21 婚約者
馬車の中は沈黙が落ちていた。女主人と侍女が乗っているが、外からは中の様子がうかがいしれない。
周囲を守る者も故郷に戻っているのだから本来なら明るい気分でいてもおかしくないのに、神妙に馬に乗っている。時折ちらちらと視線がよこされるのを感じるが、クラークはむっつりと黙りこくってウルスス号の手綱を取っていた。そして十日ほど前のやりとりを思い出す。
宰相とクラークは連れ立って、というより宰相にクラークが連行されていた。
今日は髭はきれいに剃られ、身だしなみは問題がないと宰相の厳しい詮議にも合格していたクラークだが、足取りは重かった。それに気付いたのか宰相が振り返り、自分よりはるかに大きい騎士団長をねめつける。
「もう少し愛想のよい顔をしたらどうだ」
「私が笑えば、子供が泣きます」
「……そうだったな」
全く情けないと宰相はひとりごちてまた前を向いた。
これから攻略困難な相手に対峙しなければならない。怒りを買うのは必定としても、それ以上の攻撃は避けたい。どうにかして、こちらの書いた筋書を納得してもらわなければならない。
「はてさて……餌がこれでは、ご褒美ではなくて罰と受け取られるかもしれぬ」
人柄は悪くない。部下には慕われ味方からは頼みにされ、実直で勤勉なことは折り紙つきだ。身分も財力にも問題はない。礼儀作法だって、完璧にやってのけるのだ。
ただそれらの美点を全て台無しにしてきた、実績がある。
「お前は、どんな反応だと思う?」
「静かにお怒りになるだろうと思われます」
「ふ……む。理詰めで話してみるか」
姫とその母親の居なくなった離宮は少し寂しい。エリザベスの体調はずいぶんと上向いていて、午後のひと時を読書にあてていた。
王子と母君は引き離されずにいる。近々、本格的に王子への教育も始まるだろうと予想された。読書の途中で侍女がエリザベスに来客の旨を伝える。
迎え入れると、宰相と騎士団長、その副官だった。
「お加減はいかがでしょうか。お顔の色はだいぶ良くなったように思われますが」
「お気遣いありがとうございます。ほぼ前の状態に戻ったようです」
「そうですか、それは良かった。……ときにレディ・エリザベス。王都から離れて、空気の良い場所で静養されるおつもりはありませんか?」
宰相からの転地療養の誘いに、エリザベスは居住まいを正した。
ただの静養か、それとも何か別の目的が付随しているのか。間違いなく後者だろうとエリザベスは予測した。純粋な回復後の静養の話であれば、ここに侍医もいるはずだから。
「わたくし、王都を離れてまで静養しなければならない病状なのでしょうか」
いやとんでもない、と宰相は大げさに首を振った。この老人の小芝居には騙されてはいけない、と気を引き締めながらエリザベスは物思わしげな体を取る。宰相の後ろに立っているクラークが、食い入るように自分を見つめているのも気に入らなかった。
宰相は腹蔵なく話をする腹を固めたらしかった。目くばせで、侍女は勿論護衛の騎士も下がらせる。副官のバートは壁際に控えている。
鋭い視線と厳しい表情から、愉快な話ではないとエリザベスも知らず緊張していた。
「静養名目で王城を、王都を離れていただきたい」
「どのような理由ででしょうか」
「先日レディの陥られた災難に関連しております。王城から離れた場所においでいただき、害意を有する輩を誘い出したく思っております」
「囮ですのね」
ここは人が多すぎて容疑者を絞り込めなかったのだろうと、エリザベスはうすうす察した。だから自分を囮に別の場所に誘い出すと。
元王妃を駒に使うとは思い切ったものだ、と少々おかしみも感じる。
「王子と母君への警護がしやすくなるのでしたら、わたくしに異存はございません」
「ありがたい」
この際、標的も明確にするつもりなのだと宰相は示唆した。
では問題はどこに行かされるか、だ。宰相に目で問えば、ごほんと咳払いをしてからおもむろに口を開いた。
「空気のきれいな山間の城にと思っています」
「ハーストの王族のどなたかの城なのですか?」
別邸の類だろうとあたりをつけたエリザベスの予想は裏切られた。
「これなるウェンブル伯所有の城です」
「ウォーレン卿の……」
思わずクラークを見上げれば、うろたえたような表情が現れ、珍しいことに目が逸らされる。この反応はどういうことなのだろう。エリザベスは嫌な予感を覚えた。
宰相はちらりとクラークを、次いでエリザベスを窺い、エリザベスに衝撃を与えた。
「これを婚約者として、その城に滞在する名目で王城を出ていただきたい」
クラークは黒い喪服を着たエリザベスが長椅子から立ち上がろうとして、浮かせた腰を戻すまでの時間を恐ろしく長いものとして感じ取っていた。
自分に向けられた視線に、様々な念を感じた気がする。さっきまでは軽く握っていた扇子にやや力を籠めたらしいのが、エリザベスの内面を表す唯一の反応だ。
しばらく無言の後に、エリザベスは宰相に静かな眼差しを向けた。
「わたくしは父と夫の喪中です。縁談が舞い込むとは考えてもみませんでした」
「レディの心中はお察しいたします。ただご側室がたは喪中であっても、既に縁づいて王城を去りました。レディの場合はご身分、お立場を鑑みて『仮の婚約』でと考えております」
「賊や黒幕をおびき出すのでしたら、修道院に入れてください」
「警備上の問題で難しいのです」
とうとうエリザベスは本質に迫る問いかけを行う。
「なぜ、ウォーレン卿なのでしょう」
「第一に騎士団長で護衛に適していること、第二にこれの所有する領地の城は賊が入り込むのが難しい立地と構造です。実際に風光明媚で空気はきれいです。レディのお心を慰めることでしょう」
そしてと宰相は続けた。エリザベスは寸分も聞き漏らすまいと、宰相を注視する。
寂しい頭頂部を癖なのか撫で上げて、朗々とした声を響かせる。
「これのレディへの不埒な振る舞いを陛下が憂慮しての裁断です」
「不埒……」
「左様。カデルでは気を失ったレディを抱き上げて運び、ご領地の森でも抱きとめたとか。極め付けは先だっての夜会です。これはレディをかき抱いて、口移しで薬を飲ませました」
宰相の口から自分にされたことを聞くうちに、エリザベスはどんどんと顔が熱くなるのを感じた。両手を頬に当てると既に熱を帯びていて、落ち着かなければと思うほど鼓動が早まっていく。
カデルでの出来事は意識が戻ってから聞かされ、ほぞをかんだ覚えがある。森でのことは覚えがない。躓いたのを支えてもらいはした。だが、夜会の件は――。
「目撃者がいたのですか」
「勿論厳重な箝口令は敷いております。ただこの手の話はどこからか漏れるのも無理からぬのです」
緊急事態だったからと言えばそれまでの話であっても、回数を重ねれば耳目を集めても仕方がない。密やかに人の口から口へ語られたのだろうか。
薬を飲ませるためとはいえ口づけられていたなんて、とつい恨みがましくクラークを見ればあからさまに目が泳いでいた。
ああ、それにとエリザベスは最新の『不埒』に思い至る。
火酒に酔って倒れそうになったのを寝室まで運ばれて――。
クラークは長椅子に背筋を伸ばして座っていたエリザベスが、頬を紅潮させてそれを手で押さえる仕草に内心穏やかでいられなかった。なじるような視線を受けた時など、申し訳なさを覚えるべきなのに、ときめいてしまう。
行為の一つ一つに邪な目的はなかった。どれもこれも必然性があったと胸を張れる。それでも女性には致命的な醜聞になりかねない。
事実国王陛下はそのように話を持って行った。その上で、醜聞から救う方法の一つとして、今回の縁談を申し渡された。
自分なら醜聞などものともしないからと。実際噂の元をたどって対峙すれば、相手が怯えて謝罪してくるか逃げ出すかだろう。
「これによって生じた汚名をすすぐために、いっそと陛下が提案されまして。勿論仮の婚約であり、解決の暁には今度こそレディのお心のままにとも申しつかっております」
「では、わたくしを囮にしてウォーレン卿が捕らえる役割を担われるのですか」
「はい。それにこれは当方の事情ですが、これには褒賞を与えることになっておりました。それがレディの一件で責を問われております。
今回レディとの縁談にあたりまして、レディに釣り合うようにとこれに与える爵位と領地が実質の褒賞となります」
エリザベスはゆっくりと頬に当てた手を戻した。
色々と考え合わせて、宰相を見やる。
「……それで静養と単なる護衛ではない体裁を整えたということですか」
「ご理解が早くて助かります」
「では、これは正しく『政略』なのですね」
エリザベスの確認に宰相とクラークはほんの少しだけ返答を遅らせた。
宰相には是、クラークには……。結局は宰相が是認する。
エリザベスは思いもしなかった我が身の行く末に、必死に思考をめぐらせる。拒否はできないだろう。ハーストの国王からの実質の命令だ。
自分と名目上の縁組みすることで領地と爵位を得るクラークに否やはないだろう。
「喪に服している間を含め、仮の婚約を通して下さるのですね」
「もとよりそのつもりでおります」
初めてクラークが口を挟んだ。エリザベスは喪服に身を包んだままで碧の瞳でもって、あてがわれた婚約者を眺める。クラークはまた目を逸らした。
宰相もクラークも、バートですらエリザベスの返答を固唾をのんで見守った。
彼らが部屋を訪れた時と同じように、エリザベスは背筋を伸ばした。宰相とクラークに目をやり、しっかりとした声を出す。
「陛下のお声掛かりでしたら謹んでお受けいたします。城に出立するのはいつ頃になりましょうか」
「十日後をめどにしたいと思っております」
「承知いたしました」
また荷造りをして、移動に備えなければならない。頃合いとみて宰相はクラークを促して、バートも続いて部屋を辞した。
離宮から王城へと戻る道すがら、宰相は難しい顔で考え込んでいた。
執務室にクラークとバートを招き入れ、侍従に酒肴を用意させる。
「まずはお前の婚約に乾杯だ」
「……恐れ入ります」
顔色も変えずに飲み干したクラークの酒杯に、バートが黙って次を注ぐ。
宰相は味わいながら流し込んでいる。一息ついたところで、宰相はクラークへと話しかける。
「二ヶ月か三ヶ月はくれてやる。その間に何とかしろ。何ともできぬのなら、私はもう知らん」
「宰相閣下……」
「犯人だけではない。レディもだ。お前はこんなことでもないと身は固められぬだろう。これが最後で最大の機会と心得よ」
宰相から背中を押されたクラークは思わず酒を誤嚥しそうになり、少しむせる。
バートはやはり黙っておっさんの慌てようを観察した。
これでおっさんとレディの婚約は発表されるだろう。あとは勝手に噂が走るに違いない。そうなれば、騎士団内での賭けが始動する。いよいよお祭り騒ぎが始まるのだ。
「お待ち下さい。あくまで仮のものだとレディも強調されていたではありませんか」
「仮でも婚約は婚約。それとも、修道院に逃げられてもよいと申すのか?」
熊親父といえど宰相の前では手も足も出ない。背中を丸めるように酒杯を握りしめたクラークを、宰相は姿勢が悪いと叱り飛ばす。
こうして当人達の思惑を置き去りに、カデルの元王妃とハーストの騎士団長の婚約が発表された。
きっかり十日後、王城から出て行く馬車の周囲をクラーク、バート、それに護衛の者達が囲んで、クラークの領地を目指す。
馬車からは一切反応はない。時折侍女が必要なものを頼んで、顔を出すくらいだ。
めでたいはずなのに重苦しい空気のまま、彼らは領地へと到着した。