38 花の棘
エリザベスは朝食の後で、塔の部屋にアダムスの訪問を受けた。非の打ち所のない作法でお茶を淹れたアダムスは、エリザベスが馥郁たる香りをゆったりと楽しみ、一口含んで余韻を堪能しているところで切り出した。
「レディに面会の申し出を承っております」
「どなたでしょう」
「ベニーズ伯爵令嬢です」
エリザベスはもう一口お茶を味わってから、静かに茶器を置いた。
アダムスは感情を表さずに起立している。控えているジェマは内心穏やかではないながらも口出しなどできず、耳をそばだてて黙っていた。
「床に伏せていらっしゃると聞き及んでおりますが、よくなられたのですか?」
「ようやく床を離れることができ、是非レディにお目にかかりたいと」
とんでもないとジェマが柳眉を逆立てる。あの光景を目の当たりにしたジェマにとって、フローラ・アンダーソンはエリザベスの敵なのだ。いや、今はベニーズ伯爵令嬢だったと忌々しく心中で訂正する。
レディへの面会を申し出るなど図々しいとしか思えない。ジェマはエリザベスが当然断るだろうと予想した。
エリザベスは茶器を両手で包んでじっと視線を注いでいた。喪服に包まれた横顔は静かで、何を考えているか悟らせない。
「お悔やみも申し上げませんと。床を離れたばかりですね? では塔においでいただくのは酷でしょう。午後にうかがいます。そのように手配をお願いします」
「承りました」
深々と礼をしてアダムスは部屋を出て行く。その際にジェマになだめるように一瞥した。ジェマにだって意味するところはわかっている。わきまえろ、控えていよ。
でも、と反論したくなる。
アダムスとバーサ、バートやヒューも交えて主達の仲を話し合ったのが幻だったかと思えるくらいに今の二人はよそよそしいを通り越して接点がない。クラークだけはうろうろとエリザベスに近づこうとしているが、鉄壁の防御に阻まれている。
一度正面突破を試みたクラークが強引に部屋に入ったが、エリザベスがウォーレン卿、何のご用でしょうかと静かに問いかけた瞬間に、言を継ぐことができずに退散する始末だった。
「たしか熱を出されていたとか」
「はい、ベニーズ伯がお亡くなりになってすぐに倒れ、熱が続いたそうです」
実に都合良く、とは口に出さずジェマは事実のみを告げた。
美人は病で伏せっていても、いや伏せっているからこそ儚く見えるのか城の男性の召し使い達は軒並み骨抜きだった。
ベニーズ伯の供の者達は別のところに隔離しているため、交代で看病やこまごまとした雑事に関わったが確かにあれは目の毒かもしれないと感じた。負の感情を持っている自分でさえどきりとさせられるのだから、先入観のない者では――。
いやいやいや、とうっかり同情しそうになるのをこらえて、ジェマは気持ちを奮い立たせる。
「レディがわざわざ足を運ばれる必要はございませんのに」
「病み上がりでは色々おつらいでしょう。わたくしにも覚えがあります」
お茶のおかわりをジェマに頼んでエリザベスはまず窓に、そして部屋全体へと視線をやった。それきり黙って本を手に取ったエリザベスは、静かに午後までの時間を過ごした。
客室の寝室の続きの部屋に喪服の女二人が向かい合っていた。
エリザベスは手放すことなく側に置いている扇子を手に。向かい側には喪服が目と髪の色をいっそう鮮やかにしていると思わせるフローラが、こちらは刺繍を施した主巾を握っている。
「このたびはお気の毒なことでした。お力を落としませんように」
「まことに恐れ入ります。私にとって意外で、まだ本当のこととは思えません」
しっとりした声は今はか細く庇護欲をそそる。泣いたせいか目元がほんのりと色づき、長いまつげが伏せ気味で目蓋に陰をつくる。匂うような色香とエリザベスは魅せられた。
宝飾を抑え化粧も控えめなのに美しさが際立っている。
花街でも最上級の――女神がいた。
「これからどうなさるおつもりですか?」
「義父の領地からの使いを待ちます。数日かかりそうですが」
エリザベスはわずかにためらう。どうするつもりか、クラークとどうなるつもりかと尋ねたい衝動と戦っている。ただ人の目があるために実行に移せないだけ。
見舞いとお悔やみに訪れたというのに、周囲はものものしかった。
アダムスが当然のように采配を振るい、ジェマとルイザが背後にいる。バートも常より多い他の護衛を室内外に待機させていた。バート自身は扉の横でなりゆきを見守る。
二人ともただ座って会話しているだけなのに、周囲の緊張の度合いが著しい。
かくいうバート自身も雰囲気に飲まれそうになっていた。
「ベニーズ伯のご領地に向かわれるのですか?」
「はい、そのように考えております」
瞬間、表には出すことなく安堵を覚えた者が少なからずいた。
「いつまでもクラーク様のご好意に――ご厚意に甘えているわけにもまいりません」
バートはエリザベスの唇がかすかに震えたのを把握した。そして女狐、と舌打ちしたい気分になる。ごく一般的な言い回しをつかってその裏を伝えてきた。レディがあの場面を思い出すことを承知の上で。
同時にフローラの纏う雰囲気が余裕を持ち、幾分か甘やかになる。
エリザベスは静かに対峙した。
「遠慮なさることはありませんのに。伯が亡くなられてさぞ心細いことと存じます」
「レディ・エリザベスはお心の広い、優しい方なのですね。噂通りですわ。実際にその寛大なお心に触れられて、私は感激です」
「噂、ですか」
喪服姿で端然と座るエリザベスに、喪服姿も艶麗なフローラが大きく頷く。
花のような唇から言の葉がこぼれた。
「カデルの王城にあって王妃としてのつとめを果たされ、同時にあまたの側室にも動じることなく見事に治められたとか」
「――ずいぶんと大げさな。買いかぶりです」
「いいえ。私は身をもって知りました。私のような者にお気遣いくださるのですから」
褒め称えてはいる。が、とバートは苦々しさを隠せない。
まさしく花街で鍛えられ磨き抜いた話術に潜ませる棘の数々。とがめる方が無粋に取られる言い回し。
侍女達は真意を捉えきれていないようだ。単に女主人であるレディが賞賛されていると思っている。さすがに、とアダムスをうかがえばこれは見事な無表情を貫いている。
さて肝心のレディがどう出るか。
同じ水準で応酬するのか。それとも退くのか。
バートの予想は意外な形で破られた。エリザベスが微笑を浮かべたのだ。
「ありがとうございます。面はゆいですね」
今度はフローラの方がやり込められたようだ、とバートは感じる。
最小限の言葉で自分を貶めることもなく、相手の面目も保つ。それでいて皮肉交じりの過去の『手腕』や『功績』を肯定する。見事な切り返しに感心するバートの前で、フローラもどう対応しようか考えあぐねているように見えた。
エリザベスがフローラの様子をうかがい、背後に注意を払う。
「長居をしますとお体に障るでしょう。これで失礼いたします」
「わざわざありがとうございました。後ほど、クラーク様にもお礼を申し上げたいと思います」
立ち上がって礼をしたフローラに見送られ、エリザベスは客室から廊下へ出た。
最後に扉を閉じたアダムスに会釈をして、歩き出す。
まっすぐ塔に戻るかと思われたが、エリザベスがバートを振り返った。
「肖像画を拝見したいのでそちらに寄ります」
「はい」
フローラと対面した後でウェンブル伯の歴代の肖像画か。エリザベスが何を考えているのだろうかといぶかしみながらも、バートは付き従った。
確かここへは、城に到着した翌日に来たはずだとバートは記憶をたどる。
仕来りの一夜を過ごした後でだったので印象深く覚えている。
長く初代と先代の肖像画の前で佇んでいた。あの時熊親父とレディは、ぎこちなくも寄り添って立っていたのに。
エリザベスは今回も二つの肖像画をじっと眺めていた。先代のなど穴が空きそうだと思えるほどに熱心だった。背筋を伸ばし、おとがいを上げて両手で扇子を支えて。
しばらくしてから、エリザベスは少し離れて立っていたバート達に微笑んでみせた。
「ありがとう、戻ります」
足音が高い天井へと響く。バートは一同の後ろをついて行っていたが、エリザベスの後ろ姿に不安を覚える。
久しぶりに塔から出てきたはいいが、フローラと対面して肖像画を鑑賞してから戻っていく。その落ち着いた振る舞いに、抑制がききすぎていないだろうか。誰も寄せ付けず入り込ませない。
――王妃時代のエリザベスはこうだったのだろうか。微笑んでいて、礼儀正しく非の打ち所はない。しかし。
バートは熊親父が誤解を解いていないのが心配で仕方ない。
時機を逸せば取り返しがつかない。漠然とした悪い予感のまま、午後の廊下を歩いていた。
夕食の済んだクラークは、バートから脅しをかけられていた。広間にエリザベスは現れず、クラーク自身は味気ないまま皿を下げさせて部屋に戻り杯に酒を注いだところだった。
「いいですか。どんなに軽蔑されても呆れられても信じてもらえなくても、とにかくレディに話を聞いてもらうんです」
「しかし、取り付く島もないとはあの様子をいうのだ」
「ならハルバードの斧で引っかければいいでしょうが。俺は心配なんです。あの女がレディにそこはかとない圧力をかけているのを、目の当たりにしてごらんなさい。静かで恐ろしい有様でした」
かいつまんで午後のできごとを報告するバートの前で、肩を落とす熊親父。
それとなく二人の仲を匂わせ、エリザベスを『正妻』としては完璧にこなすが、その実多くの側室を抱えさせるような――つまり女性としての魅力はどうかと揶揄している。
クラークから好意を受けているのだと、感謝を装いつつ口にする。
意図はエリザベスに伝わっていた。ただ同じところに立たなかっただけの話だ。
「部屋で枕に八つ当たりするとか、菓子を沢山食べるとかなら鬱屈の程度も知れます。それが肖像画を食い入るようにご覧になるんですから。親父殿はどう思われますか?」
「女性の心理は私にとって最大の謎だ」
「ですよね」
おっさんに女心を推し量れという方がどだい無理だった、とバートも納得して肩をすくめる。
「このままだとレディは修道院、親父殿は『フルール』にとっ捕まる未来です」
「そんなはずがない」
「何故です? 相手は伯爵令嬢になりました。身分的には許容範囲内です」
バートの指摘にクラークは顔をしかめ、苛々と指先を卓に打ち付ける。
熊親父になおもバートはたたみかけた。
「羨ましいですよ。『黄金の女神亭』の女神を妻にできるんですからね。世の男どもは親父殿に嫉妬と羨望の眼差しを向けますよ」
「……やめよ」
「嫌だったら動きましょう。説得しましょう。引き止めましょう。今すぐに」
笑顔でずい、と迫られクラークはのけぞった。
バートの、自分を思っての忠告はありがたい。これほど真剣に、真摯に説得してくれるのもありがたい。が、この異様な熱意はどこから来るのだろう。瞳の色が尋常でない気がする。
だがバートの発言内容はもっともだ。ずるずると会えない日々を過ごすと、本当にエリザベスがいなくなってしまう。
ベニーズ伯とテイラーの件は最後の環が足りない。まだエリザベスに知らせる段階ではないとはいえ、解決を待つ間にエリザベスとの仲が修復不可能になってしまう。あるかなしかの繋がりをたぐり寄せたのに、取り逃がしてしまう。
クラークは杯の酒を一息であおり、口元を手の甲で拭って勢いよく立ち上がった。
そのままの勢いで部屋を出る熊親父を手を振りながら見送って、バートは祈りながら上の階を仰ぎ見た。
どうかおっさんの主張を入れてはもらえないだろうか。
届け、おっさんの想い。
「頼みます」
呟いてからバートも後に続いた。こんな面白い……いや人生をかけた一場面を確かめないでどうする。
勢い込んで階段を駆け上がり、驚く護衛を尻目に部屋に入ったクラークの迫力は異様だった。何か言いたげな侍女を押しのけるような格好で踏み込んで、足が止まった。
暖炉の前で寝衣を身につけ濡れた髪を布で挟むようにしていたエリザベスが何事かと振り向いて、凍り付く。
どうやらクラークがバートの説教を受けている間に、夕食と湯浴みを済ませたらしい。
「あ、レディ……」
「ウォーレン、卿」
全身にみなぎらせていた決意がしぼむのをバートは目撃した。代わりに首筋から耳が上気していくのも。
侍女が慌てて差し出した肩掛けで肩から胸元を覆い、エリザベスが落ち着かない気分でクラークを見上げた。湯上がりのせいでなく、頬が熱い。クラークはそんなエリザベスを凝視していた。
栗色の髪が濡れたせいで色が濃くなり、首筋に一筋張り付いて……。
いつまでも黙って立ち尽くしているクラークに、それまで顔を合わせるのを避けていたエリザベスが声をかけた。
「ウォーレン卿。なにかございましたか?」
「何か、ええ、あの、髪が」
「見苦しい姿をさらして申し訳ありません」
バートはエリザベスの視界に入らないようにそろりと移動して、ついでに息も殺して気配を消す。
エリザベスは肩掛けの下に髪の毛を入れ込んだ。
「なにか、急を要することが起こったのでしょうか」
「……急を要する。是非聞き入れていただきたい話があって参りましたが」
どことなく上の空のクラークに、肩掛けの前をしっかり押さえながら困惑を隠せなかったエリザベスの表情が改まる。
礼儀正しいクラークが扉を叩くこともせずに開け放ったのだから、ただ事ではないのだろう。一体どんな話かと、エリザベスの白い喉がこくりと鳴った。
「城に滞在しているフローラ・アンダーソンについてですが」
「ベニーズ伯のご令嬢がどうかなさいましたか」
「――あれとのあれは、あれなんです」
「卿……」
全く意味がわからない、とエリザベスは首を傾げる。バートは頭をかかえてしゃがみ込みそうになった。
おっさん、人語を話せ。