30 相乗り
朝食の席のエリザベスは少し様子が変だった。
「お早うございます。レディ」
「ウォーレン卿、お早うございます」
挨拶こそいつも通りだが、どことなく落ち着きがないようだった。時折ちらりとクラークに視線を向けてはまた戻す。機会をうかがっているようでもあり、その瞬間を恐れているようでもある。
どうしたのだろうと思いながら、クラークは朝食を平らげた。
エリザベスも食事を終えたのに席を立とうとしない。いよいよこちらから声をかけようかとした時、エリザベスが意を決したように顔を横向けた。
「ウォーレン卿。本日は何か予定が入っていますでしょうか」
「いえ、別に」
「そうですか……」
「レディ?」
バートが固唾を飲む中、エリザベスはクラークに誘いをかけた。
「午後の時間をわたくしにくださいませんでしょうか」
その瞬間の熊親父の顔を見てバートは確信した。おっさんは午後どころか一生を捧げますぜ、と。クラークはエリザベスに視線を固定していた。次いで口が心もち開いて、ぐっと閉じられると同時にごくりと唾を飲み込んだ。
言われた内容を反芻している様子に、誰も口を挟めない。
ただエリザベスのみがクラークを見上げている。
「ウォーレン卿……」
「だ、いじょうぶです。レディ、どこへなりとお供致します」
「いえ、出かけるわけではなくて、わたくしと……」
言いよどむエリザベスにクラークは戸惑い、バートは内心しっかりと声をかける。アダムスやバーサもそれぞれやるべきことをこなしながら、主たちに気が気でない様子だ。
喪服の膝の上に置いている手巾を握って、エリザベスはかろうじてクラークにのみ聞こえる小声で囁いた。
「――わたくしと踊っていただけないでしょうか」
クラークは大きく、こくりと頷いた。何度も。
エリザベスは部屋に戻って、階段を上がっただけでない鼓動を持て余していた。
あれだけのことをクラークに誘いかけるだけで、ずいぶんと気力を使ってしまった。しかも妙な態度になってしまって、クラークの不審を買ってしまったではないか。不自然極まりなかったと反省しても、時が戻せるわけではない。
副官のバート・ベイリーからの依頼でなければ。いかにも弱りきったような口調でなければ。エリザベスは喪服を手でつまんで溜息をもらした。
「レディはどういう心境なのだろう」
「それは、あれですよ。祝宴に向けてのことでしょう」
「ならばレディは、招待客の前で私と踊るつもりなのだろうか」
今更ながらの可能性に思い至る熊親父に、バートはエリザベスの逡巡と勇気に深く頭を垂れたくなった。
渋るエリザベスを説得したのは他ならぬバートだ。内容は熊親父が知れば激怒は必須。よってけして熊親父には言わないでほしいと頼み込んでいる。最終的にはエリザベスがバートの提案を受け入れた。
バートは焚きつけた者の責任として、熊親父を誘導中である。
「踊って当然でしょう。親父殿とレディが主役なんですから」
「だが私はあのような場で踊ったことはないぞ」
「ですから、賢明にもレディが事前に練習を申し出てくださったんでしょうが」
呆れ声を含んだバートに、クラークはぎしりと椅子を揺らす。
これまではエリザベスを振り回していた状況が、次第に自分も巻き込んでいく。
困ったことに全く嫌ではない。むしろ進んで渦中に飛び込みたい。クラークは午後いっぱいをあけるために、動き始めた。
昼食後しばらくして家具の少ない部屋にエリザベスは通された。意外にもアダムスが楽器を手に待機していた。約束の時間に遅れることなくクラークも現れる。
エリザベスの脳裏にバートの言葉がよみがえる。
『親父殿は全くといっていいほど華やかな場に慣れておりません』
『女性と踊るなど。――ええ、お察しください』
『ここはレディが、レディだけが頼りです。どうぞ親父様をよろしくお願いします』
足元を一瞬見やり、エリザベスは差し出された手に自分の手を乗せる。
アダムスが器用に楽器を操りだす。すう、と息を吸い込んでエリザベスは試練の時間に足を踏み入れた。
――震えるような余韻で音が途絶えた時、エリザベスはぼうっとクラークを見上げていた。半歩後ろに下がり、優雅に礼をしたクラークが微動だにしないエリザベスをいぶかしむ。
「レディ、ご気分でも悪いのですか?」
「いえ、……いいえ。少し驚いてしまって」
エリザベスは無意識に唇を動かした。何度足を踏まれるだろうかと危惧していたのに一度たりとそのような事態には陥らず、どころかクラークは実に見事な踊りを披露した。揺るぎなく支えられ、楽に踊らせてもらったのはエリザベスの方だ。
足さばきでまごつくこともなく、堂々たる体躯で踊れば圧倒的ですらあった。
――聞いていた話と違うと、エリザベスはアダムスの横で足で調子を取っていたバートに軽い非難をこめた眼差しを向けた。
練習などする必要もない。自分がどんなにためらいながらクラークを誘ったかを思い出して、エリザベスはやり場のないものを感じた。クラークを仰ぎ見て、エリザベスは率直な思いを告げる。
「卿があまりにもお上手でしたので意外でしたの」
「型を覚えてしまえばどうということは……。踊りにくくはありませんでしたか?」
「むしろこれほど楽に踊った覚えがありません」
エリザベスから讃辞を送られているクラークは、手を握ったまま立ちすくんでいた。踊り自体は若い頃にたたき込まれたのを今でも体が覚えている。騎士団に入ってからは警備に回り、最後に踊ったのはいつだったか忘れるくらい前のことだ。
エリザベスの手を取って踊り、あまつさえ褒められるとは。
腰に触れている手を離すことも忘れてクラークはエリザベスに見入っていた。そこに駄目押しがなされる。
「安心して卿にお任せできます。よかったこと」
微笑まれてクラークは踊りとはほど遠い反応を示した。
うっすら紅潮して口ごもり、どうにか言葉をこねくり回す。
「レディの期待に応えられるようにいたします」
「思ったより早く終わりそうですね。お忙しい中無理を申してすみませんでした。では、わたくしはこれで」
やんわりと握られたままの手を外し、喪服をつまんでエリザベスは膝を軽く折った。
手を組み合わせてうっとりとした表情のジェマを現実に引き戻し、部屋へと戻ろうとしたエリザベスをとどめたのは――バートだった。
「時間がおありならお二人で散策でもなされたらどうですか? レディは城にこもりきりですし、親父殿も当日の下見をとおっしゃっていたでしょう」
「おい、バート」
「良い天気です。お二人ともに時間が取れることなど滅多にない機会です。城の者も親父殿が帰還されてから緊張が続いています。少し城を離れてはいかがです?」
要するに主達が城を離れて、城の者に息抜きをさせてやれ。
バートはそう匂わせて、アダムスは多少の感謝を持ちながらその案に賛同する。
「料理人に簡単なものを作らせましょう」
「いや、警護の者は連れて行くぞ」
「親父殿、我々は少し離れて付いていきます。親父殿の身近だと色々と差し障りのある者がいますので……」
さすがに二人きりで放り出す真似はしないが、少し離れたところから従う。
クラークはさすがに無謀ではないかと逡巡する。弓で狙われた場合などとっさの時に側にいないのでは話にならない。
いつものように側近くで護衛せよと言いかけたクラークに、バートは一見真面目そうな顔つきながら口角だけをあげて言葉を紡ぐ。
「遠距離からの刺客を警戒されるなら、いつかのように馬に相乗りすればよろしいかと」
「私、レディの外套を取って参ります」
ジェマがきびすをかえして部屋から出て行き、塔へと急ぐ。
アダムスはいつの間にやら姿を消していて、こちらは厨房に直行したのだろう。ついでに抜かりなく厩にも連絡しているに違いない。
クラークは困り果ててエリザベスに視線を落とした。
エリザベスは困ったこと、と呟きながら表情が裏切っている。
「下の者をくつろがせるのも卿のお役目でしょう。わたくし達がいては気が休まらないのかもしれません。互いに息抜きをいたしましょうか」
「……そうですね。レディさえよろしければ」
「親父殿、一応これを」
板金で裏打ちされた短衣を差し出され、最初から計算づくかとクラークはバートを睨み付ける。余人なら卒倒しそうな視線にも、熊親父の糾弾などどこ吹く風とばかりにバートは護衛に声をかけにいった。
エリザベスは戻ってきたジェマから差し出された外套を、なんて罪深い未亡人なのだろうといささか自嘲しながら喪服の上から羽織る。喪に服している期間に婚約するわ、異性と一夜を過ごすわ、踊るわ。また馬に相乗りするとは。
どれだけ懺悔をしても追いつかないような振る舞いだ。慎みはどこにいってしまったのだろうか。
ただこれだけ手回しよく事を進めてくる彼らの思惑の内には、やはり息抜きもあるのだろうとエリザベスは計画に乗った。
「卿を楯にしてしまうような……」
「ええ、後ろはお任せください。前もウルススが立派に防ぐでしょう」
クラークもゆったりとした外套をまとっている。このために後ろからはエリザベスはすっぽりと包まれたように姿が見えない。
前からも標的になりにくいようにと、外套を前まで引いて手綱を握っている。反対にエリザベスからすれば、クラークの外套にくるまれているような格好になった。
「祝宴の際に馬車で街中を走ります。今日はその道筋の下見も兼ねさせてください」
「卿のよろしいように」
見送るアダムス達に頷いてクラークは馬をゆっくりと走らせた。少し離れて護衛達も馬で付いてくる。
こちらに来てから一ヶ月が経つ。王城よりも気楽に過ごせているとは言え、久しぶりの『外』だ。エリザベスは物珍しそうにあちこちに目をやった。
「そういえば、城に入る際には仕来りで頭に血が上っていたせいか、あまりよく見ていなかったのです」
「取り立てて珍しいものはありませんが……」
「でも活気があります」
子供達が路地で石を使って遊んでいる。横には犬が寝そべって耳だけをぴんと立てている。一通りの店もあって買い物をする女性や、荷車に収穫した物を積んで引いている農夫などまぎれもなく皆がたくましく生きている。
エリザベスは塔の上で感じた胸の軋むような思いをまた味わった。
「当日は天井のない馬車になります。二人並んで座ることになるでしょう」
「まあ」
想像するだけで別の意味で胸が騒がしくなり、エリザベスは言及を避けた。
また仕来りと称して、隣同士でなにか怪しげなことをやらされるのだろうか。その空気が伝わったのか頭上から苦笑が漏れる。ふわりと外套の中で暖められた空気が動く。
「座っていただくだけ……です、多分」
「どうして安心させていただけないのでしょう」
「いや、私にすら秘密にしていることがあるようで断言ができないのです」
既にバートから肩を抱け、腰を抱けと焚きつけられているクラークは語尾が若干あやふやになる。肩だと。腰など抱いた日には……。今の密着した姿勢ではこれ以上の夢想はまずいとクラークは周囲に意識を向ける。
通りに面した家の窓や屋根、繁った木々。家と家の狭い隙間……。疑い出せばきりがない。何度も危険箇所を洗い出させて対策は取ってはいる。この街の人間ならと信頼も寄せている。
それでも目の前で血を吐いてくずおれた、あんな姿は二度とごめんだ。
安心できるまでは何度でも下見は欠かさない、とクラークは背筋を緊張させた。
ウルススに揺られて街を抜け、刈り取りの終わった農地に出る。さすがに遮蔽物はなくこのあたりなら遠距離の襲撃は無理だろう。
ほっと力を緩めたクラークは腕に囲ったエリザベスが遠くを見つめているのに気付いた。ここにあるものとは別の、何かを見ているような視線だった。
「レディ……」
「卿は祝宴の当日、演舞をなさるとか」
「ああ、そうなるかもしれません。鍛錬している型の披露のようなものです。もしお気に障るようでしたら取りやめますが」
「いいえ。お小さい頃から騎士になるために過ごされて、団長職にあって……。きっと卿はお強いのでしょうね」
「どうでしょう。まだまだ至らないことの方が多いのです」
視線は頼りなく前を向いたまま、エリザベスが続ける。護衛は離れたところで待機していて、会話が漏れる心配はない。
「きっと……夫も長く苦しむことはなかったのでしょう?」
「――そうであればと思いますが」
「父は。父も取り乱したりはしなかったのでしょうか」
「ええ、とてもご立派でした」
「――そうですか」
最後の言葉は風にのって消えそうなほどか細かった。
しばらく人も馬も動かずにいる。エリザベスが強ばりをといて、クラークと視線を合わせる。
「ありがとうございました。不愉快な記憶を掘り起こしてしまいました。でも。わたくしの胸のつかえは取れたような気がします」
お互いを隔てるカデルの国王と宰相の死。さながら対岸に引き離すような川のような、谷のようなものがわだかまっていた。
クラークを敵と恨み続けることはもうできない。でも忘れられない。
ならばと導き出した。事実を受け入れようと。忘れられないにしてもきちんと、逃げずに事実と向き合う。
実行すれば驚くほど穏やかに静かに受け止めることができた。むしろ、と思う。
卑しい者の手にかかり苦痛が長引かなくて良かったのかもしれない。ハーストの騎士団長が手にかけたのなら、敗けたカデルに抗議のできようはずはない。むしろ下賤の者を近寄らせなかったカデルの騎士の誉れになったのかもしれない。
エリザベスは自分の胸に手をやり、今しがた受け入れた内容を大事に閉じ込めるように軽く抑えた。
「わたくしはもう大丈夫です。気を強くもって敵とやらを迎えましょう」
「レディ……」
戦場の悪鬼と呼ばれた男の顔がくしゃりと歪んだような気がした。ついで馬上でエリザベスはきつく抱きしめられていた。
塔の上とは違う、遠慮のないまるで縋るかのような抱擁だった。
「ウォーレン卿、いかがなさったのです」
「――あなたは私の胸の重石も軽くしてくださったのです」
「では、お互いにとって良かったのですね」
「ええ、レディ」
エリザベスもクラークの腰に腕を回してクラークの胸に頬を当てた。
「私はあなたに憎まれるのが、恐ろしかった。憎まれて当然のことをしているのに、それでも怖かったのです」
「ウォーレン卿、あなたが望んで手を下したわけではない、仕方のなかったこと。だからご自分を責めないでください」
司祭に告げたことを自分に再び言い聞かせるように、エリザベスはクラークに伝える。
クラークも辛かったのだと。知ればなおさら責められない。
広い背中を手で撫でると、ようやくきつい抱擁が緩む。
クラークの胸で顔を上向かせれば、不思議な色をたたえた瞳がまっすぐに見つめていた。唇が動いてなにかの形を作るが、音は乗らない。
その顔がゆっくりと下りてきて唇が重なるまで、エリザベスは逃げずに静かに目を閉じたままでいた。