布告
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ホックスが大きなあくびをしたのを、リリューは見ていた。
コーの歌のせいだろう。
桃が一度駆け寄った後、明らかに彼女の歌は変わった。
さっきまでが、夜の祭だとするならば、今度は祭の終わった後というところだろう。
疲労が、少しずつ眠りに形を変えて押し寄せてきて、まどろむ瞬間の何と気持ちのよいことか。
桃まで、あくびをかみ殺している。
そんなコーの姿を、ハレは満足そうに見つめていた。
彼女が歌えば歌うほど、月の人間はそれを知って追い掛けてくるだろうに。
分かっていながらも、彼は歌わせようとするのだ。
リリューの視線に気づいたのか、ハレはこちらを見る。
ついに日は落ち、夕焼けのみを残す薄暗くなっていく世界で、彼は金褐色の瞳を細めている。
「これから、なお一層世話をかける」
歌にまぎれる、男の声。
見た目は十歳ほど。
しかし、ハレの瞳は男のものだった。
ハレの言葉も、男のものだった。
元々、穏やかで大人びていたが、旅を続けるほどにそれがなお一層強くなってゆく。
彼が太陽になれば、どれほどの良い時代が来るだろうかと、一瞬リリューの頭の中に翻る。
ハレは望んでいないが、彼はそれを惜しいと思いかけたのだ。
決してリリューは、自分が賢者になりたいとは思っていない。
テルが相応しくないと、思っているわけではない。
だが、この男を惜しいと思った。
ここで初めて、太陽にならないと言った彼を惜しんだのだ。
共に旅をする。
それは、世界を知ることでもあるが、同時に旅の仲間の本質を知ることでもあった。
ハレイルーシュリクス。
「命に代えても、お守りしますよ」
彼は、この男にそれだけの価値があると見定めたのである。
「もはや、魔法も使えない身だ。お前の命がなければ、私の命もない」
イデアメリトスの御子は、そう言って笑うのだ。
リリューが死ぬ時は、自分も死ぬ時だ、と。
男たちの心を知らぬ、優しい優しい歌が──星の出始めた空を渡って行くのだった。
※
そして。
その日は、やってくるのだ。
とてもとても長い髪の子供と、白い髪の歌う少女の話は、到底隠しておけるものではなかった。
「やっと見つけたぜ……」
男は── 一人で現れた。
野営中の炎の側で、リリューは既にサダカネを抜く寸前で間合いを計っていた。
二十半ばくらいか。
ざんばらに伸ばした髪が、まだらに白い。
その白さが、リリューを警戒させるのだ。
そして、腰にはあの者たちと同じ鋳造の剣をさげていた。
間違いなく、月側の人間だ。
男は、まっすぐに一人を見ている。
桃の後ろの、コーを。
コーは。
あの白い髪の少女は、茫然と男を見ていた。
恐怖でも怒りでもなく、魂がなくなったように茫然と。
桃は、そんなコーを守るように、腰に手をかけている。
しかし。
男の視線は、その少女からひきはがされた。
別の男が、口を開いたからである。
「私は、ハレイルーシュリクス=イデアメリトス=ラットフル18です。我らの旅路に、何の御用ですか?」
いつもの穏やかさではない。
芯の太い、強い声。
彼は、堂々と己の名を──いや、名という形をした血の全てを、名乗ったのだ。
相手が誰かを知っていて、である。
これは。
宣戦布告。
彼らの旅路に邪魔をするならば、必ず打ち倒せという男の強い意思。
リリューは、それを汲んだ。
だから。
サダカネを。
抜いた。
※
「お外が嫌いな方の坊ちゃんか……」
男の目は、まっすぐにハレに向けられた。
憎々しく、吐き捨てるような声。
リリューが、既に刀を抜いたというのに、まったく動じている様子はない。
続いてモモも抜刀したが、彼女の方に視線ひとつ動かすこともなかった。
「一人で来たからには……貴殿も自分の力に自信があるのでしょう」
猛毒の言葉など、ハレの皮膚一枚焼くことさえない。
既に、己は魔法が使えない身でありながら、それを決して匂わせなかった。
余りの動じなさにか、男は忌々しげに舌打ちをする。
あと一歩でも近づこうものなら、リリューは斬りかかるつもりだった。
既に、ハレの許可は宣戦布告という形で出ている。
「お前を嬲り殺して、バカ女を連れ帰れば、誰もオレに逆らうものなど出ないな……」
だから。
男の口が、その三文字を唇だけで綴った次の瞬間。
一歩より先に。
その口が──大きく開いた。
音は。
なかった。
だが、波は来た。
聞こえない音の波。
リリューは、踏み出そうとしたのだ。
一歩を自分の足で、飛び越えようとしたのだ。
だが。
音の波の方が、速かった。
刀を持ったまま、リリューは動けなくなった。
全身が石のように固まり、心以外が全て封じられたのだ。
そして、動けなかったのはリリューだけではなかった。
視界の端に映る全てが、止まったのだ。
モモも、ホックスも──ハレも。
「ハッハッハッ! ざまぁねぇ!」
男は、大きな嘲りの笑いを発した。
ああ、そうか、そうだったか。
動けないまま、リリューは理解した。
トーは、歌しか歌わない。
だが、その歌に沢山の秘密は隠されていたではないか。
人の心を揺さぶる歌。
そう──彼らの魔法は音、なのだ。