ヤイクとエンチェルク
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エンチェルクは、ヤイクに引っ張り出された。
本来、保存食などの買い出しは、彼女の仕事だ。
逆に言えば、ヤイクが来る必要はない。
だが、彼はこれまでも必ず買い出しには、自発的に動いていた。
こうして歩き、品物を見、人の話を聞き、相場を知り──己の血肉にしているのだ。
子供の頃のヤイクは、町で仕事をするのを嫌がっていた。
貴族の息子として、許せないものがあったのだろう。
だが、そんな彼を。
ウメが変えた。
その延長線上に、あの時の彼がいるのだろうか。
あの時。
そう。
イデアメリトスの傍系の女性との戦いの時。
エンチェルクは、まったく彼のことなどあてにしていなかった。
しかし、彼がいなければ、いまごろエンチェルクは無事では済まなかっただろう。
ヤイクは。
己の損得しか考えていない男だ。
結果的にこそ、自分を救う結果にはなったが、それを目的に動いたわけではない。
そんなことは、エンチェルクにだって分かっている。
だが、彼がただの貴族の口だけ坊ちゃんだったら。
エンチェルクは、いまこうして立っていないのだ。
ウメが。
間接的に、彼女が自分を救ってくれたのか。
そう、エンチェルクには思えた。
それならば。
そうだというのならば。
自分は、この男に言えるのではないか。
この男の向こう側にいるウメに。
感謝の──言葉を。
※
「ありがとう……ございました」
干し肉を目の前に、エンチェルクは小さく呟いた。
相手は貴族だ。
しかも、あのヤイクだ。
面と向かって言ったところで、まともに受け答えするはずがない。
これまで、本当にずっと必要以下の言葉しか、かわしてこなかったのだから。
誰に言ったとも知れない言葉で、聞き流されればそれでいい。
そう、思った。
「親父……この辺に短剣を売ってる店はないか?」
案の定。
聞き流された。
隣に立っている男に、聞こえる程度の小さい呟き。
分かっていた。
彼は、貴族なのだから。
「短剣かい? 肉切りナイフじゃなくて?」
「そう、短剣……一本しか持ってなかったのが、なくなってしまってな」
だが──貴族なのに、市井の人間とは当たり前のように言葉を交わし、交渉事もする。
エンチェルクは、その矛盾に引っかかった。
「物騒なことでもあったのかい?」
「いや、大したことじゃない。獣が暴れただけだ」
軽やかに嘘をつき、人の悪そうな笑みを浮かべる。
「そりゃ災難だったな……短剣なら、この先の鍛冶屋にあると思うぜ」
「行ってみるよ、ありがとさん」
何の肩書もない相手にさえ。
感謝の言葉を口にする貴族。
もしかして。
エンチェルクは、ある答えにたどりついてしまった。
もしかして、自分はヤイクという男を勘違いしているのではないか、と。
彼は、市民と会話をする。
ということは。
もしかして、ヤイクが話をしない相手は──エンチェルクだけなのか。
干し肉を買いながら、彼女は誰にも聞こえないほどのため息をついた。
そこまで、嫌われているのか、と。
※
「鍛冶屋に寄るぞ」
買い出しに、ある程度めどがついた後、ヤイクはそう言った。
エンチェルクは、黙ってついていくだけだ。
彼の言葉は、ただの結論で。
それに彼女が答えようが答えまいが、何も変わらない。
「親父、短剣をくれ」
鍛冶屋の奥の煤で汚れた男に、ヤイクは声を投げる。
「は、はい、ただいま」
同じように汚れた娘が、父の脇をすり抜けて店の入り口に出てきた。
エンチェルクは、彼女に目を奪われた。
あちこちに火傷を負った手。
その手は──職人の手をしていたのだ。
「鍛冶屋……この家は、娘が継ぐのか?」
ヤイクも、それに気づいたのだろう。
短剣を数本出してくる娘の頭を飛び越えて、親父に問いかけた。
「……何か文句あっか?」
愛想の悪い親父の一言。
「ない。いい短剣だな……娘が作ったものをもらおう」
ヤイクは、あっさりと言葉を返し、娘に笑いかけた。
娘は。
一瞬、呆けた後──泣きそうになった。
その表情を、何とかぐっとこらえて。
「こ、これです……」
一本の短剣を差し出した。
「この短剣の出来次第で、私の生き死にが決まるかもしれない。いい物を作れよ」
ヤイクは、金を払って受け取ると、それを腰に差した。
「はい」
娘は、とても嬉しそうだった。
きっと、これまでとても苦労してきたのだろう。
それが、ヤイクの言葉で少し報われたのか。
エンチェルクは。
そんな娘が。
少しだけ──うらやましいと思った。