桜と夫人
∠
「ああ! 殿下!」
マリスが、はっと我に返って彼に呼びかける。
テルは、ようやく木の幹から手を離した。
一瞬。
桜の森にいる気分だった。
ここは、魔法領域か。
イデアメリトスの自分に幻影を見せるほど、この木の力は強いということだろう。
だが、あれはきっと母も見たことのある景色。
母の国にある景色。
ただ幸いなことに、テルはその世界に引きずられることはなかった。
美しくはあったが、自分のいるべき国はここなのだと疑う余地なかったのだ。
テルには、一瞬の迷いもなかった。
「殿下、いま! いま!」
同じ景色を、マリスも見たのだろう。
マリスは、涙を浮かべんばかりに感動の声をあげた。
「先回りして、捧櫛の神殿へ向かおうと思っていたのです。そこで殿下をお待ちしようと思っていたのです」
そんな彼が、テルに追いつかれてしまった理由は。
「ですが、この花が余りに美しく、描かずにはいられなかったのです」
画家としての、病に襲われたのだ。
「よかった……私は、ここにいて本当によかった……描きましょう、殿下を。世界一艶やかな太陽の子として!」
感激したままマリスは、苦笑を浮かべずにいられない言葉を口にした。
艶やか、と。
「美しくある必要はない」
テルは、すげなく言い置いて桜の木から離れ、従者たちの元へと戻ろうとした。
そこには。
微妙な空気が流れている。
「……?」
テルは、三人を見た。
つらそうなエンチェルク。
不機嫌なヤイク。
そして。
そんなエンチェルクをかばうように立っている──ビッテ。
※
「どうかしたのか?」
自分が、母の国の木と逢瀬をしている間に、従者の間に何が起きたのか。
「何でもありませんよ」
答えは、ヤイク。
自分の表情に気づいたように、それをほどいてゆく。
「……大丈夫です」
エンチェルクは、視線をテルから避けた。
「ちょっとしたケンカのようです」
間に入っていたビッテが、そんな単純な言葉で済ませようとする。
ケンカ?
ヤイクとエンチェルクが?
この二人の間に、そんな言葉は存在しない。
それくらい、テルも分かっている。
ケンカというよりも、溝が深くなった、という方が正しいのだろう。
テルを中心に、それぞれ的確な仕事は出来てはいるが、いまなお横のつながりには色々と問題がある。
「ウメの国にかぶれてるんですよ」
テルの横を歩きながら、ヤイクは彼の質問に応えた。
後ろを歩くエンチェルクにも、聞こえているかもしれないくらいの音。
もし聞こえているとしたならば、それはヤイクが──聞かせている、ということ。
「あの花の向こうに、その国があると勘違いしたんでしょう」
声は、苦い音だった。
いつものような、ニヤつく声ではない。
あながち。
その考えは、間違いではない。
あの魔法領域の強さならば、こちら側から魔法干渉すれば、もしかしたら向こう側とやらに行けるのかもしれないのだ。
逆に言えば。
母もウメもキクも、帰ろうと思えば帰れる可能性があるということ。
父が、母を手放すとは思いがたいが。
「そんな馬鹿馬鹿しい話で、彼女の腕を掴んだんですか?」
前を行くビッテが、怪訝だらけの言葉を紡ぐ。
ヤイクの言葉が聞こえたのは、こちらも同じだったようだ。
「そう……そんな馬鹿馬鹿しい話に、取り憑かれてるのさ」
彼は、肩をそびやかした。
そうか。
テルは、分かった。
エンチェルクを、止めたのか。
平民の彼女ごときが、何にかぶれていようが、旅の邪魔にならなければ放っておきそうな男が。
彼女を──向こう側に行かせたくなかったのだ。
※
イエンタラスー夫人。
それが、桜の木の向こうにいる領主の名前。
「まあまあ、お待ちしておりました。よくぞ御無事で」
旅の折り返し地点となる彼女の屋敷に、テルは招き入れられた。
年老いてはいるが、夫人はとても上品だった。
子供がいないため、10年ほど前に親戚から養子を取ったという。
そろそろ、世代交代の時期なのだろう。
「母から、くれぐれも夫人によろしくと……」
これまでの領主と違うのは、母がとてもお世話になった人だということ。
あの桜の草原に降り立った母たち日本人を、彼女が一時的に庇護してくれたのだ。
「あの時は……太陽妃になられる御方だとは、思いもしませんでしたわ」
複雑な笑みは、やむを得ないだろう。
いまでさえ、母は規格外なのだ。
あの当時、誰が母を見て太陽妃になると想像できようか。
「あの……それで……」
夫人が、きょろきょろと誰かを探すような、落ち着かない素振りを見せる。
テルの向こうにいるエンチェルクを見た後、首を傾げるばかり。
「ウメの娘を、探しているのではありませんか?」
ヤイクが、そっとテルに耳打ちした。
ああ。
そういえば、夫人はウメと深い親交があったのか。
飛脚で既に、娘が行くと伝えられているのだろう。
「モモなら、兄の一行です。私より後に出発しましたので、そのうち到着するでしょう」
言うと、夫人はがっかりしたようだった。
挨拶が終わり、使用人たちによって部屋に案内されるテルから遅れる者が一人。
エンチェルクだ。
彼女は、夫人の前に深々と挨拶をしている。
「お久しゅうございます。以前、テイタッドレック卿の御屋敷より、しばらくこちらにお世話になっておりました」
昔雇っていた使用人のことなど、領主が覚えていなくても当たり前だろう。
だが。
「ああ、ああ……あなたは、ウメの。ウメの側仕えね!」
ウメという人間が、どれほど夫人にとって大きかったのか──彼女は使用人だったにも関わらず、深い歓迎を受けているようだった。




