36 勘違い
綺麗な人だった。涙に濡れた瞳でさえ美しくて、視線をそらせない。春の女神の名を持つ人だった。美しさだけなら夫だったカデル国王の周囲の女性達を凌駕する。夜会では身のこなしは優美で、衣装の着こなしは見事の一言だった。
花街の住人とはみなあのように、咲き誇る花のような存在なのだろうか。なれば男性が通うのも無理はない。
あの女性がクラークと親密な人。
確かに親密だった、とエリザベスは耳を塞いで項垂れたままで思い出す。
どうして彼女があの場にいたのか合点のいかない部分はあるが、二人の様子は間違いなく男女のそれだった。
口付けを交わし互いに求め合っていた……寝台の上で。
かりそめとはいえ自分に与えられていた寝台で、とまで考えて今自分の居る場所に気付いた。まるで焼けた薪の上に座っていたかのように、慌てて立ち上がり長椅子に腰を下ろす。
「わたくしは、どうすれば」
個人としての身の処し方と、公の処し方は異なる。
私人としてなら今すぐにでも修道院に入りたい。城に居続けるのが辛い。クラークとフローラの寄り添う姿など見たくない。
公人としてなら――。黙って全てを受け入れ義務を果たすべき。
そうは思っても次の瞬間には、もし、クラークがハーストの国王陛下の命令通り自分を選んでも、心が別にあるのであれば傍らに居ても形式だけにすぎないと囁く声がする。
王妃なら受忍できただろう状況でも、心の弱っている今は耐えられそうになかった。
ことに夢を見てしまった後では、邪魔者でしかない現在とつまはじきになる未来が一層堪える。
頭を抱えて項垂れたまま、エリザベスはまんじりともしなかった。
すぐ階上では雁首そろえて男達が整列している。
こつ、こつとゆっくり前をいったりきたりするのは、バートだった。
その歩みがぴたりとヒューの前で止まった。ヒューはごくりと喉をうごめかせた。
「さて」
さして感情も込められていない短い一言だったのに、びりっと空気が緊張する。
横並びにさせられた面々は、本日の塔の警護を任された者たちだった。
主の熊親父は無理矢理に寝台に押し込められている。表情は苦虫を噛みつぶした、ではなく唸りをあげて今にも攻撃に移ろうかという獰猛な肉食獣のそれだった。実際に何度も階下に行こうとして、バートの射殺さんばかりの目つきで寝台に縫い止められている始末だった。
「やすやすと部外者を上に上げた責任は感じてくれているか?」
「ぶ、部外者って」
「この期に及んで彼女を関係者、なんて頭に花は咲いていないよ、な」
最後の『な』をいやに強調しながらバートは口角を薄くつり上げた。
城内外の処理に追われてやれやれと戻って、塔での騒動の報告を受けた。慌てて上がってみるとレディが熊親父の部屋にこもって呼びかけにも応じない。
熊親父はようやく目を覚ましたばかりなのに顔色は非常に悪く、それ以上に絶望からか人相の悪さにも拍車をかけている。
最後の報告にここに来た折には、眠る熊親父の横でレディが慈愛に満ちた眼差しを注いでいたはずなのに。
何がどうしてこうなった。
関係者を集めて時系列に沿って事情を聞いて、事実を組み上げればつまり。
「レディと間違えて塔へと通したあげく、泣き落としに負けて部屋にまで入れて、お楽しみの現場をレディに目撃された、と。警戒がなさすぎる。
手練れであれば身一つ、その場にある物一つで易々と人を害するのは可能だ。しかも親父殿とはいえ毒で弱って伏している状況の人間の側に通すとは。お前、親父殿に死んで欲しい理由でもあるのか?」
詰問されたヒューは涙目でぶんぶんと首を振る。
そりゃあ、あんな美女に想いを寄せられている上にレディともよい感じでなんで熊親父が、熊親父のくせにと思ったのは否めない。
だが熊親父を害するつもりなど毛頭なく、バートの叱責も当然だと悄然と項垂れる。
バートの挙げたように熊親父に万一の事があれば、悔やんでも悔やみきれない。
「バート、けして私は楽しんでなど……」
「親父殿は口を出さないでください。もし王城で同様のことがあればどうします? 処断されて当然でしょう」
主の寝間にやすやすと他人を通す。近衛であれば到底赦されない失態であるから、バートの言い分は正しい。伏していたとはいえ野生の勘でもって殺気に対しては対応する自信はあるが、今はバートの叱責に任せようとクラークは黙った。
代わりに後悔が押し寄せる。
視線を移した先にいた、エリザベスの顔を思い出しては頭をかきむしりたくなる。喪服ではない姿で立ちすくんで凝視していた。
なぜあんな所に、と目覚めたばかりの頭はうまく回らない。
だってエリザベスならここに――。顔を上向けた先にいたのは別人で。
その後は悪夢のよう。
夢なら良かったのに。
「お前達は当分外周りだ。あと鍛錬の時間を延長する。休暇は取り消し。以上だ。もう下りていい」
「はい。申し訳ありませんでした。失礼します」
ぞろぞろと人が出て行けば、急に室温が下がったような気がした。
腕組みをしたまま扉を向いて厳しい顔をしていたバートが、寝台へと視線を移した。
「さて、親父殿」
「何だ」
「まずは、口紅を落としたらどうかと思うんです。よほど激しかったんですか、情事の痕跡がばっちりです」
「激しいだと? 誰が情事など」
慌てて手の甲で口を拭えば、紅がすっと刷いたようにこびりつく。
苛立ちを誘うほどに紅く、禍々しい。クラークは乱暴に布で拭っては口もごしごしとこする。バートはその様子を冷ややかに見つめていた。
「親父殿は俺を破産させる気ですか。よりによってフルールと睦み合わなくてもいいでしょうに」
「だから私は、レディだとばかり……」
「なぜそう思ったんです」
問われてエリザベスの使っている香水の香りがしたこと、『ウォーレン卿』と呼びかけられたこと、目蓋を手で覆われたのも自制に富んだ彼女らしいとも思いあえて抗わなかったこと、なにより優しく触れて口付けをしてきたことでエリザベスだと思い込んで、ついでに夢だと思ってしまったのだと結論づける。
まさかフローラがいるとは思わずに、それも現実感のなさに拍車をかけた。
しかし紛れもない現実で、塔の上と下にクラークとエリザベスは離れている。
「寝ぼけて間違えた、とおっしゃるんですね」
「有り体に言えば、そうだ」
「おっさん、あんた……」
全身からどうしようもない、という呆れを滲ませてバートが深いため息をついた。
クラークとて自分に呆れるしかないので、甘んじて受ける。
なにより誤解を解きたいエリザベスは下の部屋にこもって、誰の呼びかけも、当然自分の声にも応じようとしない。
無言で床を掃除し、盆と皿を取り替えたジェマの視線がちくちくと肌を刺した。何か言いたげに自分を見やり、そのたびに顔をしかめたのはこの口紅のせいかと合点がいく。
時間を巻き戻したい。穴があったら入りたい。ずっと眠り続けていっそ冬眠したい心境だった。
しかし、バートの皮肉は冷淡さを増した。
「さぞかしレディには衝撃の光景だったでしょう。目覚めてすぐの親父殿が、別の女性を寝台に引きずり込んでいたんですからね」
「おい、誤解だ」
「しかも相手は因縁浅からぬとレディもお気づきだった、フルールですか」
「ちょっと待て」
「どうするんですか。親父殿」
ぐ、と喉奥でうなってクラークは黙った。
どうするもなにも。目撃されてしまった事実は消せない。誤解だと伝えようにも扉を開けてももらえない。
修羅場に違いないが、悲しいことにクラークには三角関係など経験はなかった。
女性への接し方さえ覚束ないのに、より高度で繊細な対応を要する説得を果たしてできるかどうか。
バートは上掛けの布をぎりいと握って歯を食いしばる熊親父に、体の中から力が奪われそうな錯覚を覚える。
賭をどうしてくれるのだ。
上手くいくに無謀とも思える額を突っ込んでいるのに、何してくれる。
しかもフルールと口付けとは、――あの女、何を企んでいる。
病で弱ったベニーズ伯を連れ込んで城に居座っている。高齢の伯ならば病気が悪化するだろうとは、予想の内か。
花街の女ならヒューや護衛達をあしらうなど造作もなかっただろう。
アダムスにあちらの様子を探らせてはいるが、襲撃の前後の滞在だけにうさんくさいことこの上ない。
城の外が少し落ち着いたと思えばこれかよ、とバートは泣き言を吐きたくなる。
とりあえずおっさんの火酒を分捕ってしまおう。おっさんにやけ酒されても面倒だし、心身の疲れは火酒をかっくらって寝るくらいしか癒やせるすべはなさそうだ。
「とりあえず今夜は大人しくしてください。皆、忘れていますが親父殿は病み上がりなんですから」
「しかしレディは食事もしていない。誰かやって――」
「いいですか。寝てください。今、親父殿が配慮しても逆効果です。そっとしておきましょう」
おそらく熊親父はもとより、その指示で訪れた者に対しても心も扉も開くまい。少なくとも今夜は、とバートは考えている。
まだ襲撃者の大元まではたどれていない。それを口実にしばらくは引き延ばせるが、このままだとレディは修道院一直線で、あとには抜け殻で屍になって要するに使い物にならない熊親父と、懐の非常に寂しい自分が残されることになる。
なんとしても避けたい未来だとバートは腕をさする。
階段を下りて、今はエリザベスのこもる熊親父の部屋の前で立ち止まる。耳をすませても中からは物音一つしない。
せめて睡眠くらいは取っていれくれれば良いのだが。直前まで熊親父の看病を続けていたから疲労はたまっているだろう。それだけでも解消していれば、気持ちに余裕も生まれるかもしれない。
「――厨房から酒肴をかっぱらうか」
握った瓶に目を落としながら独りごちる。
ヒューの前で飲んでやろう。あれは余計な一言や行動が多すぎる。
火酒の香気だけかがせてやって、あとは嫌みたらしく、いや火酒に敬意を表して美味しくいただこう。
「ああ、飲んでやるとも」
火酒の瓶を目の高さに掲げて、バートは半分やけ気味だった。
翌朝は爽やかな空気と陽気にもかかわらず、主の塔はどんよりと重苦しい空気が立ちこめていた。クラークは寝台から離れて、眠れずに重いままの体を億劫そうに動かした。
着替えの類を持ってきてもらい、身支度を済ませて階下へと足を向けた。
エリザベスの籠もっている自室の前の警護に目だけで問いかけると、気の毒そうな表情とともに首を振られる。ずん、と胃が重くなる心持ちがした。
それでも自分を鼓舞して部屋の扉を叩く。何度か叩いても、反応はない。
「レディ、お早うございます。食事を取ってください。体に障ります」
やはりいらえはない。眠っているから返事がないのかもしれないと、希望的な観測にすがるクラークの顔は曇り人相は悪い。
その顔は扉とその向こうを透かして睨み付けているとしか思えないもので、寝込んだせいで多少面やつれしたのが一層の迫力を増していた。
待ってもなんの物音もしない。クラークはかろうじて部下の前でのため息だけは控えて、塔を下りた。
食事の間にはアダムスが控えていた。恭しく一礼してすぐさま給仕の采配を振るう。今はともかく食べて体力を取り戻し、滞っている雑事に当たらねばならない。
病み上がりを考慮してかいつもより柔らかめに作ってある料理を咀嚼しながらも、クラークの気は晴れなかった。
「旦那様にお願いがございます」
「何だ」
「この城が落ち着きましたなら、暇をいただきたく存じます」
思ってもみない言葉に、クラークの手が止まる。
見つめるアダムスは至極真面目な顔で、冗談ではないのだと知れる。いや、もともと主に冗談をいう家令ではないが。
飲み物を流し込んで、クラークは厳しい表情を向けた。
「理由は何だ」
「賊と知らなかったとはいえ旅回りの一座を招き入れたのは私です。そしてベニーズ伯と連れを滞在させた責もございます」
「両方ともお前のせいではない」
「いいえ。結果的に旦那様を危険にさらし、レディにご不快な思いをさせました」
静かで低いがよく通る声は、クラークを前にしても揺るがない。
白髪の家令がどれほどよく城を支えてきたか、クラークはその価値を知っているだけにやすやすとは頷けない。
「賊の件はこちらも承知の上だ。お前の責ではない」
「旦那様」
「今すぐお前の代わりになる者などいない。話は聞かなかったことにする」
それ以上は言いつのろうとせずに、アダムスは一礼した。
ますます気分は重くなるばかり。塔の階段を上ると、自室の扉が開いている。
「レディは」
「上にお移りになられました」
自分の居ない間に移動したのだ。つきりと感傷めいたものが胸を刺すが、伏せったせいで仕事がたまっている。階上に未練を残しながらも、クラークは雑務に忙殺された。
クラークの呼びかけからしばらくして、ためらいがちに扉が叩かれエリザベスはゆっくりと頭を上げた。
「レディ、あの、お部屋の掃除と食事の支度をしてございます。旦那様は下にいらっしゃいますので、もしお部屋を移るなら……」
くぐもるような若い娘の声が、扉の向こうからした。ここはクラークの部屋で、起きられるようになったのなら速やかに明け渡さななければと気付く。
侍女達はやきもきしているだろう。クラークが戻るまでにこの部屋の掃除もしたいだろうし。自分も喪服に着替えたいと思っていたエリザベスは、閂を外した。
扉を開ければ心配でたまらないといった様子のジェマとルイザが立っている。
「迷惑をかけました。上で着替えたいのです」
「はい、どうぞこちらに」
前後をルイザとジェマに守られて上へと移動して、部屋へと入る。
寝具は一新されていた。卓には料理が並び、しかも湯桶に湯まで張ってあった。
「これは……」
振り返れば、ジェマが言いよどみながらも言葉を継いだ。
「昨晩は湯浴みをされていないので、さっぱりしたいだろうと……あの、今は下に行くご気分じゃないのではと、ルイザとも相談したんです」
「ありがとう。ここまで湯を運ぶのは大変だったでしょうに」
「いえ、何てことはないんです。食事も、料理人がレディのお好みのものを作ったので、一口でも召し上がっていただけたら」
つられて卓を見やれば、故郷の料理がのっている。
自分が我が儘で籠もっている間に、多くの人に心配をさせてしまったらしい。
気を遣われるとは、主として失格だとエリザベスはそっと自分を嗤った。
「……夕食も取り損ねたのでしたね」
ゆっくりと卓につき、懐かしい料理を口にする。
記憶の味と香りとは微妙に異なる部分もあるが、在りし日の思い出とともに郷愁を誘われた。カデルに、故郷に帰りたい。帰ることはあたわぬと知っているから、一層料理を切なく感じた。
全部は入らなかったが、どうにか胃に収めてからエリザベスは湯を使い、喪服に着替えた。脱いだ衣装は手入れをしてもらうためにルイザに手渡す。
もう、色のついた衣装は着ないだろう。静かな決意を秘めて、エリザベスは扇子をそっと握りしめた。
旅の一座――賊の正体や送り込んだ人物はなかなか判明しない。ことに黒幕は何重にも人を介していたらしく、しかも後ろ暗い人物ばかりが介しているとあっては、手がかりの糸は頼りなく、何度か途切れた。丹念につなぎ合わせてじりじりとであるが、調査は進んでいた。
クラークは精力的に動き回り、指揮を執り、幾度となく王都に使いを出してはエリザベスを襲った輩の判明に全力を注いだ。
あれきりエリザベスはクラークとまともに顔を合わせようとはしない。
クラークの留守に動いているようで、気配を感じてもするりと逃げられ捉えきれない。
恐ろしいことにはエリザベスからの要望だと、ハースト国内の女子修道院の情報が寄せられる。対外的には婚約中なので極秘に、口の固いアダムスを中心に情報の収集がされているが、知らされたクラークは生きた心地がしない。
フローラはいまだ城の客人だった。ベニーズ伯の病状がいよいよ悪化し、城からたたき出せなかったのだ。
さすがにクラークやエリザベスの前に姿を現さずに、伯の病室と化した部屋に籠もっている。
フローラが居る限り、エリザベスは塔から下りようとはしないかもしれない。
クラークの焦慮が膨れあがった頃、ベニーズ伯がとうとう息を引き取った。