定兼
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桜の木の側で、野宿をすることになった。
リリューは、野営の準備を始めたが、火を焚くのはためらわれた。
木の周辺少しを除いて、見事な草原だったからだ。
「今日は火はいいよ」
そうハレに言われた。
それは──暗くても構わないということ。
次の領主の町まで、約半日。
夜になるのを厭わず歩けば、夜中には到着出来るが、ハレはそれを選ばなかった。
「もう五日ほど、ここで絵を描いています」
日暮れ寸前の、残りの太陽。
その明るさで夕食をとりながら、マリスが語り始める。
テルが通り、オリフレアが通り、彼らを見送りながら絵を描き続けたという。
そして、テルは彼に奇跡を見せたのだ。
コーとハレが、今日見せたように。
それが、あのテルの絵になったのだろう
夕食を終える頃には、あたりはすっかり暗くなる。
太陽の代わりに月が昇る。
満月を過ぎたばかりの、まだまだ肥えた月だ。
そんな月の下、モモが木に愛しそうに触れている。
自分の命の源流が、その木にあるのだ。
彼女の血が、懐かしいと感じているのかもしれない。
「リリュールーセンタス……」
自分の名が呼ばれ、少し意外に思った。
ハレだった。
「桜に触れておくといい」
「私は……」
リリューは、かすかな戸惑いを覚えた。
自分の中に、日本人の血はない。
こんな自分が触れたところで、何が起きるというのだろう。
だが。
無理に否定するのも、本当はそのことにこだわっているというようなものだ。
リリューは、立ち上がった。
モモが場所を開けてくれたので。
木に。
触れてみた。
※
若い。
若い女が──桜の木の向こう側から、こちらを見ていた。
あっ。
リリューの意識が、大きく揺さぶられる。
覚えている。
自分を助けた女。
とても若い、母の姿だ。
花が、耳の中で唸るように巻く。
そんな母に良く似た、見知らぬ男が次に現れる。
強い、強い男だと分かる。
父とは違う、母にも引けを取らない、強い男。
また男だ。
少しずつ衣装や髪型の雰囲気を変えながら、次々と男が現れて行く。
熱かった。
そう、左の腰が。
嗚呼。
嗚呼、そうか。
これは、お前の記憶か。
お前を受け継いできた、人たちの姿か。
リリューは、腰から刀を鞘ごと引き抜いた。
母の父、そのまた父。
あるいは親戚か師匠か、はたまた見ず知らず人の手を渡ったか。
サダカネという刀の魂が、出会った人間たちの記憶。
血は受け継がなかったが、ちゃんと魂は受け継いでいる自分を、打ちのめされるほど思い知る。
母は、この中の全ての人間に、きっとリリューを誇ってくれる。
そして。
この中に、いつか自分も入るのだ。
誰かに、この刀を渡した時に。
たくさんの男たちの最後の最後に、一人の男の後ろ姿が、見えた。
呼ぶのだ。
この男の名を。
心のままに。
「定兼……」
振り返る途中で止まった男の唇の端が──微かに上がった気がした。
※
『定兼は、夢には出ない』
いつだったか、母が言った。
この刀は、いつも現にいるのだと。
さっき、リリューが見たものも──だから、夢ではないのだ。
月の下、青白く幽玄に姿を変えた桜が、自分を見下ろしている。
昼間とはまったく違う、死にとても近いと思わせる姿。
「キクの……刀だ」
マリスが、茫然とそれを口にした。
彼は、剣士ではない。
だが、絵描きだ。
その瞳には、母の刀の美しさの全ては焼き付いていたに違いない。
「いまは……私の刀です」
リリューは、はっきりとそう言葉にし、少しだけれども笑えた。
腰に、ゆっくりと刀を戻す。
ぴたりと、定兼はそこへおさまる。
最初から、そこが居場所であったかのように。
現で、定兼に出会えた。
そして。
彼を呼べた。
彼の本質の名で。
「怖いね……でも、綺麗だね」
コーが、定兼を見ている。
本質の音を教えてくれたのは、この少女だった。
魂の形の音。
母が、定兼が、桜が、コーが──さかのぼれば、この旅に自分を選んだハレが。
全てが、この瞬間にリリューを連れてきた。
来るべくして、自分はここに来たのだ。
「やはり、リリュールーセンタスに従者は似合わないな」
ハレが、少し残念そうに笑った。
「この旅が終わったら……自分の旅をするといい」
惜しいと思った。
この男が、上に立たないのは。
リリューは、前にそう思ったのだ。
だが、この男もまた、自分の旅をしたいと思っているのだろう。
あの大きな一本の桜の姿のように── 一人でも強く生きていく男になるのだ。




