遠い心の平静
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エンチェルクは、夜の庭に出ていた。
都よりずっと涼しい夜の空気に、軽く身を震わす。
少し、頭を冷やしたかったのだ。
夜の外など、もはやエンチェルクにとっては恐れる対象ではなくなっていた。
ウメと共に、生活をしていたおかげだ。
己の身を己で守れるようになってからは特に、夜は彼女を不安にさせたりしなかった。
たとえ、夜空に黒い月がかかっていても。
「残念だよ……」
そんな中、人の声が聞こえてきて、エンチェルクはどきりとした。
夫人の屋敷の庭なので、怪しい者とは思っていないが、まさか人がいるとは思わなかったのだ。
「せっかく、君の姉を見られると思ったのに」
しかし、声は上から降ってきていた。
どうやら、二階のバルコニーで何か話しているらしい。
『姉』という言葉に、反射的にエンチェルクは息をひそめた。
「……どうでもいいことだよ」
もう一つの声は、静かなものだった。
だが。
その答えの内容は、エンチェルクの心臓を強く掴んだ。
「どうでもいいって……君は馬で飛んで来たじゃないか」
顔は見えないが、やはり片方はこの家の後継ぎで、片方はテイタッドレック卿の子息なのだろう。
しばらくの、沈黙があった。
「……飛んで来たかったのは、父さ。僕は、その代理で来たようなものだからね」
エンチェルクの予感は──当たっていた。
やはり、子息にとってモモの存在は複雑なのだ。
ただ、父親に強く言われて来ただけ。
テイタッドレック卿は、深く深くウメを愛している。
その思いは、息子までも戸惑わせているのだろう。
「お互い───ら、大変だな」
この家の後継ぎが、何か言った。
これから、夫人の屋敷に到着するだろうモモのことを考えていたエンチェルクは。
よく、聞いていなかった。
※
翌日。
エンチェルクは、旅立たねばならなかった。
イエンタラスー夫人の屋敷は、テルの旅の通り道に過ぎず、この後来るであろうモモをどれだけ心配したところで、自分にはどうしようもないのだ。
出発を見送る夫人の後ろに、二人の男がいた。
どちらがテイタッドレック卿の息子であるかなど、一目で分かった。
あの一族らしい姿を、見事に受け継いでいたからだ。
奥方を除いたテイタッドレックの血を引くものはみな、背が高かった。
その血は、綺麗にモモにも出ている。
ああ。
とどまりたい気持ちをひきはがし、エンチェルクは重い足取りで歩き始めた。
一度、二度と振り返る。
「エンチェルク……」
名を呼ばれて、彼女はどきっとした。
呼んだのは──テルだ。
「俺について来たくないなら、残ってもいいぞ」
ガツン!
それは。
激痛をともなうほどの一撃だった。
たった一言シンプルに、彼女の揺れる心の天秤を蹴りつけたのだ。
ここで。
ここで自分が戻ったら、もはや誰にも顔向けなど出来なくなる。
モモにさえ、恥ずかしくて決して会えないだろう。
それほど、恥ずべきことの間で、心が揺れていたのだ。
テルが、不快に思うのも当然だ。
彼が太陽の息子でなくとも、不快に思うだろう。
草原の花を見て以来、エンチェルクはすっかりおかしくなっていた。
懐かしさと衝撃と不安が全部いっしょくたになって、彼女を決して平静でいさせてくれなかったのだ。
「申し訳……ありません」
唇を、噛む。
ヤイクの視線が──痛かった。




