ヤイクとビッテ
∠
死体は、見つからなかった。
林の奥は、深い谷になっていて、それ以上の捜索は出来なかったのだ。
死んだ、と思いたいな。
それは、テルの正直な気持ちだった。
女は、テルを憎んでいた。
彼を、イデアメリトスと認めていなかった。
それは、長い間純血を保ち続けていた一族ゆえの、歪んだ感情だったのかもしれない。
同時に、ひっかかってもいたのだ。
『おのれ、半分め! 半分め! 泥棒女の息子め!』
激痛のままわめきちらした、女の言葉。
母のことを、『泥棒女』と叫んだ。
ということは。
母の登場によって、父を奪われたということか。
父の妃候補だったのかもしれない。
次の町に着き次第、飛脚を走らせなければ。
テルは、ため息をついた。
幸い。
ビッテのわき腹の火傷は、大したことではなく。
テルが母から持たされた薬で、応急処置は出来たし、旅も問題なく続けられそうだった。
「太陽妃の薬ですか」
ヤイクは、興味深そうに覗きこんでくる。
「太陽妃は、農業の本だけでなく、植物や薬の本もお書きになった方がよろしいと思いますが」
その言葉に、テルは笑ってしまった。
太陽妃を捕まえて、本を書けなどと勧めるのは、この世広しと言えども、ヤイクくらいだろう。
母の同胞を除いては。
「あいにく、母の身はひとつしかなくてな……そして、母はとてもゆっくりな人だ」
テルの苦笑まじりの答えに、ヤイクはニヤっと笑う。
「何も、全てを太陽妃がなさる必要はないのです。妃の知識を吸収できる側仕えを、置けばよいではありませんか」
ああ。
そうだな。
ヤイクも──そうだったのだ。
※
ようやく次の町に到着したテルたちは、本当に疲れ果てていた。
度重なる月の襲撃。
そのとどめが、イデアメリトスの反逆者だったのだ。
少し、ゆっくりするか。
三人を見回しながら、テルはそう思った。
あいにく、領主のいる町ではなかったために、身の安全は確保されない。
しかし、さすがに月の者も、町の中ではいままでのように襲っては来ないだろう。
少なくとも、町の人間を敵に回す形では、だ。
そこが、彼らの不思議なところで。
周囲を巻き込んでも良いと思っているのならば、一般人を人質に取ってテルを脅せばいいのだ。
お前が死ななければ、次々殺して行くぞと言えばいい。
彼らは、太陽を心底憎みながらも、自分たちが太陽を根絶やしにした後のことも考えている。
この国は、とても大きい。
太陽の地位にとって変わった時── 一番怖いのは、領主や民衆が敵になることだ。
下手をすれば、各地の民衆や領主が蜂起して、この土地を奪い合う世界になりかねない。
月の人間は、それを力技でねじ伏せるほどの、魔法の力をもはや持ってはいないのだろう。
長い年月は、彼らの血を薄めてしまったのか。
「食料の買い出しに行って来ます。エンチェルクを借りますよ」
ヤイクが、宿のテルに一声かけた。
自分の身を、エンチェルクに守らせる気だろう。
それに。
食料品を見る目は、彼女の方が遥かに上なのだ。
テルにはビッテがいるので、安全には問題ないと考えたのだろう。
ヤイクが出て行くと、彼はビッテを部屋へ招き入れた。
話相手が欲しかったのだ。
「わき腹は大丈夫か?」
「はい、殿下の御薬のおかげです」
その後、少しビッテは言い淀んだ。
そして。
「先日は、私の修行不足で、殿下の御命を危険にさらしてしまいました……申し訳ありませんでした」
至極真面目に。
彼は、ずっとそれを悔いていたのだ。
修行不足。
相手は、イデアメリトスだったんだがな。
笑ってしまいそうになるが、笑うとビッテを傷つけそうで、テルは何とも言えない表情になってしまったのだった。
※
「スエルランダルバ卿は……意気地のない男とばかり思っていました」
そう言えば。
こうして、ゆっくり二人で話す機会というものは、ほとんどなかった気がする。
テルは、ビッテと話しながらそう考えていた。
そんな彼の口から出るのは、スエルランダルバ卿という男。
ヤイクの名である。
彼は、既に貴族だ。
だが、野心ある貴族だった。
旅をすることで見識を広める──勿論、その意図もあるだろう。
その先に、『賢者』という職があるかもしれない。
それもまた、彼の野心の計算に入っているのは間違いなかった。
「しかし、卿は彼女の命を救いましたよ……ね」
ビッテは、思い出しているのだ。
あの、反逆者との戦いのことを。
ああ、そうか。
彼もまた、目覚めていたのだ。
あの時には。
ヤイクが、エンチェルクを救った。
その表現が、正しいのかどうかは、テルには分からない。
女の意識が、全てエンチェルクに注がれて、武術の腕のないヤイクに千載一遇のチャンスが回ってきた。
それだけだったのかも。
しかし、結果的にはエンチェルクは救われたのだ。
その間、ビッテは起き上がることもままならず、どれほど悔しい思いをしたことだろうか。
テルでも、そうだったろう。
起きろ、動け、立て、と自分をどれほど叱咤するだろうか。
戦える人間が、戦うべき場で、戦えなかったのだ。
悔しくないはずがない。
「ビッテルアンダルーソン……」
テルは、武の従者の名を呼んだ。
「ヤイクルーリルヒは、無駄なことはしない男だ。その男が戦う気を見せない時は……お前なら勝てると信頼しているということだ」
ビッテは、「はい」とそれを噛みしめるように答える。
これは、少々大げさな表現だと、テルは分かっていた。
だが、いまのビッテに必要なのは、次の戦いへ新たに気持ちを切り替えることである。
あまり、彼がヤイクに一目置くようになっては、本当は危険なのだが。
何故なら。
ヤイクは、そんなビッテの純粋な心理さえ──うまく利用できる男なのだから。