39 不作法
エリザベスはすっと視線をクラークに当てた。諭すようにゆっくりと声をかける。
「ウォーレン卿、まずは深呼吸をなさってください。そしてうかがいます。最初の『あれ』とはなんのことでしょう?」
「あ……フローラの、いえ、アンダーソン嬢のことです」
「では次の『あれ』とは」
ここでクラークの目が泳ぎ、エリザベスは薄々言わんとすることを察した。それでも確認が必要だ。じっと待っているとクラークがぼそぼそと呟いた。
「レディの、目撃なさったことです」
「――では最後の『あれ』の意味を、お教えください」
寝台での光景が思い出されて、つきりと胸が痛んだ。これで最後のあれ、が本気であるとかいつもの習慣などと返ってきたならば。エリザベスは胸の前でかき合わせている肩掛けをきゅっと握る。
さながら裁きを待つ者のように、クラークの返事をまった。
クラークは少し落ち着いたらしく、言葉を選んでいるようだ。バートも扉の陰から固唾をのんで見守った。
「間違いです。正確には間違えました」
意外であったので、エリザベスはクラークを凝視した。間違い、何を間違えたというのだろうか。
エリザベスの疑問を読み取ったのだろう。クラークは一歩、また一歩とエリザベスに近づいた。そろりと立ち上がり、エリザベスは近寄ってくるクラークをその場で待った。
エリザベスにだけ聞こえるような小声で、クラークは最後のあれ、の説明をする。
「香水や私への呼びかけが同じだったので、起き抜けの私はレディと間違えたのです」
「わたくしと? でもわたくしとあの方では外見が異なります」
「手の平で目隠しをされてしまって。申し訳ないです」
騒動の後で倒れたクラークに、フローラと示し合わせて逢い引きする機会はなかったのはエリザベスも承知している。
ならばフローラの企み? 恋情のなした行為なのだろうか。女性の身で忍んでくるのなら、相当にクラークへの想いは深いのではないか。振り返ったフローラの青い瞳には涙が浮かんでいたし、支離滅裂な謝罪と狼狽ぶりも後先考えずに気持ちを抑えかねてやってきたとも思われる。
ぼんやりと考え込んだエリザベスとは対照的に、クラークの方は胸のつかえが取れて安堵していた。張り詰めていた気が緩んだ。そしてうかうかとエリザベスに誘導されてしまった。
「お話はわかりました。ときに、フローラ様とは何年のお付き合いですか?」
「三年と少しになります」
何気なく付け加えられた問いに普段の音量でするり、と答えて我に返る。エリザベスが三年、と反芻する唇の動きに湯上がり姿を間近にした興奮が、冷水を浴びたようにさめていく。
またやってしまったのか。額や脇にじわりと嫌な汗を感じるクラークに、エリザベスは静かにお引き取りを願った。
「丁寧な説明をありがとうございました。このようななりですので、この場での見送りで失礼いたします」
「あ、の……レディ」
「なにか」
「さ、三年といっても逢ったのは数えるほどで。私にとっては過去のことです」
「でも親しくされていたのは確かなのでしょう?」
花街の機能はよく分からないが、女性が出歩くのは難しいと思える。それこそフローラくらいの、貴族と同席できるような女性でなければ無理ではないか。エリザベスの疑問にクラークも頷かざるを得なかった。花街に通いはした、と。
どう捉えたのか表に出さずに、エリザベスは話を切り上げた。
結局クラークはやってきた際の気負いもどこへやら、墓穴を掘り意気消沈して引き上げるはめになる。
邪魔にならないようにと控えていたルイザが、エリザベスの寝衣の肩に触れた。
「肩口が濡れて。冷えてしまいます。お着替えなさったほうがよろしいでしょう」
「そう、ですね」
素直に新しく差し出された寝衣を身につけ、暖炉の前でクラークが来る前と同じように布で髪を挟んで押さえ、水気を吸わせた。
ぱちぱちとはぜる薪とゆらゆらと揺れる炎を見やりながら、クラークからの情報を整理する。あの口付け自体はクラークの予期せぬものであったようだが、二人は深い仲で少なくともフローラはクラークを慕っているようだ。
クラークには過去かもしれないが、フローラにはそうではないだろう。
夜会で感じたように自分が邪魔者や部外者ではないようだが、先はわからないとエリザベスはため息をそっとついた。
複雑な心情に呼応するかのように、ひときわ大きな音をたてて薪が燃え崩れた。
バートは幾度もため息をつきそうになり、そのたびに思いとどまる。
眼前の熊親父が既に萎れているので、追い打ちはかけられなかったからだ。
同様の失態をおかした部下がいたならば迷わず外壁に吊すのに、相手が熊親父ではかなわない。
ここ最近すっかり馴染みになった鳩尾あたりの痛みを服の上から撫でさすりながら、バートは戦局――状況は悪化したと判断した。
寝台での誤解は解けたが、それ以上の問題を生じてしまった。
「親父殿。浮気がばれた亭主みたいですよ」
「うるさい」
「厳密にはレディと知り合う前ですから浮気には当たりませんが、それにしても、はあ」
なぜあそこで正直にフローラのことを話す。しかもレディに。
恐ろしいのはレディが表情を変えなかったこと。状況を把握した上で淡々と新たな事実を引き出した。
それまで声は聞こえないながらも財政の危機が遠のいたらしいと安堵に浸っていたバートの足下を一瞬で崩す、おそろしい回答だった。
一種の恐慌に陥った熊親父の口から続いた内容にめまいを覚えつつ、それこそ頭を叩いてでも止めさせたかった。人語を話したと思えばこれか、と胸ぐらをつかんで揺さぶりたかった。
「もうあれですね、俺はフローラを奥様と呼ばなければならないんですか」
わざとらしく両腕をさすりながらのバートの当てこすりに、クラークは景気づけにあおったはずの杯を握りしめるだけだ。
背中を丸め肩を落としている様に、騎士団長の威厳はかけらもない。うらぶれたおっさんだ。しかしバートもともすれば、熊親父同様背中が丸まりそうだった。
どんよりと沈む男二人など見られたものではない。二番目に上等な酒の出番なのだろうか、早すぎるとバートは埒もないことを考える。
「やめよ、と先ほども言ったはずだが」
「説得して引き止めにいって、穴掘ってどうするんですか。レディに誘導されるなんて、日頃の鍛錬の成果はどこに行ったんです?」
「あれは……」
ぐっと唇を噛みしめるクラークの手の中で杯がきしむ。さんねん、と呟いたエリザベスに心底おののいた。
平静な表情の下の感情はどうだったのだろう。
「ベニーズ伯の領地の者が到着ししだい、フローラも連れ帰らせる」
「上手くいきますかね」
「バート」
「親父殿のレディに嘘をつきたくない気持ちはわかりますがね」
「私が偽りを述べても、フローラから事実が伝われば余計にレディに失礼だ」
女狐からか、とバートは暗澹たる思いにとらわれる。ありそうだ、しかも誇張するかもしれない。誇張しない事実だけでもかなり際どいだろうから、レディなど容易く術中に嵌まるだろう。
おっさんにやけ酒はある意味危険なので、ちゃっかり酒瓶は取り上げてバートは自分の部屋に戻る。ただし自分も飲めない。胃は大事。懐が危うい今、体を壊すわけにもいかないのだ。
「やってくれたぜ、おっさん」
瓶をつかんで独りごちる。
ベニーズ伯とテイラーの繋がりを早く突き止めなければならない。もしベニーズ伯が黒幕や関係者であったなら、心置きなくフローラを放り出せる。
修道院のことはそれから考えても遅くない。
随分と頼りない綱を渡る気分だが、できるだけ大勢の幸福を追求するのはこれしかない、とバートは心に決める。
礼拝堂に赴いたエリザベスは、司祭が浮かない顔をしているのに気付いた。
「司祭様、どうかなさいまして?」
「私の旧知の司祭が体調を崩して、私に会いたがっているとの手紙が届きました」
「まあそれはご心配なことでしょう」
司祭は神の像を畏敬をこめた眼差しで見上げる。短く祈りを呟いてからエリザベスに笑いかけた。
「ここで快癒を祈るつもりでしたが、短期間代わりの司祭をよこすので是非にと懇願されました」
「よほど司祭様にお会いしたいのですね」
「私としても、できるならばとは思うのですが」
「ではわたくしからもウォーレン卿にお伝えいたしましょうか」
ずっと城付きとして留まっている司祭の望みが実現してほしいと、エリザベスはクラークの執務の合間を見計らって対面する。クラークは執務のための部屋に現れたエリザベスに、いささか慌てて立ち上がった。同行した司祭は視界に入っていない。
お茶を用意させた後で人払いがなされて本題に入る。
部屋の椅子に腰を下ろして、エリザベスは司祭が差し出した手紙をクラークが読むのを見守った。
「で、しばらくの間、城を離れたいとおっしゃるか」
「はい、ご迷惑をおかけいたしますがなにとぞ」
クラークは司祭に顔を向ける。相手が王族や名のある貴族でもない限り、紙や筆跡から素性を知るのは難しい。旧友とやらも高名な司祭で、手紙に刻印されている紋章は確かにそこのもののようだ。
しばらく考えて、クラークは判断を下した。
「私に気兼ねなどする必要はありません。お心のままに」
「感謝いたします」
司祭はゆっくりと頭を下げたが、クラークはその様子にほっとして緊張を解いたエリザベスに注意が向いていた。
エリザベスも微笑みを浮かべて礼を言うものだから、落胆していた反動でクラークは舞い上がりそうだった。
「早速に返事を書き、旅の支度を調えます」
司祭は再度丁寧な礼をして礼拝堂に戻る。旅の支度といっても清貧で手間はかからないが、旧友に届けたい物などあるだろう。病であればなおさら顔を見たいと気が逸っても不思議ではない。
エリザベスは司祭を見送り、さて自分もと腰を浮かしかける。異性と二人きりで人払いというのは、礼儀作法の観点からは眉をひそめられる行為だ。
扉の外に控えているはずの侍女に声をかけようとしたその時には、驚くべき敏捷さでクラークが肉薄していた。
「レディ」
切羽詰まった表情のクラークに動悸を覚える。肩に手を置かれて椅子にまた沈められる。クラークが床に跪いた。
「ウォーレン卿、どうぞお立ちになってください」
エリザベスの手を包み込むように握り、いや、握りしめてクラークは必死の形相でエリザベスを見上げた。今を逃せば次はいつ顔を合わせられるかわからない。この機会を逸してなるものか、とさながら敵を捕捉する時と同じ気迫に充ち満ちていた。
エリザベスはつかまれた手が痛むので外してほしいと、やんわりとクラークに頼むが耳に入っていないようだ。
「レディ」
「……はい」
大人しくしていた方が早く解放されるだろうと、エリザベスは素直に応じた。
演じる人によってはたいそう魅力的な芝居の場面のような状況でも、喪服姿ではまるでそぐわないと的外れなことを考える。
鬼の形相のようなクラークを覗き込んで、まるで肝試しのようだとも感じていた。
「ウォーレン卿?」
「レディ、どうか私と――」
いつまでもここにいてください、と続けようとした刹那、椅子に腰掛けているエリザベスが盛大に顔をしかめる。絶妙すぎる間で嫌悪の表情を浮かべられて、クラークは撃沈した。
ぷつりと途切れてしまった声に、眉をひそめたままエリザベスがクラークをうかがうと生気が抜けている。
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」
「卿?」
「思い返せば、最初から私はレディに苦しみしか与えておりませんでした」
「あ、の……」
クラークが来し方を反芻してはますます落ち込んでいる様子に、エリザベスは身をクラークの方に乗り出した。
本当なら頬や肩など手で触れたかったが、あいにくと未だ握り込まれていて自由にならない。項垂れているクラークの耳元に顔を寄せる。
「卿、どうなさったのです?」
耳にかかる吐息とどこか甘い声の余韻にクラークは顔を上げたが、眉尻が情けなく下がっている。
「自分が情けなくなりました。レディにこんな表情をさせるほど厭われていても……当然ですね」
「わたくし、どんな顔つきでした?」
「顔をしかめられ、眉をひそめられていらっしゃいました」
ああ、それは、とエリザベスは握られた手に視線を落とす。つられてクラークも。
「卿に握られている手が痛かったものですから」
「これは、失礼を」
慌てて手を離すとうっすら赤く、指の痕すら残っている。
赤くなったり青くなったりめまぐるしく変わるクラークの顔色に、エリザベスはふっと気が抜けてしまう。
「これで大丈夫です。先ほど続けようとなされたのは何でしょう」
「え、あ……。あのですね、私と」
「卿と?」
顔を近づけ合ったままで交わす睦言のような囁きに、空気が揺れる。
太い腕が上がり、ゆっくりとエリザベスの後頭部に大きな手が触れた。そこに力が入り、元々近かった距離をいっそう詰める。
探るような色を瞳に宿していたエリザベスが頬に朱の色を乗せる。
唇を開いて、言葉を探して、ようやく出てきたのはいささかずれた質問だった。
「間違いではありませんの?」
「レディ、私は寝ぼけてはおりません」
「わたくしは、お二人の邪魔をしているのではありませんか?」
「とんでもない」
むしろ邪魔なのはと心中で続けたクラークは、賢明にも黙ったままエリザベスを引き寄せた。喘ぐようなはやく浅い息遣いが、肌の上に湿り気を与える。
恥じらうように目を伏せたエリザベスにクラークは壊さないように、力を入れすぎないように気をつけながら口づけた。
寝ぼけているわけでもなく、互いに惹かれあってこうしているのが自然な流れなのだと、納得させるような口付けだった。
「……わたくし達、ひどく礼を失しています」
「この際固いことは言いっこなしにしましょう」
「あなたが回復されて、本当によかった」
エリザベスが香水を変えたのに気付き、クラークはエリザベスへの接近を赦された幸福に酔いしれる。
不用意に執務室に踏み込んだ者は、クラークの一睨みに硬直するはめになった。