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この危うい関係  作者: 素子
本編
35/52

35  口付け

 エリザベスはクラークの看病につく。まずは喪服を脱ぐことから始めた。


「喪服で側についていると不吉でしょうから」


 そう言いながら地味な色合いながら喪服ではない衣装を着て、司祭とともに治療と看病に当たる。

 毒はエリザベスが摂取したのよりは少なく、またクラークは頑健だったので生命の危機にまでは陥らなかった。それでも熱と息苦しさがクラークを苛む。体が楽なようにか、寝台で半ば眠り込んでいる。


「レディ、別に部屋を用意いたしましたので、そちらでお休みください」

「いいえ。卿が快癒なさるまではここにいます」

「ですが……」

「警備も一部屋で済むのでしょう? さすがにこのような状況ならば耳目も集めないでしょうから」


 クラークの額の汗を拭いながら、エリザベスは背後のアダムスにこともなげに言い放った。城の騎士や兵士は残党を捜索したり、襲撃者の素性を調べたりと人手が足りず、二人が塔で固まっていてくれたら楽なのも正直な話だった。

 バートも忙しい中、塔に上がってきては明かしてよい範囲での進捗を報告していく。アダムスと無言で視線を交わして頷くと、バートはレディの寝台を占領している熊親父を眺めやった。


 エリザベスが飲まされた毒と同じものかを確認しようと、ぎりぎりまで毒消しの服用を遅らせたために寝込んでしまっている。

 後事を託されたといえば聞こえはいいが、要するに熊親父から後の面倒を押しつけられたわけだ。街や領地を駆け回り領民の負傷の程度や、家屋の損壊なども調べなければならない。

 ――仕方のないこととはいえ、レディに付き添われて寝ているおっさんが羨ましい。


 バートはしかし副官の役割とばかり、礼をして塔をおりていく。

 少なくともこのままいけば、賭には勝つ。それを慰めにして、バートは騎士達の指揮を執るべくまだ騒がしさの残る『下』に戻る。

 ふと視線が客を泊めている方に向いた。

 城の中にも火種が残っている。外見はこれ以上ないほど麗しく、内面はうかがい知れない火種が。



 夢かうつつか。時折浮かび上がる意識は断面的な光景を捉える。

 額を押さえる布や、スープの匂い。口と喉になんともいえない苦みを残す液体に、口に出さなくてもすぐに飲まされる水。

 きれぎれに聞こえる声は自分の名を呼んだり、他の者に指示を出したり。


「お加減はいかがですか?」


 輪郭がぼんやりと滲むその人は、顔を覗き込んでいる。


「……あ」

「まだ、いけないようですね」


 ふわりと鼻をくすぐる香りに、いいようもない安堵が広がる。

 甘さの中に爽やかさを秘めたその香りを、幾度腕の中で心ゆくまで堪能したいと思ったことか。それが今は向こうから近づいてくれている。

 ならばこれは夢に違いない。なんと良い夢かと、クラークはまた眠りにおちながら幸せな気分だった。



 まだ意識が混濁しているようだ。エリザベスは寝入ったクラークの顔を見ながら小さなため息をつく。自分が倒れた時を思えば、まだ軽く済んでいる方だろう。

 呼吸は苦しそうだが、じわじわと快方に向かっている。

 無理をすると体力のないこちらが参ってしまうので交代で看病にあたり、夜は長椅子から寝台をうかがいながら眠る。部屋の扉は開けて、前に護衛が昼夜分かたず詰めている。


 刺客の流した血の匂いは薄れて、消えた。それでも壁掛けには血しぶきの痕があり、ここで命のやりとりがあったのは消せない事実だ。

 それは自分の命を狙う者がいるという証でもあり、看病の合間は忘れていてもふとした折りにその事実がエリザベスを苛む。


 戦に負けた国の元王妃をわざわざ狙う理由は何だろう。

 国王の血を引く子供がいるわけでもなく、かつての敵国に単身連れてこられたただの女一人にすぎない。自分を消して、どのような得があるのか。

 考えられる可能性は三つ、もう少し穿てば四つあげられる。

 顎を襟元に埋めるようにして、寝息をたてるクラークの横でエリザベスは思索にふけっていた。



 騒動のさなか、ベニーズ伯の病状は悪化していた。

 司祭はクラークとベニーズ伯のもとを忙しく行き来する。老齢に加えての病の悪化で、弱った体には相当な負担になっている。

 クラークの側にエリザベスが付いているように、ベニーズ伯の側にはフローラが甲斐甲斐しく付き添っていた。司祭が治療を施し、調合した薬を飲ませるたびに熱心に質問して、病人のためになるようにと世話をする。

 その献身的な姿勢に司祭は感じ入った。

 たとえこの女性が神の教えとは真逆の場に身を置いていたとはいえ、心根は神の福音を受けるに十分と思われた。


「クラーク様のところに早くお戻りになってください。ここは私がおりますから」

「ええ、でもさすがに騎士団長であるだけに体はお丈夫ですから、危機は脱しています」

「ああよかったこと。さぞレディも安堵なさっているでしょう」


 手を胸の前で組み合わせて涙を浮かべるフローラの清らかな美しさは、まるで宗教画のようだった。司祭にご婦人を泣かす趣味などあるはずもない。慌てて泣くようなことはないとフローラを慰める。

 涙を拭いながらフローラは、塔に籠もっている城主とその婚約者のことを聞き出していった。ことにエリザベスのことは同性として興味があるのだろう。


「私、あの方ほど高貴な身分の方にお目にかかったことはありません。もし顔を合わせるようなことがあれば、失礼になってはいけませんし」


 身分のないことを恥じる風情に司祭はほだされ、知らぬうちに女神の手管にはめられていた。



 三日後、いつものようにエリザベスは部屋に司祭を迎えた。クラークの様子を診る司祭の邪魔にならないように控えていながら、今日の司祭はどことなく疲れているようだとの印象を持つ。

 病人に加えて怪我をした騎士や兵士の治療にもあたっているのを知っているだけに、無理もないと思う。

 エリザベス自身は看病に出向こうとして、バートに止められたくちだ。

 曰く、頼むから大人しくしていてくれ、と。仕方がないので薬草などをあげてもらって薬に仕上げたり、ルイザとジェマとともに包帯を作ったりしていた。

 

「お疲れのご様子ですね」

「レディ」

「何かわたくしにできることはないでしょうか」

「お心遣いに感謝いたします。そうですね……」


 司祭は軽く頭を下げてから、ゆったりとエリザベスに向き直る。クラークへの見立てはもうそろそろ起きられるようになるだろう、とエリザベスの気持ちを明るくしてくれるものだった。


「きっと目が覚めれば空腹を訴えられるでしょう。いつも病の床からの起き抜けはそうでしたから」

「まあ、そうですの」

「寝込むなど滅多に……ほとんどないのですが、いつも同じように空腹を訴えられて鍋ごと空にするような勢いで」


 それなら厨房に今からクラークの分を用意してもらおうか、とエリザベスはジェマを使いに出した。今は昼下がり、夕食までは十分に時間がある。

 起き抜けにどれほど食べるのか。きっと気持ちがよいほどの量を平らげるのだろう。

 受傷した際よりも血色が良くなり呼吸が楽な様子のクラークに、よかった、との本心からの呟きがこぼれ出た。



 熊親父が驚異的な快復をみせていたのに、どこかで気が緩んでしまったのかもしれない。領地に隠れていた残党もあらかた狩り出したのも、拍車をかけたのかもしれない。


 普段なら塔へ上がる人物には神経質に過ぎる誰何をするはずの護衛も、地味な色合いの衣装を身につけ心持ち顔を伏せた女性が塔から下り、再び上がってきたのを疑問には思わなかった。

 女性の服装などにはあまり、というか全く詳しくはないので色合いと纏う香りが同じだったから同一人物と思ってしまった。上がってきた女性の髪色はやや明るい気もしたが、日も陰りがちで塔の薄暗い方を女性があがったので頭を下げて通してしまう。


 階段を上り、最後で最大の障壁となるはずの部屋の前に待機していた護衛。片割れはヒューだった。

 さすがに目の前の女性に不審を覚えて咎めだてしようとしたまさにその時、女性が顔を上げた。もう一人の護衛とともに、目を丸くして棒立ちになる。

 ――遠目にしか拝んだことがない、いやほとんど噂話でしか知らなかった『女神』が懇願の表情を見せて立っていたのだから。


「あ、の」


 かろうじて声を出したヒューに、みるみると涙を浮かべてフローラは頼み込む。


「私をご存じですのね。私、私はクラーク様のことが気がかりで。夜も眠れませんでしたの。お願いです、一目お会いしたいのです」

「いえ、ですが」

「私を調べてください。どこにも何も隠してはおりません。王都での私の、クラーク様への想いと振る舞いを知っておいでなら、どうか……」


 ほろりとこぼれる涙に大いに慌てて、ヒューはもう一人と顔を見合わせる。

 あの有名な『黄金の女神亭』でも最上級と謳われた女性の泣き落とし。一人きりでやってきていて、おそるおそる調べたが武器の類は帯びていない。何より親父様に惚れているとの評判により、王都の男の失意を誘った女性が自分を頼って涙している。

 結果、明後日の方向への庇護精神が、発動してしまった。



 クラークは目を覚ましかけてぼんやりとしていた。

 馴染んだ香りがくゆり、繊手が髪の毛をまさぐった。無意識にその手を追いかけ握り取ろうとした。

 息がかかるほどに近づく気配がする。目を開けようとする瞼はそっと押さえられ、ずっと感じていた甘やかな香りがいっそう強くなった。


「――ウォーレン卿」


 吐息とともに囁かれて、唇に柔らかいものが押し当てられた。

 かつての記憶と重なる行為に、クラークの手はその先を促すように細い項に当てて、ゆるりと力を入れる。



 先に厨房へとやっていたジェマとそれぞれ料理を載せた盆を手にして、エリザベスは塔の階段を上った。下にいた護衛が、声にならないような驚愕の表情を見せていたのをいぶかしく思いながら、心は塔の上へと逸っている。

 司祭様がもう大丈夫だろうとおっしゃったからには、この美味しそうな料理の匂いも目覚めを助けるのではないか。

 早く見たい、早く会いたい。

 部屋の入り口のヒューともう一人が、下の護衛以上に恐慌に陥っていた。


 もしやクラークに何か。

 足を速めて部屋に入ったエリザベスは、寝台の上で繰り広げられていた光景に言葉をなくした。息も鼓動も忘れたかのように凍り付く。

 寝台の横で膝をついてかがみ込んでいる女性は、枕の方に頭を向けている。

 上掛けからたくましい腕が上がり、女性の項をとらえていた。

 荒げた息と合間に漏れ聞こえる音を、妙に冷静にエリザベスは受け止めていた。

 なのに手は知らぬうちにだらりと下がって、床に盆と食器が落ちて転がる。


「あ」


 無意識にあげた声に寝台の男女がエリザベスを見やる。

 振り返ったのは『女神』、枕から頭をはじかれたように上げたのは『戦場の悪鬼』でかりそめの婚約者。


 クラークの唇には紅が移り、フローラの口紅は滲んでいる。

 エリザベスの後ろで同じように盆を取り落としたジェマは、両手で口を覆い声を抑えていた。

 凍り付いたような静寂を破ったのは、フローラだった。

 慌てて立ち上がり、寝台の脇を通って扉までよろめくように移動すると、エリザベスをひたと見据えた。ただし瞳を潤ませて。


「私、クラーク様と。も、申し訳ないことでございます。お赦しください」


 涙を流して立ち去るのを呆然と見送って、エリザベスはのろのろと寝台のクラークに体を向けた。

 寝台の上で座り込んだクラークは、顔面を蒼白にして上掛けをきつく握っている。


「お邪魔……でしたわね」

「レディ」

「盆を取り落としてしまいました。せっかくお目覚めになったのに。すぐに代わりを」

「レディ、待ってください」

「片付けもしませんと」


 腕を伸ばし、寝台から下りようとするクラークから遠ざかるように一歩後ろに下がり、エリザベスは扉へと後ずさる。

 

「卿はまだ横になっていませんと。急に起きてはめまいが生じます」

「レディ、お待ちを。話を」

「失礼いたします」


 さっきのフローラと競争するように、エリザベスは階段を下りた。すぐ下のクラークの部屋に入り、中から閂をかける。

 今頃になって胸がばくばくとしだした。手で胸を押さえようとすると、ひどく手が震えている。目を落として両手を広げれば細かい震えが止められない。

 どんどんと扉を叩かれる音で、我に返る。扉に手を当てて、中から返事をした。


「はい」

「そちらにおいででしたか。レディ、お願いです、話を聞いてください」

「卿……安静にしていなければ。ジェマがそこにいるなら食事を持ってくるように伝えてください。もちろん卿に、です」

「ここを開けてください」

「わたくし、なんだかとても疲れてしまいましたの。今夜はこちらで休みます」


 扉から離れて寝台に腰掛ける。

 外からはまだなにか声がしたが、耳を塞いでしまえば届かない。

 はあ、とため息をついたきり、エリザベスはその姿勢から動けなかった。

 目を閉じて、耳を塞いで。ついでに口もつぐめば、カデルの王城にいた時と状況は変わらない。

 あのようなものは日常の風景だったではないか。


 何を今更。


 動揺する必要などない。動揺する方がおかしいのだ。






 

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