桃とイエンタラスー夫人
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朝日を浴びる桜を、後にする。
桃は一度振り返って、木とマリスに手を振った。
彼はまだそこに残り、絵を描くのだという。
少なくなっていたマリスの食料を見て、ハレは多くの保存食を分けた。
好きなだけここで描くといい、と。
どうせあと半日で、すぐに次の町だ。
またそこで、買い出しに行けばいいだけのこと。
だが。
次の町には、イエンタラスー夫人の屋敷がある。
初めて会う彼女のことを思うと、桃は胸が高鳴るばかり。
母の、厳しい躾の数々を思い出す。
『そんなことでは、夫人に会えませんよ』
ごくり、と桃は唾を飲み込んだ。
昼過ぎ。
町に入り、そして──大きな屋敷の前に立った。
すぐに従者が飛び出して来て、彼らを中へと案内する。
美しい庭だ。
日々手入れされ、緑も花も輝いている。
扉の中で、女性が待っていた。
随分年を召しているが、ゆるやかな立ち姿には、威厳さえある。
そして。
ハレに。
これまで桃が見た中で、一番美しい挨拶をするのだ。
桃は、母のものが、一番美しいとずっと思っていた。
しかし、彼女のそれは、どんな絵よりも美しい一瞬の静止を見せたのだ。
これが。
この人が──イエンタラスー夫人。
母の恩人にして、桃の心のよりどころのひとつ。
ハレといくらかの話を交わしている間、桃はずっと彼女を見ていた。
その視線が。
桃で、止まった。
刹那。
その瞳が、見る間に涙をたたえてゆく。
「私は、早速部屋にでも入らせていただきましょう」
そんな夫人を、ハレは優しく置き去りにした。
コーも、彼に連れ去られてしまう。
残ったのは。
自分と、夫人。
ええと、ええと。
「初めてお目にかかります……イエンタラスー夫人。桃と申します」
一番美しいご挨拶が──出来ただろうか。
※
短い時間だが、桃は夫人との時間を与えられた。
案内された応接室では──心臓が止まるかと思った。
母がいたからだ。
反射的に、桃は居住まいを正してしまう。
母の厳しい目に見られながら、夫人と話をしなければならないというのは、とてもとても緊張することなのだ。
血もつながっていない母の絵を飾るほど、夫人は母のことを思っている。
そういう意味では、桃はまだ誰にも思われていなかった。
道場で、たくさんの人に可愛がられて育ったが、中身のない偶像のようにもてはやされていたに過ぎない。
まだ、それだけの魅力ある人間になっていないのだ。
「すぐに、あなたがモモだと分かりましたよ……あの一族の血は、よほど強く出るのでしょうね」
夫人は、優しい目の中に困った色を浮かべる。
どきっと、した。
母に似ていないことは、自分でもよく分かっている。
いま夫人が言っているのは──父のことなのだ。
「でも、そうやって座っている姿は、ウメによく似ているわ。とても美しいわね」
優雅に褒められて、桃は思わず顔を赤らめてしまった。
母が、夫人のところに初めてお世話になった年を、もう桃は越えている。
その頃の母にさえ、まだ自分は到底及んでいない気がして、恥ずかしくてしょうがないのだ。
そんな時だった。
ノッカーが鳴った。
「あら、もうおいでになったのかしら」
夫人が慌てたように動きだそうとする。
ハレと正式な対面があると聞いていたので、彼が来たのだろうか。
桃も、席を空けようと立ち上がりかけた。
だが。
「クージェリアントゥワスです」
扉の向こうから、若い男の声。
瞬間の、夫人の困った表情を、桃は見てしまった。
「呼んでおりませんよ」
ため息混じりの声。
「いいではないですか」
強引に、扉は──開いてしまった。
※
誰、だろう。
入って来た若い男──クージェリアントゥワスは、髪をとても美しく整えていた。
若さ特有の傲慢さを、まだ完全には消し切れていないが、その衣装や仕草には優雅さが漂っている。
いかにも、貴族の子息らしい男だ。
そこまで考えて、はっと桃は理解した。
かなり前の手紙で、夫人が養子を迎えたと書いてあった。
それが、この男のことなのだろうか。
夫人の義理の息子。
彼の視線を感じながら、桃はすっと一歩下がった。
そして、夫人にしたように挨拶をするのだ。
視線を再びクージェに戻した時。
彼は、本当に興味深そうに、しげしげと彼女を見ている。
「モモ……本当に短い名前なのだな。ウメという名前も、聞いた時には驚いたが」
いきなり、面と向かって名前のことを言われた。
「クージェリアントゥワス」
その不躾さに、夫人のたしなめる声が飛ぶが、聞いてもいない。
「しかし、うん……悪くない」
顔の造作に身体つきまで、じっくり見られている気がして、桃は困惑した。
この人は、一体何を言いたいのだろうか、と。
「正式に認められていない子とは言え、卿の血が入っていることは間違いようのない事実のようだし……」
さーっと、桃の中で血が下がった。
正式に認められていない子──そう、この男は口にしたのだ。
父のことを、はっきりと口に出しているのだ。
その上。
「うん、母上……気に入ったよ。この娘なら、私の妻にしてもいい」
いけしゃあしゃあと、桃に向かってこう言い放ったのである。
瞬間。
桃の頭の中心に、冷たい一本の金属が走った。
冷たい冷たいそれは。
怒り。
「全身全霊を賭けてお断り致します」
まっすぐに男の目を見て、桃は微笑んだ。
笑っていない──瞳で。