19 火の酒
エリザベスはようやく寝台から離れることができた。とはいっても室内限定で、厳重な警護のもとでだが。想像以上に体力を消耗しているのを実感する。
離宮に戻ることができて、エリザベスはカデルの側室達からの見舞いを受ける。姫君の母親達は、あと少しすればハーストの王城を離れて新しい夫の領地に移動する。
先を考えれば側室達の顔が暗いのも仕方なかった。ただ、姫達はカデルに育ったなら遠く異国に嫁がされたかもしれないが、ハーストの貴族と縁づけば政略からもそんなことはないだろう。おそらくハースト内で、行き来もできるような縁組みになるはずだ。
どちらが良いのだろうかエリザベスには判断はつかない。それでも母娘の行く末が幸多いものであるようにと祈る。
昼食を終えた午後、エリザベスは庭の見える窓際で椅子に腰掛けていた。外から狙われないようにと、計算された位置に置かれた椅子から花の咲く庭を眺める。景色は美しく、のどかでつい先頃に自分の後が狙われたなど信じられない気がする。
異状を感じ血を吐きながら意識が遠のいていった際は、ここで死んでもよいかと思っていた。生きていても辛い。かなうなら父と一緒にと思っていた。
自分を殺したいと思う人がいる。自分を邪魔だと思う人がいる。
その策に乗るのは少しばかりしゃくだけど、何も考えることなく楽になれるのならとも心のどこかで感じていた。
結局この身は現世にある。まだしばらくは、こちらにいなければならない。
扉を叩く音で現実に引き戻される。入ってきたのはハーストの騎士団長。
「ご気分はいかがか、レディ」
「はい。お気遣いありがとうございます、ウォーレン卿」
離宮や夜会を含めての警備責任者でもある騎士団長を、エリザベスは無感動に見上げる。自分で毒をあおったのかと詰問されて以来の対面だ。
自分の一件はクラークにとっては汚点なのだろう、警護という名の監視が一層厳しくなった気がする。そのために扇子に仕込んである刃物をまだ研ぐことができていない。あれが唯一手近にある武器だというのに。
なまくらな刃は、致命傷よりも苦痛を与えてしまうだろう。
夜会の際にも手に持っていた扇子は、今は引き出しに仕舞われている。あれを活用するためには、どうにかしてこの厳つい騎士団長を出し抜かなければならないとエリザベスは感じていた。
クラークは瓶を持参していた。
「レディの体調が良ければ、確認してもらいたいことがあるのです」
「なんでしょうか」
「ここに、火酒を持参しました。あの夜会で口にしたものと同じかどうか、飲み比べていただきたい」
琥珀のような酒の瓶をクラークが示した。
夜会に供されたのと同じ銘柄を用意した。それを杯に注いでエリザベスに渡すと、そっと両手で受け取ってしばらく手の中で杯を遊ばせる。俯いているので表情がよく分からない。
「ご不快とは思うが――」
「いただきます」
両手で杯を持ったまま端に唇をつけ、エリザベスはほんの一口含んだ。
それを念入りに舌の上で転がす。度数の強い酒とはあの夜会の折にも持った感想だが飲み口が違う。舌を刺すような刺激的な苦みはなく、鼻には馥郁たる香りが抜ける。飲み込んでしまえば後口はむしろほんのりとした甘みすら感じられた。
杯の分を全て口にして、エリザベスはクラークを見上げた。
「わたくしがいただいたのとは別の味です」
「そう、ですか」
十中八九そうだろうとは思っていたが、エリザベスを脅かした毒が火酒に仕込まれたのは確定として良いだろう。
エリザベスが伏せっている間に離宮の彼女の部屋を徹底的に捜索したことは、エリザベスには伝えてはいない。常備しているような薬はなく、毒も隠してはいなかった。
武器も見つからず、ようやくエリザベスへの嫌疑は晴れた形だ。
被害者を試すような形になったので、クラークが謝罪しようと口を開こうとした時だった。エリザベスの体が椅子の上でぐらりと揺れる。
倒れかかりそうなのをとっさに抱きとめた。手から離れた杯は、敷物の上に落ちたが破損はしていない。
色めき立つ護衛の騎士とともに、クラークも慄然とする。
――まさか、また?
そんなはずはと思うクラークの腕で、エリザベスが身じろぎした。
ゆっくりと顔を上げ、必死の形相のクラークを捉える。碧の瞳がとろんとしていた。
「……火酒が強かったよう、です」
「酔った、のか? ……あれだけで?」
「いつもなら大丈夫なんですが……」
はぁ、と吐息混じりに囁かれ安堵のすぐ後でクラークに動揺が襲う。
水をと誰にともなく告げると、きびきびとした動きで騎士が侍女に命じている。目の端に笑いをこらえているのか顔に力が入って微妙な表情になっているバートが映るが、今は構っていられない。
「申し訳ない。病み上がりに飲ませた私の落ち度だ」
「いいえ、わたくしも美味しいと思ったから……卿がお好みになるのも納得しました」
クラークの腕に頭をもたせかけ、エリザベスが目を閉じている。
さほど経ってはいないはずだが、妙に水が届けられるまでの時間を長く感じながら、クラークは何とか平静に見えるようにと気を逸らし続けた。
水を二杯ほど飲んで、エリザベスは少し落ち着いてきたようだ。
「いつもあんな強いお酒を飲んでいらっしゃるんですか?」
「いや、いつもというわけではないが……」
「いっつも樽で飲んでいるじゃないですか」
「バート」
ぎりと副官をねめつければ、ふふっと笑う声がした。
「お強いんですね」
「いや、それほどでも」
やはり酔っているらしいエリザベスが、普段なら絶対に見せない態度と笑顔でいる。
殺す気かとクラークは本気で思った。失うかもしれないと恐怖におののいた日々がようやく抜け出れば、夢かと思う状況に陥っている。
これ以上と思い、腕を外そうとすればエリザベスの方が醜態に気付いたらしかった。ぱっと身を引いて立ち上がろうとする。その足がまたしてもよろけた。
「重ね重ね申し訳ありません……」
「歩けるか?」
体力がなくなっているところに加わった酒の威力はなかなかだった。膝に力が入らない。力なく首を振ってしばらく座っていれば酔いは抜けると、伝えようとした時に背中と膝にクラークの腕を感じた。
あっと思う間もなく体が持ち上げられる。
「ウォーレン卿」
「しばらく横になっておいでなさい」
慌てるのも拒むのも間に合わない勢いで、クラークが大股にエリザベスを抱えて歩き出す。人目がある。それ以上に異性に抱き上げられていることに、エリザベスの頭の中は真っ白になっていた。
見上げれば角張った顎と、傷のある顔が目に入る。
ふと、この腕の感触が初めてではないような既視感に襲われる。
カデルで倒れた際に運ばれたのは後で聞かされた。その時の感覚だろうか。それとも、自領の森で抱きとめられた時のものだろうか。
それよりもっと最近の気もするがはっきりしない。
まだ酔いの抜け切れていない身には、力強く温かい感触が心地よかった。知らず目を閉じてクラークの胸に頭をもたせていた。
扉をいくつか抜ければすぐに寝室だ。慌てて侍女が寝具をめくった上に、そっと下ろせばエリザベスがうっすらと目を開けた。
下からまっすぐに見つめる碧に、クラークは魅入られて視線が外せない。
エリザベスが問いかけた。
「わたくし、命が危うかったのですよね。処置を施されなければ死んでいたのでしょうか」
「侍医からはそう聞いている」
「どうしてそのままにしてくれなかったのですか?」
「本気で言っているのか?」
酔って自己抑制が効いていない。エリザベスは自覚しながらも本音を口にしてしまった。案の定、クラークを怒らせたようだ。
ハーストの騎士団長からすれば、あの状況で自分が命を落とすなど失態以外のなにものでもない。戦勝記念の夜会で自分が命を落とす意味も、及ぼすだろう影響も理解している。
それでも口をついて出てしまった。
「愚かなことを申しました。忘れて下さい」
「レディ。死ねばそこで終わりです。私はあなたを死なせたくない」
「卿は職務熱心なのですね」
顔の横にクラークの手が置かれた。それをたどってエリザベスは肩から自分を見下ろす顔まで視線を移す。
かつてないほど厳しい顔つきのクラークがいた。
「あなたは自分を軽く考えすぎている。御身の価値をもう少し重く受け止めていただきたい」
「重くもなにも……」
「少なくとも私にとっては軽くはない」
すっと手を離しクラークは寝室を出て行った。
横たわっていてもどこかふわふわと揺れている感覚で、エリザベスは額に手をやった。
侍女が衣装を緩めてくれるのに身を任せる。
自己嫌悪に陥って、きつく目をつぶった。
クラークはバートを伴い離宮から王城へと戻る。
バートは熊親父の肩から背中が強ばっているのを見て取った。
この世の春だったはずなのに、寝室から出れば冬のような厳しさだ。いったい何があったのだ、おっさん。寝室に連れ込んで叩かれでもしたのだろうか。
「親父殿、レディとなにか……」
「何もない」
とてもそうは思えないのだがとバートは言いかけ、口を閉ざす。
手負いの熊にちょっかいは無用。
おとなしく熊親父の後を付いて宰相の執務室に入ったバートは、そこで驚愕の事態に遭遇する。
熊親父とレディの予期せぬ触れ合いなど吹っ飛ぶような、命令だった。