母と娘の「さようなら」
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桃は、旅に出た。
旅の間、エインはとてもいい相棒だった。
やはり、どうあってもうまく弟に頼ることは出来なかったが、それはもう体質としか思えない。
父と再会しても、やはりその体質は余り変えられず、それどころか屋敷の人間からお嬢様扱いされ、着飾らされ、落ち着かないことこの上なかった。
見た目は、明らかなるテイタッドレックの血が流れている自分だが、やはり自分は山本なのだと、よくよく思い知ったのだ。
これは、早々に逃げなければ。
そんな桃の心に気づいただろうエインに、強く引きとめられた。
帰らないで欲しいと。
そして。
「私の妻になってくれないか?」
誠実な、求婚を受けた。
トーの恋心を知ってから、桃は自分の鈍さにも気づき始めた。
そのおかげか、旅路の間でエインの心にもうっすらと気づくことが出来たのだ。
だから、思ったより驚かなかった。
「ありがとう、でも……やりたいことが多すぎて、あなたの隣に座れないの」
だが、桃にとってエインは素晴らしい相棒ではあっても、それより上に考えることは出来なかった。
もしかしたら、これから長い時間をかければ、そういう道もあったかもしれない。
しかし、彼女は決めてしまったのだ。
貪欲な道をひた走ると。
「あの母にして、この娘ありだな……」
それが、エインの最後の捨て台詞だった。
馬鹿だなあ。
苦く切ないエインの後ろ姿を見送りながら、桃は少しだけ微笑んでしまった。
彼の言ったそれは。
褒め言葉ではないか。
さあ。
イエンタラスー夫人の屋敷へ寄り道をしてから。
都へ帰ろう。
※
「……!」
桃を見て、一瞬脅えた目をしたのは、クージェだ。
彼にとって、夕日との旅はすっかりトラウマになっているのか、桃の顔を見ただけでそれが思い出されてしまうようだ。
「ごきげんよう」
にっこりと挨拶をすると、冷や汗をかきながらも向こうも丁寧に迎え入れてくれた。
そんな微妙な空気も、クージェが次に言った言葉で全てが吹き飛ぶ。
昨日から、イエンタラスー夫人が床から起きられなくなったという。
「今朝、テイタッドレック卿のところへ早馬を出したところだ」
慌てて枕もとへ駆けつけると、力のない静かな笑みで桃の到来を喜んでくれた。
横たわっている彼女は、とてもとても小さく見える。
「ウメは元気にしているかしら?」
この世界で、母をとても愛してくれた人。
その人の手をぎゅっと握って、桃は笑顔で「はい、おかげさまで」と答えた。
老いが、夫人を連れ去ろうとしている。
涼しい中季地帯の風が、少しずつ彼女を向こう側へ引き離していくのだ。
眠ったり、起きたり。
そんな夢と現を行き来する夫人の側に、桃は座っていた。
「こういう時は、何て言うのだったかしらね……ウメの国の言葉で」
ふと起きた彼女は、何かを思い出したように呟く。
「こういう時とは?」
桃がよく分からずに首をかしげると、ふふと笑みをこぼした。
「大事な、お別れの言葉があるでしょう?」
瞬間。
ぐっと。
喉にせり上がるものを、桃は飲み下した。
心の中で、母が微笑んでいる。
その笑みを、桃は己に宿そうとした。
この瞬間だけ。
彼女は、夫人のために母になろうと思ったのだ。
「『さようなら』ですわ、イエンタラスー夫人」
唇よ、震えるな。
「ああ、そうそう……」
手を握る。
震えているのは、老いた夫人の手だ。
「サヨウナラね……ウメ」
「さようならです、イエンタラスー夫人」
翌朝──夫人は、目を開けなかった。