16 赤い花
目に飛び込んできたのは赤い花だった。こんな花は身につけていなかったはずなのにと、エリザベスは胸の焼けるような熱さの中で見当違いなことを思っていた。
咳き込むたびに、赤い花が増えていく。
ああ、これは――自分の血かと納得してからくずおれた。
支度を終えた時には、まるで引き立てられる罪人かと見間違うような顔色だった。
長く喪の黒を着ていたせいで、薄灰色の衣装もエリザベスの目にはまぶしく感じられる。生地は花模様を織り込んだ光沢のあるもので、光をうければそこまで地味にはならない。
首元と手首は雪のようなレースで覆われている。光る宝石は付けたくなかったから、首の覆われたこれを選んだ。
ただ、このままでは地味すぎるといつもよりは見栄え良く髪の毛を結ってもらう。同様に化粧も華やかに。
花を模した髪飾りを挿して、エリザベスは迎えを待った。
「失礼する。皆様方をお連れする役を言いつかりました」
短い口上の後で扉をくぐったのは、騎士団長のクラークだった。
きゅっと手に持った扇子を握りしめて、声の主を認めエリザベスは目を見張る。
もっさりとした髪の毛は整えられ、もじゃもじゃだった髭はきれいにそられていた。
団服なのだろうか、くたびれた様子のない服を着こなして、クラークが立っている。
「ま、あ……どなたかと。見違えました」
「あ、いや。宰相閣下からいい加減身綺麗にしろと、注意を受けまして」
背後でひっそりバートは述懐する。あれは注意なんて生やさしいものではなかった。
眼光鋭く、自分よりもはるかに大きな熊親父をねめつけて説教を喰らわせていた。身綺麗にしろ、も勿論だったが。
『いい加減身を固めよ。そなたの代で家を終わらせるつもりか』
かねてからの懸案だったのだろう、ここぞとばかりに言いつのる宰相閣下の前に、熊親父は実に情けない顔を晒していた。
説教を受けるおっさんの図というのももの悲しいが、ここは黙って控えるべきとバートは気配も消すように努めた。
下手に注意を引けば、自分にもお説教が飛び火しかねない。
「婚姻は私一人ではできませぬゆえ」
「そんなことは分かりきっておる。貴族令嬢が全滅ならば贅沢は言わぬ、健康な娘であればよいではないか」
「いえ、私の顔に怯えられては……」
「顔。そうだ。なんだそのなりは。王城をならず者が闊歩しているかと思ったぞ。人相は変えられぬなら、せめて清潔感くらい気を配れ」
最後は雷を落とされて、夜会の前にクラークも変身を余儀なくされた次第だ。
顔をさらせば、傷がいっそう目立つ。
大の男も黙らせる、こんな自分がたおやかな女性の住まう離宮に現れるのは、場違い以外なにものでもない。廊下を歩いているだけで、侍従や侍女が壁に張り付いたり慌てて元来た道に引き返す始末だ。
さぞ、カデルの女性達にも怯えられることだろう。
予想はエリザベスによって覆された。じっとクラークの顔を見つめるエリザベスに、怯えはない。
「ウォーレン卿のお顔を初めてしっかりと拝見したように思います」
「人相が悪いでしょう」
「いいえ。……控えの間までご案内いただけるのでしたよね?」
ぎくしゃくと腕を差し出せば、そっと手を添えられた。ちらりと見下ろせば結い上げた髪に薄紅色の髪飾りが挿されている。
一瞥して凶器になり得ないかと確認する。感嘆して賞賛する心とともに、猜疑も捨てきれないのに自嘲する。
クラークは苦いものを飲み下して、側室達の待つ部屋へとエリザベスを誘った。
ものものしい護衛に付き添われ、一行は王城の控えの間へと落ち着いた。
ハーストの貴族がそろってから、カデルの人間は広間に入る手はずになっている。
無用な軋轢を避けるためだろう。
控えの間で、夜会の付き添い役となる男性が引き合わされている。姫君達の母親は、さえない表情を見せていた。
若く華やかな容貌の元側室達は、子供を産んでも十分に魅力的だった。その相手が、とエリザベスは失礼にならない程度に観察する。物腰は優雅で、いかにも歴史のある貴族らしい。が、覇気がないというか経済的にも潤沢とは言いかねる様子なのが察せられる。
口止めされていたため元側室達にも、今夜のこと、これからのことは知らせていない。
華やかな夜会が終われば、彼女達は姫と共に王都を離れていくのだ。光が強ければ影は濃い。今夜が盛大であればあるほど、終わった後の寂寥は堪えるだろう。
エリザベスは実家から持ってきた扇子を開いて、その影で嘆息した。
王子の母である元側室には、ハースト国王の叔父にあたる男性が付き添い役だ。物馴れた雰囲気を漂わせる公は、群がる輩もものともしないだろう。
そしてエリザベス自身には。
「遅くなって申し訳ない。この老いぼれでご不満でしょうが、こらえてくだされ」
見知った相手に、エリザベスは詰めていた呼吸が再び楽になったような気がした。
ハーストの宰相はすっと部屋全体に視線を走らせてから、人好きのする笑みを浮かべた。
「いいえ、光栄です」
衣装を軽くつまんで膝を折り、礼をする。
――とりあえずは丁重に遇されるらしい。この身にも使い道があると踏んだのか、そうでないのか。
最強の盾になりそうな宰相は、ゆったりと腕を差し出した。
「時間です」
広間ではハーストの国王夫妻を迎えるために、招待された貴族たちは起立していた。
その中をしずしずと歩いていく。表情は王妃時代に培った。敵地の真ん中であっても堂々と。胸をはって頭を上げてと心がけてエリザベスは前を見据えた。
王族に近い位置で歩みを止める。国王夫妻の座とは段差と護衛の騎士達で明確に区分されている。
エリザベスはその場に立って、国王夫妻を待った。
張りのある声で宣言がされて、国王夫妻が姿を見せた。礼を取りながらエリザベスは勝者と敗者の差を思い知る。
カデルを刺激しないようにとの配慮から、あからさまな戦勝とは言わない。ただ戦の終結とハーストとカデルの友好を願ってと口上がなされる。乾杯の後で夜会が始まった。
国王夫妻と選ばれた数組が踊ってから、歓談と踊りと音楽が座を華やかな色に染めていった。カデルの元側室たちも、未来の夫と踊っている。困惑と諦めが華のような顔には似合わない。
王子の母親はがっちりと包囲されているように見受けられ、その網をくぐるのは難しそうだ。
「すみませぬな。踊りはさすがに……」
「お気になさらず。わたくしも不調法ですので」
エリザベスは宰相の心遣いをおもんぱかる。踊る心境ではないと察してくれて、あえて踊らないようにしてくれている。
最初の付き添い役と踊らないのだから、申込みも断りやすい。
ただ宰相もいつまでもゆっくりとはしていられなかった。
外交、内政とこんな夜会は重要な意味合いを持つ。情報が集まり顔合わせをして駆け引きをしていく。他国からの招待客も多いだろう。宰相は体がいくつあっても足りないほどに、声がかかった。
席を離れる宰相を見送って、エリザベスは目立たない位置の椅子に腰を下ろした。
目の前のよくできた群像劇のような光景を見つめ続ける。
冷ややかな視線、思わせぶりな嘲笑などは無視すればいい。敵国の王妃を笑いたいのならそうすればいい。
気にすれば負けになる。控え目に、でもつまらなさそうな顔はせずにとエリザベスはぴんと背筋を張り続けた。
「お飲み物はいかがでしょうか」
人の多さで広間は熱気を帯び、喉が渇いたと思っていたところに絶妙の間で給仕が飲み物を勧めてきた。盆には数種類の飲み物がのっているらしい。迷っていれば、給仕がひとつひとつを説明してくれる。
「これはなんでしょう」
「ハーストの火酒になります」
瞬間クラークの顔が浮かんだ。今夜のさっぱりした顔ではない、獰猛な肉食獣を思わせるような、カデルにいた時分のクラークだ。
確かハーストの火酒が好物ではなかっただろうか。つい、エリザベスは火酒の杯に手を伸ばした。給仕は微笑んで引き下がる。
ハーストの火酒は舌を痺れさせて喉を焼く代物だった。
ずいぶんと強い。度数が並々ならぬ。全部は飲み下せなくてエリザベスはまだまだ残っている酒杯を持て余していた。
立ち上がり人に紛れて酒杯を手にゆったりと歩く。後ろにさりげなく護衛が付き従う。
見とがめる人は聞えよがしにエリザベスをあげつらう。けしてあからさまではない、ただし聞く人が聞けばというある意味高度な揶揄でもあった。
「カデルの王妃様はずいぶんと落ち着いていらっしゃる」
「衣装も控えめにされて……」
「まあ。ご側室も多いのですね。カデルの国王様は情熱家のようで」
「お子様のいらっしゃる方々だけがこちらに、でしたわね」
棘のような言葉が念入りに紅をひいた唇からこぼれる。
こんなことには慣れている、とエリザベスはやり過ごした。カデルの王城にあっても子供のいなかったエリザベスへの視線はこんな感じだった。
側室は夫であった国王陛下の好みで、かわいらしく華やかで、明るい髪色をしている。
お堅い風体の自分とは違っていたのは承知していた。
飲み残しの酒杯を側を通りすがりの給仕に下げてもらって、エリザベスはまた目立たない場所に移動しようとした。
緊張からか頭痛と胸から腹部が痛むような心持ちがしている。人の少ないところで休みたいが姿を消しては問題だろうと我慢しているうちに、症状はどんどんひどくなる。
これは尋常ではない。エリザベスは広間で醜態をさらすのだけは、と気力を振り絞って手近の扉から滑り出た。廊下の壁に寄りかかりたいのをこらえて、広間から遠ざかる。
いよいよというところで、手が偶然に触れた取っ手にかかり、鍵のかかっていない部屋へとよろめくように入り込んだ。
せりあがる何かに口に手を当てれば、ごぼりと逆流する感触を覚えた。
適当な器にと焦っても間に合わない。エリザベスの手の中に生暖かいものが零れ落ちる。
「え?」
――赤いもの。夜会の前に食べた物の中に赤いものはあっただろうか。夜会で口にすることは難しいだろうからと、離宮であらかじめ軽食を用意してもらって胃に入れていた。
考える間もなく胃の腑から胸が熱くなり、また口の中に溢れてきた。
体を曲げ咳きこむ。赤い花がエリザベスの眼前に咲いていく。
衣装の地紋の花がエリザベスの血で浮き上がって見えたのだと気付いた時には遅く。もう立っていられなかった。
クラークは国王陛下の背後で広間を見守りながら、エリザベスの動向も捕捉していた。
宰相閣下が席を外してからは、緊張を凛とした雰囲気にかえて、エリザベスは端然と座っていた。踊りの誘いらしきものを、やんわりと断り続けている。
座がだいぶ崩れた夜会も半ば、エリザベスが酒杯を手に人の間をすり抜けたのも気付いていた。色を抑えているのに、華やかに装うご婦人の中でかえって目立っている。
歩みも優雅で流れるように人波をさけていく。
様子がおかしいと思ったのは、歩調をやや乱しながら広間からまろび出た時点だ。
目線だけで騎士二人に後をついていくようにと促す。
警備は厳重にしていても、カデルにはいい感情を持たない者がいて当然だ。
頃合いを見て連れ戻すかしないとと考えているクラークは、先ほど付いていかせた騎士が慌てた様子で広間へと戻ってきて、副官のバートに何か耳打ちするのを不穏な思いで視界の端に捉えた。
バートがはじかれたようにクラークに合図を送る。
背後から腰をかがめて、歓談から席に戻ったばかりの国王陛下に断りを入れた。
「陛下、申し訳ございません。しばし、御前を離れます」
「なにか不具合でも?」
「確認してまいります」
素早く会話を終えてバートと護衛騎士のもとへと歩みをすすめる。
「どうした」
「親父殿、レディが」
ぐっと体の中心が冷え込んだ。
「どうしたのだ」
「血を吐いて倒れたそうです」
「医者を呼べ。周囲に人を近づけるな。私もいく」
大股で歩きながら、無用な詮索を避けるために必死に平静を装う。
貴族用の控室の一つに入れば、そこには血を吐いて倒れるエリザベスがいた。
浅く早い呼吸をしていて、時折それが乱れている。
「レディ、しっかりしろ」
病かあるいは。浮かぶ恐ろしい考えに心臓をわしづかみにされる。
抱き起せば衣装の胸に血が飛び散っていて、口の端も赤い筋が見えた。鮮やかな赤は胃ではなく胸からと思われた。
「何を口にした、答えろ」
クラークが耳元で呼びかけると苦しそうに閉じられていた瞼がうっすらと開かれた。
喉に手をあてて、絞り出すように声を出す。
「火……酒を、すこ、し。苦かっ、た」
「っ医者はまだか。あと水をよこせ、早くしろ。レディ、飲んだものを吐け」
「どく……? なら、この、まま……」
最後まで聞かずにクラークはエリザベスをうつぶせるようにしてから、口に指をつっこんだ。喉奥を押して吐き出させようとする。
エリザベスは涙を浮かべながら、震える手でクラークを止めようとした。
クラークは構わずにぐいぐいと指を突っ込み続ける。ぐうっとくぐもる声とともに、エリザベスが嘔吐した。血が混じったそれにバートも、騎士の一人もなすすべがない。
そのうちに水がクラークの手元に届けられた。
「エリザベス、水を飲んで吐け」
苦しい息の下でエリザベスがひどくゆっくりと首を振り、抗う。
クラークが表情をなくす。無言で水を口に含んで上向かせたエリザベスの唇を割って流しいれた。何度か繰り返して、また指を突っ込む。
吐けば、また水を含ませてとしているうちに、医者が到着した。
「これは……」
「火酒になにか混じっていた可能性がある」
吐いたものの一部を器に移して、医者が難しい顔で睨み付ける。匂いを嗅いで指の先につけて舌でも確認した。
「定かではないですが、毒でしょう。効き目の時間や症状からの解毒剤を準備いたします」
手にした袋からとりあえずの薬をクラークに手渡した。
先ほどと同じように、クラークから口移しで薬がエリザベスに与えられた。
「死ぬな、エリザベス。――リズッ」
エリザベスは、必死の形相のクラークが覗き込んでいるのにも気付かずに、暗黒へと意識を手放した。