25 次の朝
バートには熊親父が気になって仕方なかった。
夜明け頃、まんじりともしていなかったバーサが震える声でバートに声をかけてきた。年のいった彼女には徹夜は堪えるだろうに、ずっと手を組み合わせて扉を見つめていたのだ。
「あのレディは、旦那様のことをどう思っていなさるのだろう」
「……俺に女性のことを尋ねられても、困ります」
「それでもここにいらっしゃるまで、どんなご様子だったか教えてもらえないかね」
熊親父を赤ん坊の頃から知るバーサとしては気が気ではないのだろう。
なにせ、あの熊親父だから。
バートは寝不足でも不思議に目がさえていて、カデルや道中での二人の様子を振り返る。知的な熊と知らずして熊使いになりつつあるレディ。
階段の下からは家令のアダムスの指示で、階段に出現した砦は撤去されつつある。
下では食事の用意もされているだろう。そして皆、固唾をのんでいるに違いない。
バートは下の気配にも気を配りながら、バーサの質問に応えた。
「レディとしては、たいそう複雑なご様子だった。なにせ、親父殿がカデルの国王陛下を倒したし、その流れでカデルの宰相も処断された。――レディの父君に当たられる方だった」
「そうかい。なら、旦那様は恨まれているんだろうね」
「否定はしないが……」
バートは歯切れの悪い返事しかできない。熊親父が恨まれているかといえば確かにその通りだろう。
嫌われているかと尋ねられれば、なんとも言えない。
好かれているかとなれば、これは相当に首をひねらざるをえないが。
「少なくともレディは親父殿を見て、悲鳴をあげたり卒倒したり、怯えたりはしなかった。笑いかけたりもなさっていた。意には染まないながら、親父殿の立場を考慮して仕来りに付き合っていた」
「バート、ならば、絶対にこの機会は逃せないね」
これを逃せばもう熊親父に相手は現れないかもしれない。バートもそれには同意する。しかもだ。
「親父殿をどう思う?」
「旦那様は、レディが望むならなんでもしそうじゃないかい?」
「やはり、そう見えるか」
仕来りに従ってここまで事を運んで扉の向こうまで二人を送り込んだが、ものすごく向こうが静かなのだ。静けさがかえって恐ろしい。
熊親父が怒りにまかせて扉を閉めてから、悲鳴や物音がするのではないかと気が気ではなかったのだが、全く聞こえない。レディが逃れようと扉を開けることもなかった。
朝の光はさわやかなのに、最悪の事態を想定してバートとバーサは恐る恐る扉を叩いて中に入った。どちらかが物言わぬ骸になっていないか危惧しながら。
案に相違して、室内は穏やかだった。
家具や調度も破損していない。熊親父の顔には、叩かれた痕や引っかかれた様子も見られない。刺されても殴られてもいないようでぴんぴんしている。
レディにしたって泣きはらした顔をしていない。バーサは食い入るように寝台を見つめている。つられたバートも寝台が使われた様子なのに、もしやまさか、いやおっさんに限ってといった期待あるいは恐れを押しとどめることができなかった。
無言で、しかしバーサとは目と目ではおそらく共通の思いを交わして、バートは熊親父に声をかけた。
「親父殿、お早うございます」
「ああ。バーサ、レディの着替えをお助けしろ。そして部屋に案内を」
「かしこまりました」
「私とバートは下で朝食を取ります。後で城の案内をいたしますので、それまで部屋にいらして下さい」
「承知いたしました」
着替えを、の内容に長椅子のレディを確認すれば、喪服姿ではない。簡単な部屋着の上から肩掛けを羽織っている。ハーストの意匠のそれはここに用意してあったものに違いない。
導き出される結論は一つ。――熊親父が着替えを手伝った。つまり、脱がせた。
なんの奇跡だ。目の錯覚ではないだろうかと何度確認しても、レディの服は黒くない。
バーサはさっきから口の中でぶつぶつと何か呟いている。バートにはそれが感謝の祈りと分かった。
着替えを済ませていた熊親父は、バートを従えて扉をくぐった。
階段の上、女主人の部屋への臨時の砦を片隅に寄せてバーサを通す。戻ってくるまでは、クラークとバートが扉の番を務めた。
手にやはり喪服を抱えたバーサが下りてくる。室内に入り、扉を閉じたのを機に二人は階段を下りた。
バートの頭の中は疑問符でいっぱいだった。だが、どう問いかけてよいか悩む。
おっさん、やっちまったんですかではあんまりだ。騎士の礼儀からも外れる。
親父殿、思いを遂げたんですか。このあたりが無難だろうか。あとはいつ問いかけようかとうかがうバートの前で、クラークは一つあくびをした。
「親父殿、眠いのですか?」
「ああ、まあな。あまり良く眠れていないから、食事をしたら少し休む」
「そうですか。それって……」
「どうした? 何を言い淀んでいる」
とうとう階段の途中で熊親父が足を止めた。バートは喉仏を上下させる。
誰に問うでもなく、自分しかこの質問はできないだろうと自覚はしていた。
騎士団主催、熊親父の賭けの行く末に関わる大事な大事な事柄だ。きっちり確認を取らないことには、と大義名分をかざしながら、バート本人が確かめたくて仕方がない。
「あ、と、レディとどんな一夜を過ごされたのかなと、気になりまして」
「失礼な言い方をするな。別にどうということはない」
いやいやいや、とバートは熊親父を階段から見下ろす形のまま心中で否定する。
なにうっすら頬を染めている? なんだかそわそわしている。なぜ項をかきむしる。なぜじっと手を見る。
バートの目前で展開されているのは、どう表現しようとも恥じらうおっさん。
おっさんがはにかんでも、全く絵にならないし楽しくないなと思いながら、バートは考えをまとめる。
「レディの着替えは手伝えた。とりあえず一緒の部屋で夜は過ごせた。というところでしょうか?」
「だから別にどうということはないと、さっきから応じているだろうが」
「良かったですね、親父殿」
するりと口をついて出たバートの言葉に、クラークはくるりと前を向いて階段を足早に下りていく。項が赤くなっているのをバートはやれやれと思いながら、黙って従う。
おっさん、本当に純情だったんだな。再認識した徹夜明けの朝だった。
下で留守の間の報告を受けながら食事を取るクラークを、皆は興味津々で、しかし突撃する勇気のある者はいない微妙な空気で見守る。勢い、視線はバートに注がれるが、賭けの行方を占う美味しい事実を吹聴する気にはなれなかった。
察しろ、とバートは思う。熊親父が不機嫌でないのだから。
自領で栽培された小麦から作ったパン、季節の野菜。希望で薄めに淹れられたお茶を落ち着いて消化している熊親父は、非の打ち所のない作法で朝食を終えて執事からの報告書を受け取った。
「少し休む。レディに城内の案内は午後にとお伝えしろ。あと昼食をどこで召し上がるかも確認を取れ」
アダムスがかしこまりましたと頭を下げる。エリザベスの朝食については、部屋に慣れてもらう意味合いもあって女主人の部屋に運ばせている。食事の後、部屋でゆっくりしてもらえばいいとクラークは考えていた。
「旦那様。街の者も祝賀を述べに参っております。あと、既に祝いの品も届き始めております」
「そうか。街の者には会ってから部屋に戻ろう。祝いの品は、贈り主と内容を帳面にまとめてくれ」
「あと……レディ・エリザベスのご様子はいかがでしょうか」
アダムスの勇気ある発言に、関心しきりだった皆がクラークを注視する。
クラークはどう応えたものかと、少しだけ黙り込んだ。
「旅の疲れと、城の仕来りなどでお疲れだったようだ。食事も喉を通らずに休まれた」
「ご機嫌はいかがでしょうか」
「別に、悪くはないと思うが」
良いとも到底言えないが、とクラークは心の中で続けた。
アダムスは主人の返事をどう取ったのか、くるりと後ろを振り向いた。一つ手を打ち鳴らし、響く声で告げる。
「近いうちに祝宴です。近隣の領民に、必要なものを租税として納めさせるか買い取りを」
「おい、アダムス」
「旦那様の久々のご帰還です。しかも戦で武勲をうちたて、国王陛下から領地と爵位をいただいた。充分に祝宴を張る理由になります」
「レディが喪中なのを忘れるな」
「重々承知しております」
恭しく頭を下げながら、アダムスには既に計画ができあがっているようだ。城に主人が戻ってくれば、活気溢れるのは当然としてもこの張り切りようは、やはり。
バートはレディ包囲網が城に広がったと実感する。ああ、喪服はかえって目立つ。一挙手一投足に城の者の、領民の関心が集まるのはもはや避けられそうになかった。そして昨日のように王妃時代の反応を返せば、気付けばウェンブル伯夫人としての地位をがちがちに固められているに違いない。
レディ、とバートはそっと塔への階段に目をやった。
ここの主は知的な熊、従う者は狡猾な狼や狐なのだ。山賊が根城にするくらいだから、もとは豊かな土地ではなかった。それでもここで生き抜いてきた勇気と知恵と狡猾さ、加えて忍耐力は山がちなこの領地に住まう者の特性でもある。
その彼らをもってしてもできなかった、熊使い。おそらく熊親父を操れるのはレディだけだ。皆が期待している。
「ああ、賭け金もっと突っ込めばよかった。今からでも変更きくかな?」
ひっそりと呟いたバートは、現状予想が当たれば手にできるはずの金額を計算してうーむと考え込み、王都へのつなぎをどうしようかと算段し始めた。
バーサに着替えを手伝ってもらって着慣れた喪服に身を包み、エリザベスは昨夜は上ることがかなわなかった階段を上階へと踏みしめ、女主人の部屋へと通された。
クラークの使っていた部屋と比べると少し小さいが、すっきりとしている。
丁寧に磨かれて艶をはなっている衣装箱や、柔らかな色彩で統一された寝具などが好ましい。壁掛けも繊細な意匠が施されている。
「こちらが代々の奥様の部屋になります」
本来ならここにいる資格も意思もないはずだった。客室はもちろんあるのだが、警備を考えればこちらが都合がいいと説得されている。
エリザベスの荷物も運び込まれて壁際に置かれていた。
「奥……レディ・エリザベス、髪を結いましょう。その間に食事の支度をいたします。お嫌いな食べ物などは……」
「特にはありません。素敵なお部屋ですね」
「ありがとうございます。眺めも素晴らしいんです」
つられて窓の外に視線を移すと、澄んだ空と古風な城、崖のむこうは急峻な山と反対側の領地が目に入る。大きく息を吸えば、体の中から清浄なもので満たされていくようだ。
少し肌寒いような空気に、場所柄もそうだろうが思えば戦が始まってから、そしてそれが終わってから季節が動いていたのだと今更ながらに実感する。小麦は取り入れを待って黄金色に輝いているし、空がずっと高くなっている。
「本当に、絵のよう」
「後でレディ付きの侍女も紹介いたします。さあ、こちらにおかけになってください。失礼いたします。まあ、なんて艶。櫛を通す甲斐もあるというものです」
しわがれた手でエリザベスの髪の毛をすくっては丁寧にくしけずる。その鏡越しに自分をうかがう顔には、実に様々な感情が渦巻いているようだとエリザベスはバーサの出方を待つ。
この老女といってもいい小柄な女性に、クラークが頭が上がらなかったのがおかしいというか昨日にかぎってはいささか腹立たしいというか……。
静かにバーサの手に委ねているエリザベスに、果たして遠慮がちな声がかけられた。
「レディ……昨日は失礼いたしました。本当はこの部屋だって客室も、使おうと思えば可能だったのです」
「そうでしょうね。とてもよく手入れがされているように見受けられます」
かび臭い匂いなどとんでもない。蜘蛛の巣はもちろん埃すらない部屋は、主がいなくても定期的に手を入れていたのだろう。今自分達を映している鏡だって、年代物だが綺麗に磨かれている。
部屋が用意できないのではなく、できていたのにあえて昨日の流れにもっていったのをバーサは謝罪している。
「わたくしが喪中なのもあり、婚約も仮の段階です。それでも仕来りと――ウォーレン卿を大事に思っている様子は伝わりました。ですから、気にしないで。もう済んだことですから」
「レディは、あの……主を恨んでおいででしょうか?」
「ウォーレン卿を、恨んで」
ふと膝に目をやれば喪服の黒が。もうこの数ヶ月着用している服喪の色だ。
身近な人の死を悼む印の色。確かにクラークが密接に関わったからこそ自分はこれを着ている。ただクラークが意図してのことでないのは承知しているし、ハーストにも喪服を着ることになった人々は大勢いるはず。
クラークが全てを奪い去っていくと憤りをぶつけたこともある。あの大きな人は黙って、揺るぎもせずにそんな自分を受け止め続けた。
「恨んでは……いません。巡り合わせで仕方の無かったことと思います。卿の行動が結果的に早く戦を終わらせたのですから。それに、卿にはわたくし自身も助けていただきました」
そう、皮肉なことだがその関わりがここに自分をクラークの婚約者として連れてきた。
あくまでも、仮にだが。
自分にも言い聞かせるように口を動かすと、バーサがほっとしていた。
大事な主人が刺されたらと危惧していたのだろう。クラークは慕われているのだなと実感する。
その後は髪を結い、簡単に化粧もして運ばれてきた食事を取った。口当たりの良いものが多く、素朴な味わいで実家にいた頃を思い出す。
この後はどうなるのだろうと待機していれば、案内は午後からで午前中はゆっくりしていてほしいとの伝言がよこされる。途端に眠くなってしまうのは、昨日からの緊張と疲れを引きずっているためか。
バーサにも促され、せっかく着付けてもらった喪服も脱いで顔も洗い、気持ちの良い寝台に潜り込む。扉が閉まり一人きりになった途端に、とろりと睡魔が忍び寄る。
本当にここは気持ちがいい。
――好きになりたくないのに。