桃の事情
∞
「桃……いらっしゃい」
母に呼ばれて、彼女はどきっとした。
また、何か説教をされるような不躾な真似を自分がしたのだろうかと、慌てて我が身を振り返ったのだ。
しかし、幸いなことに心当たりはなかった。
家に入ると、母とエンチェルクの他に、もう一人いることが分かる。
誰だろう。
よく見ると、小さい子供だった。
長い髪を編んで、首に巻きつけているその姿は、テルを彷彿とさせる。
「こんにちは、モモ」
だが、テルよりも遥かに落ち着いた声に呼びかけられ、彼女ははっとした。
ぴしっと一度、背筋を伸ばし、それから深々と腰を折る。
ここは、道場でもないし、相手はテルでもない。
更に、母とエンチェルクが自分を見ているのだ。
他のどんな環境より、怖いことこの上なしだった。
「ああ、堅苦しいことはいいよ。今日はお願いがあって来たんだ」
子供の頃に、桃は彼──ハレと会っているらしい。
だが、余りに小さい時の思い出過ぎて、よく覚えていない。
テルの双子の兄だ。
「お願いと言うのはね……」
母は、次の言葉を黙って聞いていた。
エンチェルクは、少し心配そうな眼差しで聞いていた。
桃は。
桃は、心臓が飛び跳ねんばかりに驚いた。
ハレが、桃を側仕えとして旅に連れて行きたい、というのだ。
これこそ。
これこそ、彼女の望んでいた、旅立ちの大義名分。
だが。
桃は、それをテルに頼んでいたのだ。
彼自身の旅に同行させて欲しい、と。
「テルからの推挙でね……」
その言葉に、ほっとすると同時に疑問も覚えた。
何でわざわざ、兄弟に推薦したのだろうか、と。
「料理、裁縫、礼法……そして、剣術。それらの力を、私に貸して欲しい」
母は、黙っている。
微動だにしない。
娘の答えを、ただ待っているようにも思えた。
「私でよければ喜んで」
桃は、その申し出に飛び付いた。
どうして、断れようか。
※
「リリューにいさんも、ハレイルーシュリクス殿下のお付きに?」
伯母づてで、桃はその情報を仕入れた。
正確には、誘われただけで、まだ返答をしていないという。
リリューにいさんが一緒だといいなあ。
彼が一緒なことほど、心強いことはないと思った。
桃にとって、ハレはこれまで無縁に近い相手で。
テルよりも、もっともっと気を遣わなければならないだろう。
だが、リリューがいるとなると、話が変わる。
彼は、桃の自慢の従兄だ。
血はつながっていないとは言え、あんなにも頼りがいのある男と親戚であるという事実は、桃の誇りでもあった。
子供の頃から、リリューは少し淋しげで。
桃は、いつも気になっていた。
リリューが、声を出して笑っているところを見たことがない。
いつも静かに、目だけで笑うのだ。
だが、菊やダイと一緒にいる時は、リリューは違った。
他の誰よりも心を許していて、穏やかな顔つきになる。
桃は、三人が一緒にいるのを見ているのが好きだった。
「さて、桃」
従兄に思考を馳せていた桃は、目の前に母が立っているのに気づいて、はっとした。
「殿下の旅に同行するということを踏まえて、もう一度料理・裁縫・礼法のおさらいをしましょう」
イエンタラスー夫人にも会うのですから。
厳しい声に、桃は背筋を冷やした。
だが、夫人に会うと思うと、心も弾む。
手紙でしか知らない、母の恩人。
いまだに、桃や母に手紙や贈り物を送ってくれる優しい人だ。
祖母がいるとしたら、きっとあんな感じなのだろう。
そして。
イエンタラスー夫人の隣が。
テイタッドレック卿の領土。
会いに行ける、のかな?
桃の心は──切なく揺れ動くのだった。