17 暗い夜
密かに宰相が呼び出されて緊張感みなぎる室内へと足を踏み入れる。
眼前の光景を一瞥して、にわかに表情が厳しくなった。
下手に動かすこともできずに、エリザベスは長椅子に寝かされている。胸元の血が禍々しさを強めていた。
「毒か」
「おそらく」
「犯人は?」
「口にしたのは給仕からの酒を少々のようです。給仕が犯人か、黒幕がいるかは定かではありません」
淡々と宰相とやりとりしているのは表情を消したクラークだ。
恐ろしいほど平坦に受け答えしながら、放たれる抑えられない殺気に周囲は震え上がっている。
「対応は?」
「給仕の下げた盆から火酒の飲み残しがないか捜索させています。広間の方では特に倒れた者はいないと報告は受けております」
「そうだな。騒ぎなどおこってはおらん」
「不自然に王城を離れようとする者、通用門を通る者も詮議する旨の通達を出しています」
素早く的確に判断して指示を出しているが、こんな時のクラーク、熊親父ほど恐ろしい存在はいないと騎士達は身をもって知っている。
戦場でしかお目にかかれないのが、今夜ここに顕現している。さして狭くはないはずの部屋が息苦しいような気さえする。
宰相もクラークにはそれ以上求めずに、未だ浅く乱れた呼吸を繰り返すエリザベスを見やった。
「さて、持ちこたえられるかな」
「……閣下」
「最悪は常に念頭に置かねばならぬ。戦勝記念の夜会でカデルの元王妃が急死。どう捉えられる?」
クラークは拳を握りしめる。何か手の中にあれば握り潰しそうな勢いだ。
目ばかりはぎらぎらと獣じみた輝きを放っているが、口調は冷静そのものだった。
「カデルの反発は必至。ハーストへの印象は最悪になりましょう」
「側室親子が狙われたようではないのが、さらに悪質だな」
最小の犠牲で最大の、そして最悪の効果を引き起こす。
計算され尽くしたような機会でもある。この大勢の人の中から、悪意をもってエリザベスを狙った人物を特定するのは難しい。
招待客とそれに従って門をくぐった御者、侍従、侍女。王城側の侍従や給仕、侍女。料理番達。文官や武官など。数え上げればきりがなく、捕らえるとなると更に難易度が上がる。
手をこまねいているつもりはないが、かなり分の悪い戦いとしかいいようがなかった。
宰相は侍医と低い声で二言、三言交わした後に、クラークに顔を向けた。
「お前は広間に戻れ。私もすぐにいく」
「閣下、それは」
「騎士団長がいつまでも不在では不審を招く。陛下のお耳にも入れねばならぬ。ここにいて、お前にできることがあるか?」
たたみかけられてクラークは詰まる。相手が宰相でなければ、てこでも動きたくないが。正論で詰め寄られては致し方ない。
バートに合図を送り、騎士の増員を待つ。
内心では狂おしいほどに名前を呼び、苦しげな姿から目をはなせない。かなうならずっと側についていたい。
「親父殿、お待たせしました」
騎士団でも腕が立って口もかたい面々を連れてきたバートに後を託して、クラークは広間へと重い足を向けようとした。
ふと足下に何かが落ちているのに気付き、取り上げる。薄紅色の花を模した、髪飾りだった。思わず振り向き、医者が必死に救おうとしているエリザベスを見つめる。
壊さないようにと懐にしまいこんで、クラークは今度こそ部屋を後にした。
広間は夜会の喧噪が続いている。クラークは国王陛下の斜め後ろに立ち、周囲を見渡した。ただ目が合えば男女の別なく逸らされてしまうので、誰が不審人物か判別できないのがもどかしい。
この中に、悪意を持った輩がいるかもしれない。
離宮で出された食べ物に毒が仕込まれていたとしたら、他にも症状が出る者が居るはずだと医者が断じた以上、原因は夜会で供された火酒の中の毒だろう。全部飲んでいたなら、その場で絶命でもおかしくなかったかもしれない。
あれほど恐ろしい、背筋が凍るような思いはしたことがなかった。
父親について馬と狩りと武器の扱いを学び、従騎士として本格的に戦いに身を置くようになり、騎士から気付けば騎士団の団長になっていた。
あまたの戦場で命のやりとりをしてきた自分が、一人の女性の命が脅かされているのにとてつもない恐怖を抱いている。
「陛下」
しわを刻んだ宰相閣下が小声で国王陛下に耳打ちするのが聞こえる。国王陛下は一瞬眉を寄せ、すぐに意識して穏やかな表情へと戻る。
ただすっと纏う空気が変わる。顔は賑やかな広間に向けられてはいても、内面で思索にふけっているようだ。
おそらく自分同様に背景と今後の影響を考え合わせているのだろう。
クラークは努めてただ国王陛下の背後に控える、厳つい守護者たらんとした。
そうしないと広間の人間をぎりぎりと睨み付けて、悶着を起こしかねなかった。
夜会も深夜には終わり、ようやく一段落ついた。クラークはいくつか報告を受けてから、周囲に注意をしてエリザベスが治療を受けている部屋を訪れた。
緊張の面持ちで護衛をする騎士にねぎらいの言葉をかけ、バートへちらりと視線を向ける。かすかに首を横に振られ、状況は好転していないと匂わされる。
「容態は?」
「熱が出ています。解毒剤のせいか、毒のせいかは判然としません」
侍医はつとめて冷静に状況を聞こうとするクラークに、真摯に答える。
あとは体力勝負とも。
クラークは詰めている騎士に低い声で指示を出す。
「交代要員が来ると思うが、絶対に口外しないように。万が一お前達の誰かから話が漏れたのが確認できれば、私は容赦しない」
「心得ております」
バートがいつも以上の迫力の熊親父から部下をかばうように代弁した。目のあった騎士は幾分青ざめながらも、けしてよそに漏らさないと誓う。
また後で顔を見せるとクラークは部屋を出て、国王陛下の私室へと足を向けた。
礼装を解き、くつろいだ服に着替えた国王陛下だが雰囲気は『くつろいだ』からはほど遠い。
それは傍に控えている宰相閣下も、そして遅れて顔を出したクラークにしても同様だった。不機嫌の塊の三人が顔を合わせる。
「それで、レディは?」
「熱が出ているので、今はそちらにも対応している状況です」
「離宮へはなんと」
「少し人に酔ったようなので、王城で休むと連絡させておきました」
宰相が如才ない対応を披露した。自然な口実で今夜は不在を取り繕える。ただし長引けば不審をもたれるだろう。
意識を取り戻してもらい、毒の酒杯を口にした前後の状況も知りたい。
三者三様の思惑で席の空気は重い。
「クラーク、少し落ち着け。そなた自身が手負いの熊のようだぞ」
「申し訳ございません」
「警備の責任者としては当然です。それに……レディがカデル国内でも襲われたらしいのに、詮議が不十分です。二重の失態です」
それを重要視していたなら、エリザベス自身が夜会に気乗りしなかった状況も考え合わせてもっと早めに退席させることもできたかもしれない。ハーストの懐深くだからと油断した宰相の顔も自然苦々しくなる。
無理に夜会に引き出して挙げ句暗殺では、ハーストがそしられても仕方がない。
「内輪もめはやめよ。クラーク自身は己の非を痛感しているらしい。泳がせるように指示した私にも責がある。起きてしまったことは仕方ない。大事なのは今後だ」
諭されて宰相も引き下がる。ハースト国王、レジナルド・ブリス・キングスリー・ハーストは宰相と騎士団長を前に頬杖をついて、酒杯を弄んでいた。もし間違えれば酒杯は自分や王妃の元に届けられていたかもしれない。
ハーストの王族の席にほど近かったエリザベスがこの有様だ。
「広間でも上席に給仕ができる者は限られていた、そうだな」
「はい、ハーストの王族の方々はさらに別の者が給仕をいたしておりました」
「最近雇い入れた者はあの場には出せない。なれば、相当昔から潜り込んでいたとみるべきか」
王城の使用人は厳選されている。信用できる者の縁者か推薦がなければ王城へは上がれない。
貴族の子弟や令嬢が箔付けと行儀見習い目的で上がる場合もあるが、それとて一応の選考を通った上での話だ。
「誰が給仕をしたのかは判明したのか?」
「それがまだ分かっておりません」
最初の頃こそ厳然と給仕区画は決まっていたが、宴も中盤になると人も入り乱れ身分の上下で引かれていた区域もあいまいになる。
それでも上席担当の給仕は『下』の区域には出張らない。大まかに給仕の半分から四分の一程度が容疑者だ。
「護衛は顔を覚えてはおらぬのか」
「確認しましたが、顔を伏せ気味にしていたそうで」
「その辺りもぬかりなし……か」
今も給仕か侍従として堂々と王城内にいるに違いない人物に、クラークは敵意を募らせる。慌てて逃げ出すような真似はしないだろう。夜会の人の多さを理由にそしらぬ顔を決め込むに違いない。
ほとぼりが醒めた頃に申し分のない理由で王城を離れる者がいれば、そこまで考えてあまりにも消極的すぎる対応だと自嘲する。
「とりあえずは夜会に給仕をした者については、離宮へは立ち入らせないくらいか」
「姫君の母御は予定を早めて王城から出しましょう」
「王子親子の警備は更に厳重に」
そこまで同意して、結局振り出しに戻る。
カデルの元王妃をどうするか。どうなるか。
「レディご自身は修道院に入りたい希望があるようです」
「見上げた心がけだが、警備はしづらいな」
「はい。女性ばかりの修道院に護衛の男性騎士は入りにくく、女性騎士も数が少ないのです」
「第一、静かな信仰の場に騎士はそぐわないだろう」
暴力は否定されがちな場にあって、それを生業とする騎士は相容れない。
勿論騎士は信仰に篤い。それでも騎士が常駐するのは良い顔をされないだろう。
国王は考え込む顔になった。
「クラークの報償もせねばならないのに、この騒ぎでまた通達が遅れるな」
「そのお言葉だけでありがたく」
団長の正装でかしこまる姿はさすがに貫禄があり、頼もしい。
今回の最大の功労者でもある。本人は固辞しても部下を養うためにも領地は必要であるし、他への報償もやりにくい。
顎を手の甲にのせて国王は熟慮する。状況をできうる限り穏便に済ませる方策を。
「なんにしてもレディが回復しないことにはな」
私的な会合は終わり、宰相からの小言をくらってクラークはまたエリザベスの部屋へと足を向けた。
「夜の番は私がやろう。食事と休憩を取らせろ」
「親父殿。私も一緒に」
「……好きにしろ。だが明日休ませられるとは保証できない」
「構いません」
バートの申し出にクラークは他の騎士を下がらせ、交代の騎士を隣室で待機させた。
侍医はさらなる薬の調合に、と席を外している。
熊親父の無骨な手が、エリザベスの額に乗せられていた濡れた布を取り替える。バートはやるせない思いで様子を見守った。
「親父殿……」
「私にできることなど、ほとんどないのだな」
苦しんでいるエリザベスを前に身代わりになることも、今すぐ犯人を見付手を下すこともできない。
「レディは毒を飲まされたと気付いた際、このままと言っていたな」
「親父殿」
「生きていたくなかったということか」
生を諦めたくなるような仕打ちをしたのが自分だと、クラークは深い憂慮を滲ませている。父親であるカデルの宰相に毒をあおらせた際には、実際に怒りをぶつけられてもいる。拳で胸をたたかれた。痛くはないが、痛ましくはあった。
それでも生きていれば道は開けると、戦場で培った信念を持っているクラークだが。
「何を、弱気になっているんですか」
「バート」
「今回だってどさくさ紛れにリズって呼ぶわ、何度も口づけるわ。レディが欲しいんでしょう。親父殿が諦めてどうしますか」
笑い話にもできないが、倒れたエリザベスを腕に抱いて名前を呼んで水や薬を口移しで含ませた。
額に手を当ててクラークは思い出しては呻く。
「速やかにレディには回復してもらって、おっさん何てことをしやがったと怒られて下さい。だから諦めちゃ駄目です」
「めちゃくちゃなことを」
「親父殿はレディに出会ってから役得の連続なんです。怒られて肩を落とすのがお似合いです」
「お前、どっちの味方なんだ」
「麗しのレディに決まっているでしょう。何が悲しくてむさ苦しいおっさんの味方をしないといけないんですか」
とんでもない言いぐさだが、バートなりの励ましを感じる。
ここで儚くなって後悔を引きずるよりは、とわずかに前向きになる。
もう一度額の布を替えて、熱で汗ばんだ頬や顔の輪郭を拭う。手をそっと握って指先に軽く口づけた。
侍医が戻ってきたため場を譲り、バートと見守る。
エリザベスにとっても、クラークやバートにとっても長い夜は明ける気配を見せない。