あの日あの時のこと
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「時間はないけれど、少しでもウメの話を聞かせてちょうだい」
エンチェルクは、落ち着かなかった。
領主である夫人自らが、彼女を歓待したからだ。
だが、そんな落ち着かない思いも──応接室へ通されてぶっ飛んだ。
あ。
壁にかけられた絵のひとつに。
ウメが、いた。
神々しささえ感じる微笑みをたたえた、彼女の絵。
この絵を、エンチェルクは知っている。
見たことがある。
猛烈な速度で巻き戻されてゆく記憶。
エンチェルクは、この絵を気に入ったのだ。
マリスの描いた絵。
それを、彼女はなけなしのお金で買おうとした。
だが、マリスは売らなかったのだ。
失敗作だと言って。
あの時の絵が。
何故、ここにあるのか。
「あぁ……この絵? 随分長いことかかって、テイタッドレック卿に頼み込んで譲っていただいたのよ」
なかなか、手放してくれなくて。
嬉しそうに、ふふふと夫人は笑う。
エンチェルクは──それどころではなかった。
テイタッドレック卿と言っても、いまは代替わりしているはずだ。
今の領主は。
あ。
あ。
ああ!
つながった。
テイタッドレック卿──アルテンは、都から去る直前にマリスに出会ったではないか。
一緒に、荷馬車に乗ったではないか。
あの時!
あの時、アルテンはマリスに依頼したのだ。
ウメの絵、を。
マリスは、数多くのウメやモモの絵を描いた。
あの絵の数々は、一体どこへ消えたのか。
その答えが。
ここにあった。
※
飛脚が始まる日、マリスを見た。
彼が、何かを送ろうと思っても、不思議にも思ってなくて。
飛脚は──絵を運んでいたのだ。
アルテンの元へ。
衝撃の大きさに、エンチェルクはなかなか立ち直ることが出来なかった。
うまい受け答えも出来ないまま、あっという間に短い時間は過ぎてしまい、彼女は応接室を出なければならなくなった。
壁に手をついて、足を止める。
うまく、歩ける気がしない。
アルテンが、どれほどウメを愛していたのか。
別れてしまえる程度の愛。
心のどこかで、エンチェルクはそう思っていた気がする。
モモが、父親を恋しがる姿を見てはいたが、会わない方がいいと思っていた。
きっと傷つく、と。
なのに、なのに。
「大丈夫か?」
声をかけられ、はっと顔を上げた。
ビッテだ。
後ろには、テルとヤイクもいる。
イエンタラスー夫人が、時間がないと言ったのは、テルとの正式な対面があったからか。
「だ……大丈夫で……す」
答える唇が震えていて、自分で驚いてしまった。
「ビッテ……ここは安全だから、エンチェルクを部屋まで送ってやれ」
「はい」
足を止め、道を開けるビッテ。
応接室へ行く彼らもまた──見てしまうのだ。
あのウメの肖像画を。
テルはともかく、ヤイクがあれを見たら。
いまの自分が、何故大丈夫ではないのか、きっとバレてしまう。
きっと、また蔑まれるだろう。
だが。
いま、エンチェルクの心にあるのは、ウメというより、そのウメをとてつもなく深く愛した男のこと。
アルテンは帰り、エンチェルクは残る。
あの時、自分が持っていたウメの側にいられるという特権意識など──何とちっぽけな感情だったのか。