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この危うい関係  作者: 素子
本編
24/52

24  目隠し

 エリザベスは座ったままクラークを見上げる。クラークは部屋の扉に背を預けたままで、エリザベスを見つめていた。

 静かな、それでいて強い視線に顔を逸らすことも赦されないような気がした。

 

「ウォーレン卿……」


 冗談でしたの。そう言わなければと理性は命じているのに顔は強ばり、張り付いてしまったのように舌がうまく動かない。

 そして意識してしまう。ここはクラークの城でクラークの部屋。自分などどうにでもできる状況なのだと。じわりと嫌な汗を感じる。必死にこれは芝居で成り行きでここにいるのだ、クラークだって仮の婚約を通すと明言しているのだから身の危険などあるはずがないと自分に言い聞かせる。


 婚約期間中は本来なら礼儀正しく一定の距離を取って語り合うとか、侍女など第三者を伴って散歩するくらいの関係を保つ。

 間違っても一つ部屋に押し込められたり、一夜をともにしたりなどしない。

 とんでもない仕来りの上に、元乳母の態度からも今夜ばかりは自分の味方はいないとしても、クラークだけは仮の婚約と承知の上なのだから配慮してくれるはず。

 エリザベスはあくまでも仮の関係という一点に救いを求めた。

 

「長椅子に休むとしても、そのままでは横にもなれないのなら」

「一晩くらい、大丈夫です。さきほどの言葉は忘れてください」


 思いの外穏やかな声音にほっとして、エリザベスの強ばった舌も動き出した。

 

「レディ、あなたには静養のために私の城においでいただいた。長椅子で休ませるのも申し訳ないのだから、せめて楽な姿に」

「いえ、体の方はもう大丈夫ですのでお気になさらず」

「あなたに何かあれば、私が耐えられません」

「卿にご迷惑をかけないように、留意いたします」


 うわべは礼儀正しい応酬を交わしながら、エリザベスは一種異様な緊張を感じていた。

 クラークがくつろいだ姿でいるからか、一日を通して意識がしっかりしたままでかつてないほどに近かったせいか。閉ざされた部屋で二人きりなせいか。

 対応を誤れば、取り返しがつかない気がした。それこそさっきの腹立ちまぎれの失言のような。よく躾けられていた獣が不意に野生に立ち返る瞬間に居合わせた様な、背筋のひやりとする思いを味わい続けている。

 油断すれば喉笛を噛みきられそうな、危険な予感。檻の中に二人きり。


「それはそれで私がバーサに締め上げられそうですが」

「どういう意味でしょう」


 くいと、親指で扉の向こうを指し示すクラークにエリザベスは首をかしげる。


「そのままではレディがお休みでないのが一目瞭然です。女性をさしおいて自分だけ休んだとなれば、どんなことを言われるか」


 想像したのだろう、クラークは顔をしかめた。年齢もそれなりで貫録もあり、押しも押されもせぬ一国の騎士団長が、自分よりはるかに小さな女性の叱責を思って首をすくめている様子はおかしくもあり、つい同情を覚えてしまうようでもあった。


「バーサはお強そうですものね」

「未だに頭が上がらないところもあります」


 そう言えば、バーサからは坊ちゃま呼ばわりだった。


「卿のお小さい頃はどんな子供だったのでしょうね」

「私ですか? いや、別にどうということもない……。八つの時に小姓から始めて、あとは騎士になるために明け暮れた様なものですから」

「そんな小さい時に親元を離れられたんですか?」

「休暇で戻りはしましたが」


 それ以上会話も弾まずに、また沈黙。扉の前に立つクラークと長椅子に座るエリザベスは互いに気まずさを感じていて、危うい均衡の上に立っていることからはあえて目を逸らしている。

 どちらが動くか。動かずにいるか。息づまる時間だけが過ぎていく。

 結局、均衡を崩したのはエリザベスだった。


「ウォーレン卿、お休みになられてはいかがですか」

「レディが……そのままでは休めそうにありません」

「わたくしのことはお気になさらずに、本来のお役目を果たすためにご自身の体を気遣って下さい」

「きりがありません」


 クラークが、動いた。

 衣装箱を開けて何か取り出すと、大股にエリザベスに近づいてくる。

 また失敗したのだ、とエリザベスは悟る。座る自分の前に立ったクラークを見上げることしかできなかった。ずい、と差し出されたものを反射的に受け取る。


「着替えです。後ろを向いてください、レディ」

「いいえ、大丈夫ですので。お願いです、お構いなく」

「お早く」

 

 拒否するために長椅子に背中を押しつけたエリザベスを認めて、クラークは長椅子の背後に回った。

 何をする気かと意図のつかめないエリザベスに構わずに、手にしていた布で自分の目を覆うように縛ったうえでエリザベスの肩に手を置き、背中に並んだ釦に手をかける。


「動かずに、釦が飛んでしまいます」


 そのまま釦を外し始めた。

 なんてことを、と逃げ出したいエリザベスだったが、今逃げればクラークの言うように釦がちぎれそうだ。

 目隠しをしているクラークは、それでも意外な器用さで釦を外していった。

 エリザベスは胸が波打つのを自制できなかった。息が苦しく、心臓が早鐘を打っている。こんなことは今まで、夫であったカデルの国王にもほとんどされたことがなかった。

 上から順に釦が外されていく。背中を嫌でも意識してしまう。腰のあたりまで釦が外されて肩のあたりが楽になった。身動きをすれば衣装がずれてしまう。泣きそうになりながら硬直していたエリザベスは、背中にクラークの指を感じて、びくりと身をすくめてしまう。

 クラークの手がコルセットの紐にかかっていた。


「ウォーレン、卿……」

「これをほどけばよいのですか?」

「もう、やめて……」

「後ろに装着されているので、おひとりでは脱げないでしょう。これも外さないと着替えられないのでは?」


 あくまでも静かなクラークの声がかえって恐ろしい。

 とても後ろを振り向く勇気を持てずに、普段は侍女に任せていることをクラークにされている事実に、羞恥で消え入りたくなる。

 気を失うことだけは絶対にしてはならないと、きつく衣装を握りしめながらエリザベスは今後衣装やコルセットを作るなら、必ず前開きのものにすると心に決めた。

 コルセットの紐がほどかれていき、物理的な締め付けは楽になったはずなのに、きりきりと締められているようだ。その圧迫感は背後のクラークの存在によるもので、背中に触れている指先によるものだとエリザベスは自覚した。


 コルセットの下は薄絹の肌着が、かろうじてクラークから素肌を隔てている。


「――ありがとうございます。あとは自分でやれますから」

「着替えが済んだら声をかけて下さい。その間は目隠しを取りません」


 寝台の方に歩いて、クラークはエリザベスから距離を取った。

 震える手を必死に動かして、エリザベスはクラークのよこした部屋着に着替えた。結っていた髪をほどき、靴下を脱ぐ。靴も脱いで裸足で脱いだものを抱える。

 喪服の下に靴下とコルセットをしまい込んで、一人がけの椅子に乗せた。

 立ったついでに、顔を洗い喉がからからになっていたので、杯に水をくんで一気に飲み干す。長椅子に横たわって体を丸めた。


「ウォーレン卿、着替えました」

「そうですか」


 クラークが目隠しを外して長椅子をうかがうと、もう身を沈めていたエリザベスは見えない。一生分の何かを使い果たした感でいっぱいで、疲労が一気に押し寄せる。

 とても眠れそうにはないが、とにかく寝台には潜り込もうとしてクラークははたと気付く。体を丸め息まで殺していたエリザベスは、クラークが近づいてくるのを潜めた物音で察知し、緊張の度合いを高めた。

 これ以上なにかあれば、もう、と扇子を握りしめる。


「レディ、申し訳ありませんでした。枕と掛け布です。寒くはないでしょうか」

「あ……ありがとうございます」

「足りないようでしたらおっしゃってください。では、お休みなさい」

「お休みなさい」


 ごそごそと音がした後は静かになった。エリザベスはそっと、頭を上げて部屋の中をうかがった。クラークはこちらに背を向けて横になっていた。

 しばらく後、エリザベスは枕に頭を預けて掛け布を顎の下まで引っ張り上げる。

 耳に神経を集中させて、どんな物音も聞き逃すまいと張り詰めていたが、いくら待ってもエリザベスの恐れるような展開はなかった。

 ほっとしつつ、当然だとも考える。自意識過剰に過ぎる。

 クラークは、あんなに礼儀正しく接してくれているのに。仕来りだから仕方ない状況としても、その他では騎士の鑑のような実に見事な紳士ぶりだったではないか。

 自分一人が意識して、うろたえて、醜態をさらしているのだ。


 クラークにとっては報償を得るため、失態を挽回するための今回の成り行きなのだ。

 自分にしても修道院に入る前の憂いをなくすために、ハーストの思惑に乗ったにすぎない。

 忘れては駄目だ。

 ――クラークは父と、夫の死に関与している。

 ――この関係は政略にすぎない。

 クラークを意識してはいけない。



 ともすればごろごろと寝返りをうちたい、あるいは頭をかきむしりたい衝動にクラークは耐えていた。

 仕来りとはいえ、何と大胆なことをしてしまったのかと思うと、顔から火が出そうだ。いや、既に体が熱い。

 閉ざされた視界のせいで、かえって感覚は鋭敏になっていた。

 押し殺した息づかいや大きく上下する胸、自分が触れたことで緊張の走る背中、うっすらと汗ばんでいっていた肌。実に様々な反応をエリザベスから拾い取っていた。


 エリザベスにはさんざん不埒としか言えない振る舞いをしでかしていたが、これが最たるものだろう。夫でもない、婚約ですら仮の男から衣装を脱がされるのはどれほどの屈辱で、羞恥なのだろうか。

 ここに彼女の夫や父親がいれば、決闘になってもおかしくない。

 泣きそうな、震える声だった。可哀想に、緊張しきって怯える小鳥のようだった。

 それでも、と煮えそうな爛れた思考はこの状況を歓喜している。明日以降は別々の部屋になる。もしかすると、もう顔も合わせてはくれないかもしれない。そう思えばこの一日が貴重すぎる。自分の人生には二度と訪れそうにない夜だと僥倖を噛みしめる。


 想う女性と一つ部屋。クラークは確かに幸福を感じていた。


 エリザベスは眠らないだろうと思っていたが、疲れ果てていたのだろうか。長椅子からの静かな寝息をクラークは聞き取った。

 時折、かすかに動いたために生じる音も聞こえる。眠ってくれたのなら、ぶしつけにも衣装を緩めた甲斐もあるものだ。クラークはゆっくりと目を閉じた。


 しかし、眠れるはずもない。


 全ての注意が背後の長椅子に向いてしまっている。目は冴え渡り、耳は研ぎ澄まされているかのごとく。

 クラークの祖先も、まさか自分の蛮行が仕来りなどという縛りで残るとは思っていなかったに違いない。子孫がこんな情けない状況で仕来りを踏襲するとも。

 クラークは耐えた。任務を遂行する場合に待機というのはよくある。気配を探りつつ己の気配を殺す。周囲の状況を五感で感じ取る。ただ、生殺しで耐えるというのはそうそうない。


「……ぅ、ん……」


 たぐり寄せていた理性の糸はいとも簡単に切れた。長椅子の方を向くまいと背を向けていたのをうつぶせて、枕に顔を埋めてクラークはきつく目を閉じる。

 動くな。動いては駄目だ。四十を越えたいい大人が、寝言一つで理性を崩壊させてどうする。ならば耳も塞げと思うのに、それは浅ましく気配を探り続けている。

 とうとうクラークは枕から頭を上げた。


 音を立てぬようにそっと寝台から降り立ち、足音を忍ばせる。一歩一歩注意しながら長椅子へと近寄った。長椅子に横向きで、体を丸めるようにエリザベスが寝入っていた。きゅっと掛け布を抱え込んで、穏やかな寝息をたてている。

 こうした、健やかな眠りを見るのは初めてかもしれない。

 いや、家族や妻でもない貴婦人の寝顔を目撃するなど無礼の極みなのだが。気を失ったり、毒に倒れたり、酒に酔ったエリザベスならば知っているが、いずれも呼吸も表情も苦しげだった。今は静かに眠っている。

 クラークはその姿を飽かず眺めた。目に焼き付けるように、心に留めるように。

 そっと頬にかかる髪の毛をすくい取って呟いた。


「リズ……」


 瞬間、エリザベスの口元に笑みが浮かんだ気がした。動悸を伴いながら立ち尽くしていると、また規則正しい寝息が部屋に響く。

 クラークはまた爪先だって寝台まで戻った。朝まで別の事情で眠れないまま。



 翌朝おそるおそる扉を叩いたバーサとバートは、着替えを済ませたクラークと、部屋着の上に肩掛けを羽織り長椅子に腰掛けるエリザベスを見いだした。意外にも血の雨は降っていないし、クラークの機嫌も悪くない。


「レディの着替えをお助けしろ。そして部屋に案内を」

「かしこまりました」

「私とバートは下で朝食を取ります。後で城の案内をいたしますので、それまで部屋にいらして下さい」

「承知いたしました」


 エリザベスがしっかりと応え、バーサに目を移す。バーサは使われた様子の寝台に感無量で、口の中でぶつぶつと祈りの文句を呟いていた。

 もう一度クラークがバーサに声をかけ、バーサは慌てて上の部屋におさめたエリザベスの衣装を取りに行く。


 バートは恐ろしい一夜の果ての奇妙に穏やかな朝を、静かに佇む二人を眺めた。

 後で絶対にこの長い夜の顛末を熊親父から聞き出すと決意しながら。








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