回れ右
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リリューは、桃と少女を見ていた。
少女は、まるで赤子のようだった。
赤子のように無意味な音を発しながら、桃に何かを語りかけている。
驚いていた桃は、はっとその表情を引き締めた。
そして、まっすぐに少女を見るのだ。
その手を。
自分自身の胸に当てる。
「も・も」
目を細めて微笑みながら、彼女は自分の名を告げた。
「……?」
きょとんと、少女は目を見開く。
「も・も」
もう一度、彼女は繰り返す。
ゆっくりと、自分の唇を見せるように。
「も……も?」
その唇の動きを、少女はなぞる。
何か分かっていないが、ただ繰り返す音。
桃は、こくんと頷いた。
「もも」
そして──音をつなげる。
瞬間。
少女の身体が、びくっと衝撃を受けたように震えた。
「もも!」
その細い腕が。
桃に伸ばされる。
桃の身体を、何かを確かめるように触れる。
いや、彼女は桃の形を確かめようとしたように、リリューには見えた。
この娘の中で、何かがつながったのか。
「ちょ……やめ……くすぐったい……」
だが、少女は余りに無邪気に、容赦なく桃に触れるため、その手は桃の衣服の下まで滑りこむ。
男たちは。
黙って回れ右をした。
※
少女は、他の三人の男にも同じ洗礼をした。
彼女が、ハレに飛びかかった時は、さすがのリリューもひやっとしたが、やはり彼の形を確認するように触れるだけで。
「ハレイルーシュリクス!」
ハレは、苦笑しながらその洗礼を受けていた。
長い名前も、少女にとっては何の障害でもなかったようだ。
あれだけの歌を覚えられるのだ。
元々、頭がおかしいわけではないのだろう。
逆に短縮系の名前の方が、理解出来なかった。
『リリュー』という呼び名では、彼女はそれが彼の名前であると分からなかったのである。
乾いた大地が、水を一瞬で吸い取るように、彼女は皆の名前をあっという間に手に入れたのだ。
「リリュールーセンタス!」
彼女に名前を呼ばれると、名前がただの音の羅列ではないのだと感じさせられる。
逆に。
その名前の中に、自分の本質が混じっている気さえするのだ。
この少女にとっての言葉とは──ただの音ではない。
それは、リリューにも分かった。
「ホックスタンディーセム!」
ホックスだけは、彼女の無邪気さと洗礼は、非常に迷惑そうだったが。
こんなに、言葉の物覚えの早い娘に。
どれほどのことをすれば、歌以外を教えずにいられるのか。
そちらの方が、非常に困難に思えた。
少なくとも、隔離していなければならないはずだ。
人の言葉など、聞こえないほどの場所に、たった一人。
たとえ、彼女の世話をするものがいたとしても、絶対に話しかけてはならない。
そして、歌だけを聞かせれば──こんな娘が出来上がるのだろうか。
何故、そんな真似を。
思い当たる節は。
たったひとつ。
『トー』




