無体
∴
ハレは、目を閉じていた。
美しすぎる歌声が、空気を震わせるからだ。
その声を、より多く拾うためには、視覚というものが余計に思えたのである。
頬を震わせる、美しい絹糸の声。
目を閉じていても、彼女の歌声が空気を輝かせているのが分かる。
数日前。
雨の中、ハレは遠くで弱弱しく光る何かを見た。
彼にとっては、夜は夜ではない。
少なくとも、生きているものの多い空間では、とても明るいのだ。
あの夜も、雨は降っていたが、木々は光を放っていた。
そんな木々の間で、植物とは違う光が地面に落ちているのを見つけたのだ。
死にかけている、何か。
ハレは、そう判断した。
最初は、死期の近い動物かと思った。
しかし、戻って来たリリューの腕には、白い髪の少女が抱かれていたのだ。
トー。
そう、ハレは思った。
いや、ここにはいない彼に呼びかけていた。
トーの同胞が、死にかけている。
トーは、一人月側を離れた者。
この少女は、いまもなお月側の者。
味方に追われているようだが、だからといって、イデアメリトスを憎む教育を受けていないわけでもない。
意識が戻ったら、自分が襲われる可能性もあった。
だが。
助けたいと思ったのだ。
そのやせ細った、憐れな姿を見たら。
月の側に戻るくらいなら、行き倒れた方がましだと──そう覚悟を決めた彼女を生き延びさせたいと思った。
そして、おそらくきっと。
歌を、歌うだろう。
桃の歌が、悪いというわけではない。
だが、トーの歌が格別過ぎて、ハレの心を強く捕えていたのだ。
想像通り。
彼女の歌もまた──格別だった。
※
歌は──同時に、彼女の身体を輝かせ始めた。
再び目を開けたハレが見たものは、唇から指先まで光が流れてゆく様だった。
滞っていた血を、一気に身体に巡らせるように、少女は歌で自分の生気を取り戻しているのだ。
それが、更に歌の力を強める。
唇はしっかりと開き、吸い込まれる息と吐き出される息が増え、遠く遠くまで歌が響くのだ。
その強い歌は、彼女をより力強く輝かせる。
素晴らしい、正の連鎖。
そして。
彼女が、歌を続けるごとに。
黒く残った髪の一部が、白く変わってゆく。
ゆっくりと、筆で白い絵の具が塗られるように、根本から毛先へと白い筋が流れるのだ。
その白が、毛先へと到達した頃。
歌は。
終わっていた。
遠く遠くを見ていた瞳の焦点は、きちんと合っている。
その目が、一度自身の両手を拳にする様を見て。
そして。
桃を見るのだ。
覚醒のきっかけを与えた桃を。
「あー……ぁぁ……うー?」
その唇から洩れた音は。
意味のない音の羅列。
刹那。
ハレの背筋に、ぞっと冷たいものが走った。
言葉には──知識が含まれていなかったのだ。
声が、出せないわけではない。
それは、さっきの素晴らしい歌で証明済みである。
だが、その声にはどこの国の言葉もなかった。
歌以外の。
歌以外の知恵を、この娘は与えられていないのだ。
何て、ことを。
ハレの胸に、悲しみと憤りの両方が強く渦巻いた。
何て、無体なことを。
彼女は。
ただの。
歌う人形だったのだ。