31 宴当日
父と夫の死、関与したクラークの心情をともに受け入れて、驚くほどエリザベスの心は凪いだままだった。完全には割り切れない。その心境を割り切れないと割り切った。
複雑な思いを胸におさめて、エリザベスは自然にクラークを受け入れていた。
回された腕の力とは裏腹に、ひどく頼りない啄むような感触が唇に与えられている。どちらもクラークの性質を表しているのだろう。
心は凪いだままと思っていたのに、少しずつ体は熱くなる。少しだけ深まった口づけにぼうっとしながら、唇が離れたところでエリザベスはここが戸外で、しかも馬上なのを思い出した。
「ウォーレン……卿、誰かに見られれば」
「あ、あ。そうでした、レディ」
互いにぎこちないやりとりを交わして、背に回していた腕を引く。
二人にとっては自然な流れでも、慎みがない。半分夢のようなふわふわとした中を漂いながら、クラークはおそらく自分の体躯でエリザベスの姿は隠されていただろうとは思いつつ、手綱に手をかけ馬首を巡らせた。
「アダムスが軽食を用意させています。召し上がりますか?」
「わたくしは……胸がいっぱいで、喉を通りそうにありません。どうぞ、護衛の方々に」
どうしても掠れて震えそうになる声を励ましつつ、エリザベスは俯きぎみに発した。胸がいっぱいのくだりで、クラークも喉に何か詰まったようにごくりと唾を飲む。努めて大きく息をして、平静を取り戻そうとした。
エリザベスはクラークの外套を内側からきゅっと握る。顔を埋めてしまいたかったが、それはかなわない。すぐ後ろのクラークを意識し、つい先程までのことで頬が熱い。きっと見苦しいほどに赤くなっているだろう。
そんな状態で食欲などあろうはずがない。
クラークは離れた場所に待機していた護衛に、バートに声をかける。
「ここで休憩にしよう。レディと私には飲み物を。あとはお前達で食べろ」
「はい」
敷物が広げられ、エリザベスはウルススの背から下りる。すくわれるように下にあてがわれたクラークの手も、自分に劣らず熱かった。見上げてくるやや熱を帯びた眼差しに、きっと自分も同じようなものだろうと感じながら地上へと降り立った。
こころもち距離を取って座った二人の前に、飲み物が出される。
こくりと飲み込んで、ようやく人心地ついた気がした。
バートは部下に指示して適度に楯となるような配置でいて、適度に二人の近くに落ち着く。熊親父とレディの間のぎこちない空気を感じ取って、踊りの練習の後に相乗りを焚きつけて強引にことを運びすぎたかと反省した。
女性との距離感や駆け引きなどには全くもって慣れていない熊親父もそうだし、レディも考えすぎて物事を引き気味に捉えるふしがある。
押しすぎは良くなかったか。ただ機会があれば利用するのは人情だろうとも思いながら、バートは料理人が短時間でこしらえたにしては非常に美味い軽食を味わった。主達の間に言葉はない。ただ収穫の終わった畑と遠目のまだ黄金色に揺れている畑を見やる姿が捉えられた。
「風が冷たくなりました。戻りましょうか」
熊親父の一言で、昼下がりの遠乗りもおひらきになった。
エリザベスをまず馬に乗せ、間をおかずにクラークも鐙に足をかける。まず大丈夫とは思っていても、エリザベス一人が標的になるのを避けるためだ。
「帰りは少しとばします。寒くないように」
ことさら丁寧に外套でくるむようにして、横乗りのエリザベスを引き寄せた。
行きよりは接近したことでさっと刷いたようにエリザベスの白い頬が薄紅に染まるのに、心臓を高鳴らせて勢いのまま馬を走らせる。
しゃべれば舌を噛みそうなので黙ったまま。それでも落ちないように重心を預けてくるエリザベスの柔らかさや香りに、クラークは酩酊感にも似た感覚を味わう。板金で裏打ちされた上着でなければもっと感触を堪能できたのにと残念がる思いと、奇跡のような午後のひとときへの感慨とが入り交じる。
「ずいぶん親父様は急いでいるな」
「何か気がかりでもあるのだろうか」
前後を守りながら疾走する馬上で、護衛が声を交わす。
バートも広い背中を見守りながら、急いでいるのに引き延ばそうとするような熊親父の時折垣間見える表情に、妙にちぐはぐな印象を受ける。これは戻れば追求しなければ。
城に戻ってもクラークは言葉少なだった。塔への階段までエリザベスを見送り、姿が消えてから外套をアダムスに上の空で預けて広間の椅子に座り込んだ。
「親父殿、お疲れですか?」
「いや、別に。――強い酒が欲しい。火酒を出してくれ」
すぐさま用意された火酒をクラークはひといきに飲み干した。その前からうっすらと赤らんでいたように思える顔色は、火酒一杯程度では変化を見せなかった。全く酔う気配のないままもう一杯をくいと運ぶ。
「食事前ですよ、親父殿」
「私が酔っているように見えるか?」
「いいえ。しかし空腹に強い酒はすぐに酔いを運びます」
「空腹に強い酒、酔いを運ぶ――か。まさしくそうだな」
バートの言葉をなぞり、クラークは杯の火酒の琥珀色を覗き込む。
今日は不意打ちで酔わされた。抜け出したくない酩酊へ――陶酔へと誘われた。
「バート」
「なんでしょう、親父殿」
「――何でもない。少し休む」
部屋まで上がり寝台に倒れ込むと、柔らかな布の感触がエリザベスを思い起こさせる。
血まみれの自分の行いが全て赦されたとは思っていない。命令に従い義務を果たしたとは言え、無かったことにもできない。それでもエリザベスとの間の溝は確かに埋まる方向にいったと感じた。
でなければ、あの時拒まれただろう。
赦しを乞う自分に、それ以上にエリザベスを求める衝動に突き動かされた自分に、逃げずに静かに目を閉じた表情は宗教画の一幅のようだった。
思い出しただけで、クラークは寝台をごろごろと転がりたくなった。枕をきつく握りながらかすかな光明に縋りたくなってしまう。かりそめの危うい関係ではあるが。
――少しは望みがあるのだろうか。
エリザベスも塔の部屋に落ち着いて、窓の外を眺めやった。
日は落ちて馬上から目の当たりにした景色は闇に沈もうとしている。
「レディ、お食事の時間ですが」
「今日は色々なことがあったせいか、空腹を覚えないのです。何か軽いものをつまみたいのですが」
「お疲れになったんですね。すぐに持って参ります」
打てば響くように反応したジェマがきびきびと階段を下りゆく音を聞きながら、エリザベスは自身の喪服に目を落とした。高揚や興奮は跡形もなく消えている。
残ったのはざらりと逆撫でするような――。戸外で何ということをしてしまったのだろう。今更ながらに羞恥と後悔が身を浸す。
後悔というより、罪悪感かもしれない。
「言動がめちゃくちゃ……」
それでも余計なものを取り払えば、つまりは嫌ではなかった。
立場や現状を考えるととんでもなくまずい振る舞いをした。元王妃の誇りも、芝居である仮の婚約という間柄も構わずに馬上で抱き合い、あまつさえ口付けを交わした。
ただ流れとしては自然で、あの成り行きは互いに必要なことがらだったように思えて、きつく目を閉じた後でゆっくりと元に戻し、エリザベスは部屋の中を歩き回る。
この茶番は長くは続かない。遠からず事態は収束するだろう。
そうすればクラークは王都に戻り、騎士団長としての職を全うする。
自分は、希望がかなえば――修道院に入る。静かな日々を送る。亡くなった人への祈りとともに懺悔する事項が増えただけ。
「浮かれるのも今のうちだけにしておかないと。期待して勝手に自己憐憫に陥るのは、もう止めようと決めたのに」
ジェマの扉を叩く音に応じながら、エリザベスはすっと背筋を伸ばした。
遠く離れた王都では、ハーストの国王と宰相が酒と書類を手に語り合う。
「あぶり出しは?」
「ようやくカデルとの糸がたぐれました。ハーストに膝を折るのを良しとしない者、特権が奪われた貴族達、これがレディ・エリザベスの周辺と結びついているようです」
「レディが先導している節は?」
「今のところはございません」
カデルの王族も未来の国王親子のみを残して、すっかり城内も静かになった。国王は、宰相に注がれた酒杯を弄ぶ。
「ハースト側との繋がりはどうであろう」
「はい、ウェンブル伯の台頭を厭って失脚を狙う者は一定数おりますので、それらと繋がりが。またカデルと姻戚関係を結んでいる者、あとは……そうですね。関係あるかは不明ですがベニーズ伯の動きが活発です」
少々意外な名に国王はぴたりと手をとめた。
古い血筋の勢力としては中の上か上の下、そんな貴族が関わるとは……。
「さて、何が原因であろう」
「まだ掴んではおりませんが」
「かの地で二人はどうなのだろうな」
二国間の安定と今後の統治を思いやって国王は独りごちる。火種の一つを託したのだ。うまく囲ってもらわねば思惑が外れる。
宰相はつるりと寂しい己の頭を撫で上げた。
「騎士団内部で賭けがなされているようですよ」
「ほう?」
「これがまた……見事に砕ける方向に列挙されていて。上手くいくのにはかなりの掛け率が記されておりました」
国王は思わず笑みをこぼした。
何とかと野獣を地で行く組み合わせなのだから、しかも騎士団長の風貌と来歴を考えれば砕けると結論づけてしまうのは当然なのかもしれないが。
二人の気質やクラークの振るまいを見ていれば自ずと結論は出そうなもの、と国王は忍び笑いを漏らした。
「近すぎて目が曇っているのだろうか。または長年の強固な思い込みか?」
「陛下、くれぐれもご自身で一口乗ろうとはなさいますな」
「分かっておる。副官はどれに賭けている?」
「――締め切りぎりぎりに、かなりの額を上手くいくに上乗せしたそうで」
国王が酒杯をついとかかげる。それだけで宰相も飲み込んで己の酒杯を軽く触れあわせた。黙って酒を口に運ぶ。
気の早い、早すぎる乾杯。
ただ祝杯が公になるまでは、今少し厄介ごとを躱さなければならない。そのためにもレディ・エリザベスの婚約の発表と、あえての女侯爵の爵位の保全をなしたのだ。
この際だ、暗躍する者が早く姿を現せと願う。そして二国の膿を少しでも出し切るべく、人には知られぬ努力を国王と宰相は重ねる。
王都の膝下でも動きがある。
幾多の思惑と視線はウェンブル伯、クラーク・ベケット・ウォーレンの領地の城に向いている。
当の城の住人達はいまだ平穏にあり、嵐の前の静けさといった風情を味わっていた。
そして祝宴の日、恵まれた天気のもと、賑やかに長い一日が始まる。
馬車に乗ったクラークとエリザベスは沿道の民衆に手を振っていた。
少しでも脅威を減らそうと、背面は高めにしつらえてあった。毛皮で縁取られた外套を身につけた二人は、堂々としている。
クラークはエリザベスのすぐ側に腰を下ろす。
「後ろから狙われないように、無礼な振る舞いをお許しください」
エリザベスを引き寄せて肩を抱く。恥じらいと困惑を滲ませて物問いたげに見上げる視線に内心うろたえつつ、肩においた手を腕に沿って下に滑らせる。外套に隠れる位置で腰を抱いて引き寄せた。
「レディは左手を挙げてください。剣を取り出しやすい位置に置きます。いざという時には伏せてください」
「――承知いたしました」
扇子をいつもの左手から右手に持ち替えて、エリザベスは緊張に少しだけ表情を固くした。クラークが腰に回した手にそっと右手を重ねて、離した。
ただ馬車に乗って走り出せばおくびにも出さずに、ご領主様万歳と声を上げて手を振る民に応えている。王妃として培ったものを発揮していた。
クラークも右手を挙げながら鋭い視線をとばす。時折目の合う家臣と素早く意思の疎通を図りながら、油断なく紛れてきているかもしれない不穏分子を洗い出そうと努力する。
せっかくエリザベスを隣にしているのに、甘やかな感覚に浸る間もない。
それでも何事もなく馬車での顔見せも終わり、夜の到来とともに一連の行事の最高潮を演出する祝宴が始まろうとしていた。