
国王の葬儀は無事に終わった。明日の山場を越えたなら、いよいよ陛下をお迎えする。
自分には政治的な気配りを求められても、上手く立ち回る自信はない。戦場で武器を振り回して、戦の後処理にこの強面を利用するのがせいぜいだ。
陛下がいらしたらアラステアの方に比重が移る。カデルの今後について協議し、王族を含めた今後を決定して書面を交わす。
そうすれば城には正式にハーストの国旗がひるがえることになるだろう。
後は、陛下と一緒に戻るか、カデルの王族を連行――は語弊があるから、移送してハーストに戻る。王族はハーストの王城にとどまることになるだろう。
ハーストに戻れば当面はお役ごめんのはずだ。領地に戻ってゆっくりしたい。
そして普段はあだ名のような熊親父で、有事の際には戦場の悪鬼になる。これまでどおり。
「親父殿?」
「何だ」
さっきと同じようなやり取りをすれば、バートが杯の酒を透かし見るようにしている。火酒は深みのある琥珀色をして、色合いも綺麗だと思うが。
そんなに見とれるほどだろうか。
「この色、王妃様の髪の毛の色に似ていますよね」
思わず口に含んだのを噴出しそうになって、慌てて飲み込むと喉をかっと焼け付く感触がすべり落ちる。
「お前っ、何をいきなり」
「俺、初めて見ました。親父殿と目を合わせても怯まない女の人。あれ、見ちゃうと、うん、納得しました」
「だから、何をだ。自己完結するな」
「前途は多難しかありませんけど、俺は応援します。だから頑張ってください」
激励されているのか、落とされているのか分かったものではないとげんなりしながら、クラークは酔っ払いの域に達したバートを長椅子に転がして毛布をかける。
「親父殿……女の人には、意外性で……」
あとはむにゃむにゃ言いながら眠ってしまった副官を前にしてはそれ以上飲む気にもなれずに、水を注いであおる。
「頑張れもなにも相手は一国の王妃だぞ。しかも明日は……」
自分の言葉に顔をしかめてクラークは寝台に潜り込んだ。何度も寝返りをうち、眠ろうと無駄な努力を試みる。
明けなければいいのに。そう思いながら時間が過ぎていく。
そしていつものように朝が来るのだ。
――宰相の処刑を行う日が。