18 女神亭
エリザベスの状態ははかばかしくない。
熱がなかなか下がらないのだ。秘密裏に王城の奥にその身を移して、懸命の看病が続いていた。
発熱は体力を消耗する。外からできる手を打ってしまえば、あとはエリザベスのもつ力に頼らざるを得なかった。
クラークはエリザベスだけにかかりきりになっているわけにもいかず、騎士団での執務を行っていた。朝は鍛錬場で体を動かす。練習用の棒が空気を切り裂き、びゅっという音が響く。
普段ならクラークが直々に騎士や従騎士を指導することが多いが、ここ数日は副官のバートがやっている。無言で口を引き結んで、恐ろしい勢いで鍛錬しているクラークは誰も寄せ付けない雰囲気を纏わせている。
今朝は、木のへし折れる音で皆の注目を集めた。クラークの握っていた棒が練習用の木偶に当たって折れたのだ。どこまで力を入れれば折れるのだろう。騎士達のおののきをよそに棒を替えて、木偶に向かって再び棒を振り下ろした。
程なくまた木の折れる音がした。
またかと注目したバートが木偶が倒されているのに、内心ため息を漏らす。
木偶は太い木の芯を用いて、藁で覆い表面には革で仕上げて金属の鎧を着けさせてある。固定だって念を入れていて、藁は詰め直すが本体は老朽化で替える以外に壊れた記憶はほとんどない。
そしてクラークが倒した木偶は、先日新品に替えたばかりだった。
クラークは横倒しになった木偶の鎧部分に棒の端をどん、と突き下ろした。
へし折れた木偶の芯部分を眺めて棒を所定の位置に戻す。
「すまないが、木偶は取り替えだ。今度はもう少し太い木で芯を作ってくれ」
「承知しました。親父殿は」
「執務を取る。昼は陛下の御前だ」
バートと手短にやりとりをしたクラークは、鍛錬場の面々を見渡した。
「気を抜くな。戦が終わって気が緩んだ頃が一番怪我もしやすい。常に次の事態に備えておけ」
「はい」
息のそろった返答に頷いてクラークは訓練場を後にした。バートはクラークがへし折った木偶の側に近寄った。
粘りのある木の水分をじっくりと飛ばしてより堅く仕上げたのに、あっさりと折られてしまっている。鎧の胸当ての部分が丸くへこんでいる方に、騎士が目を奪われている。
金属製の石突きを巻いていないのにこれか、と熊親父の怪力ぶりに今更ながらおののいているようだ。
「他に八つ当たりされるよりはいいが」
人に聞かれないように囁くにとどめ、バートは木偶の取り替えを命じる。こうやって正統派で熊親父の伝説が増えるのならまあいい。畏敬の念も増すというものだ。
しかし今のおっさんにハルバードなんてとても持たせられない。本人も自覚しているからこそ、剣も取らずに棒での訓練を続けているのだろう。おっさんの場合気が緩んでではなく、張り詰めすぎて自分か周囲に怪我人が出かねない。
それもこれもレディの病状が……とバートは祈る。
どうかレディが快癒して、おっさんに平穏が訪れますようにと。
執務に無理矢理に集中しながらクラークの心は病床にある。陛下からの呼び出しも現状の報告のためだ。あの夜の給仕は分からずじまいで、クラークのはらわたは煮えくりかえりそうだった。
執務を終えて部屋を出ようとしたちょうどその時に、向こうから扉を叩こうとした姿勢で中になだれ込んだ若者がいた。体勢を崩したひょうしに、手にしていた手紙が散らばる。そのうちの一つをクラークは踏んだ。
「も、申し訳ありません」
言いながら最近入ったばかりの従騎士は半泣きだ。慌てて散らばった手紙を拾いにかかる。クラークは自分の踏んでしまった手紙を拾い上げた。流麗な文字と高級な封筒、付けてある香りまで覚えのあるものだ。
従騎士の差し出した手紙をざっと分別して二つの山に分け、半分を従騎士に突き返すとともにできあがった書類を渡す。
「この手紙は処分していい。こちらの書類は王城に届けろ。場所は分かるな」
「あ……はい」
「では行け」
従騎士は礼もそこそこに部屋を出た。クラークはずきりと痛むこめかみを親指と薬指で押さえる。
このままエリザベスが亡くなれば、ハーストの内部でも様々な憶測を呼ぶだろう。若く健康な女性がとなれば、一層の興味と政治的な注目も集める。ハーストへは良い印象は抱かれない。
あの日以来秘密裏に持ち続けている髪飾りにそっと触れて、エリザベスが闘っている王城へと重い足を向けた。
従騎士は小走りに騎士団を出て、王城へと繋がる道を歩いていた。実のところ入団したばかりで王城内のどこに書簡を持って行けばいいのかが分からない。通りすがりの誰かに尋ねようと、人当たりの良さそうな侍従に声をかける。
「騎士団長からの書簡をいずこに持って行けばよいか、ご存知か」
「宛名を拝見してもよろしいですか? ――はい心得ております。僭越ながら私が行きましょうか。ちょうどその近くへの所用もありますし」
一瞬従騎士はその申し出に乗ろうかとも思った。ただ場所を知らないとまた次に言いつかったときに右往左往してしまう。
それに書簡を間違いなく相手に届ける重要性は、入ったばかりの従騎士にだって理解できる。侍従の申し出はありがたいが、と断った上でその場所に案内して貰う。
王城の中に入り、執務棟の中を進んで一つの扉の前で侍従が従騎士を振り返った。
「こちらになります」
「ありがとう、助かった」
「なんでもないことでございます。その書簡や手紙を全てお渡しするのですか?」
「手紙? ああ、いやこちらは廃棄するようにと」
「でしたらそちらは私がいたしましょう。処分する場所はここから離れておりますゆえ」
侍従の言葉に甘えて、従騎士は手紙を渡した。侍従は一礼して受け取り、従騎士が扉の中に消えるまでその場にたたずんでからきびすを返した。
素早く宛名を確認して、ほんの少し眉を上げる。躊躇なく差出人も検分する。
一通に目を止め、ふっと目をすがめた。
その一通を懐に収めて、残りを処分場の焼き場へと運ぶ。
侍従は翌日の午後に決まった半休を控えていた。都下へ通じる通用門では最近は詮議がことのほか厳しい。同僚がそうこぼしていたが、なるほどと思う。
よどみなく名前と所属を記載し、門番の騎士から簡単な身体検査と鞄の中身を改められる。特に問題になることもなく、侍従は都下に続く道へと踏み出した。
夕闇が本格的に夜になる頃に、活気づく街がある。酒を供する飲食店、もう少し柄の悪い酒場、そして一夜の夢や安らぎや恋人を求める館。
花街と呼ばれるそこでも別格の、立派な館がそびえていた。玄関を入れば広間があり、そこにとりどりの『花』が咲き乱れている。
客は控え室の窓から透き見して、目当ての『花』を指名して部屋へと上がる。予約していれば『花』は最初から部屋で待つ。美しく装い、一時の夢の代償を求める女達。
上玉そろいの『黄金の女神亭』はいつものように賑わっていた。
王城を出た侍従も目当ての場所に寄った後で、迷いのない足取りで『黄金の女神亭』へとたどり着いた。ただ普通の客とは異なるのは、門番をしている屈強な男に耳打ちをして館の横手に回ったことだ。扉を叩き、小声で囁くと静かに扉が開いて侍従はその身を滑り込ませる。
人に見られることを厭う上客専用の入り口から入った侍従は、裏手の、しかし贅を尽くした階段を最上階へと上った。
扉の前のやはり大男に頷けば、扉を叩いて中に声をかけた男がそのまま扉を支え、侍従を通す。中は貴族の屋敷にも負けない贅沢さだった。
布張りの椅子に腰掛けた侍従は落ち着いた様子で、出された酒を飲む。侍従のお仕着せは着ておらず、貴族の子弟といった風体だ。
しばらく待たされた後で、男を誘うような香水の香りと共に部屋の主が姿を現した。
先日から遣いを出していたのに、焦らすのも手管の一つなのだろう。それでもこの部屋に通されるだけでも困難だと知っているゆえに、侍従は作り物でない笑顔を浮かべた。
「お久しぶりですこと」
「変わらずに美しい。王城の貴族の女性達もあなたの前では色あせる」
「まあ、お上手」
女にとっては決まり切った讃辞でしかないそれに艶やかに微笑んだが、相手が懐から取り出したものを見て笑みは途切れる。
「それは……」
「あなたの香水を移した手紙なのでね。大事に懐に忍ばせて貰った」
「どうしてあなた様がこれを?」
「宛名の主は読みもせずに処分を命じた。ご丁寧に踏みつけてな」
繊手がゆるりと侍従の差し出した手紙へとのばされる。渡して貰ったそれを食い入るように見つめれば、靴の跡が残るそれは確かに自分の出したものに相違ない。
読まずに踏みつけた……。
ついぞ味わったことのない屈辱に、女の手がかすかに震える。
「どうした、寒いのか?」
「いえ、いいえ。わざわざありがとうございます」
侍従は同情をこめた眼差しを美しい女に向けた。侍従とは言っても貴族の長男で、いずれは家督を継いで王城でなにがしかの地位に就くのは決まっている。
自分より高位の貴族と知己を得て、こうして花街でも最上級の『花』と向かい合うことができている。その女は陰りをおびた声音でのたまう。
「何故このようなことをなさるのか……」
「かの方には、大事な人ができたようだ」
侍従の言葉に女はゆるりと顔を上げた。美しい――たいていの男が骨抜きになって傍にと熱望する『黄金の女神亭』にあって『女神』と讃えられる女は、瞳に静かな炎を揺らめかせる。
「その方はいったいどのような?」
「知性や教養はあなたは劣らないだろう。美貌も……これは主観が入るので一概には言えぬがあなたが上と思う。ただ一つ、どうあってもあなたが得られないものを持っている」
手紙がきしりと握りしめられる。手入れが行き届き、ただ爪は長くないその手は無意識に手紙を握り潰そうとしていた。
全てを手にしているような女に足りない唯一のもの。
「どこの、ご令嬢ですの?」
「ご令嬢どころではない。隣国の王妃だ」
「王妃……」
国で最上の地位にある女性。当然婚姻前も身分の高い人だろう。
身分――。けして女の持ち得ない、現状では持ち得ないものだった。女の才覚なら身分ある男性の妻におさまるのは難しくない。
今だって求婚している貴族は大勢いるのだ。
ただ、将来は貴族の仲間入りをしようと現状の身分は平民だ。
黙り込んでしまった女に、侍従はなおも語りかける。
「今、我が国の王城内にいらっしゃるのだ。夜会の折のあの方を拝見すれば、その女性に心奪われているのは間違いない」
「そう……ですの」
どのような高位の貴族にもなびかずに高嶺の花でいた女が、珍しく関心を寄せたのが国でも有名な騎士団長。
熊のような大男とたおやかな花のような女の取り合わせは、まさしく美女と野獣だ。男のむくつけき風体が、女を一層優美に見せる。
そんな女が唯一自分から誘いをかける相手が、他の女に目を移した。
――可哀想に、『黄金の女神亭』の『女神』が敗北したのだ。
侍従はそっと女の手から手紙を取り上げて小卓に置いた。女の手をとり恭しく手の甲に唇を落とす。同時に柔らかな手首の内側を撫でさすった。
女は手を取られるままにしていたが、不埒な振る舞いに眉根をよせる。
「今はそんな気分ではありませんの」
「おや、私からの情報も要らぬと?」
「それは……」
怯んで弱くなった女につけこんで、侍従の指先と唇は手首からゆっくりと上へと移っていく。女は顔を背けながらも手を引きはしなかった。
花街の女でも最上級になれば、自分の意思で客のえり好みができる。ここで拒絶すれば、侍従は丁重にお引き取りとなっただろう。
しかし狡猾にも侍従は女の弱みを握っている。男――騎士団長とそれが想いを寄せる女の情報は、喉から手が出るほどに欲しいのだと見透かしている。何かを欲すれば見返りを求められる。
女はそのために一時自分の矜持に目をつぶった。
国王陛下との顔合わせを終えたクラークは、人目につかないようにエリザベスの病床を訪れた。ちょうど診察をしていた侍医は、熱が下がりつつあるとクラークに伝える。
確かに息遣いが若干楽そうに見えると、安堵しながらも未だ苦しそうな表情には胸を塞がれる。寝台の側の椅子に腰を下ろして、熱に浮かされる顔を見つめた。
エリザベスの飲んだ毒は数種が組み合わされていたらしい。念の入れように、相手の明確な殺意を感じる。
宰相閣下からは国内貴族で妙な動きをしている者がいないかを、内密に探るように命令されている。とりあえず、カデルと親交の深い者から洗いだしている最中だ。婚姻での繋がり、商売での繋がりなど考えれば考えるほどに複雑なので、焦りはするが丹念にと調べさせてはいる。
ふとエリザベスが身じろいで、うっすらと目を開けた。
普段は澄んだ碧が熱で潤んでとろりとしている。それが期せずしてクラークを仰ぎ見る。クラークは思わず身を乗り出して、まだ熱い手を取っていた。
「レディ、気がついたか?」
また眠り込みそうなのに慌てて声をかけると、ぼんやりとした視線が次第にはっきりとしたものに変わってくる。
寝台の天蓋から、あたりを見回し。傍らのクラークへと首がめぐらされた。
ひどく掠れた声がクラークの耳を打つ。
「……ウォーレン、卿? どう、なされたのです」
「失礼、レディ・エリザベス。脈を拝見します」
クラークが何か言うより早く、侍医がエリザベスの手首を取り額に手を当てる。
困惑しきりのエリザベスは、侍医が一通りの診察を終えるまでなされるがままだった。
促されて自分で薬湯と飲み物を口にしたエリザベスは、枕元ではべっているクラークに事情を説明された。
「あなたは夜会で毒を飲まされたのだ」
「毒を」
胸を焼く痛みと吐いた血を思い出して、エリザベスは瞑目する。
まだ熱のある身ではうまく物事が把握できない。ただ、クラークからの質問には一瞬だけ平静ではいられなかった。
「状況からは違うと思うが、あなたが自分で毒を仰いだのか?」
エリザベスは自分を見下ろす厳しい顔を見つめ返した。
金の髪、金茶の瞳。髭はこの間綺麗に剃ったと思ったのに、無精髭が伸びている。
目力の強さはどこまでも見通されるような気さえする。それが真剣に、返答を待っていた。
「――わたくしの意思ではありません。あの火酒は偶然に選んだのです」
「盆には他にも飲み物が?」
「ええ、とりどりにありました」
クラークは新たな情報に考え込む。おそらくそのどれもに毒が仕込んであったに違いない。全部飲むような口当たりのよいものを、エリザベスが選んでいれば――。
「火酒は全部飲まなかったのですね?」
「ええ。残りを別の給仕に引き取って貰いました」
ここで侍医から待ったがかかった。エリザベスには負担が大きすぎると言うのだ。
意識が戻ったばかりなので、クラークもそれ以上は強くは出ない。
落ち着いた頃にまた来ると言い置いて、部屋を出る際にちらりと盗み見ると、エリザベスはまたうとうととまどろみ始めていた。
ともかくも回復の兆しを見せたのに安堵して、クラークは宰相閣下に報告すべく執務棟へと向かう。
今のクラークは足取りが軽い。ようやく自分も安眠できそうだった。