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決意

「そろそろ……父の元に帰ろうと思っている」


 桃の周辺で回り続ける人の心の流れが、またひとつくるくると弧を描く。


 エインだった。


 意見の合わないところもあった。


 だが、弟としてではなく、テイタッドレックの後継ぎとして、自分を支えてくれたのだと思った。


 最後まで、彼は自分を姉とは見てくれなかったようだが。


 本当は、学術都市の完成まで、都にいてほしかった。


 だが、この大がかりな事業は、すぐに完成するようなものではない。


 まず、中心部が作られてスタートし、外側へ拡充させていく予定で、最終的には十年ほどかかるのではないかと言われている。


 町を作るということは、そういうことなのだ。


「そう……寂しくなるね」


 みんな、それぞれの道を進み始めている。


 弟も、都での生活で、随分と変わった気がした。


 きっと、父の跡を継いでよい領主になるだろう。


「それで、ひとつ提案があるんだが……」


 そんな寂しさなど、エインは気にもしないように話を続ける。


 別れとはうって変わった強い口調に、桃は引っ張られるように彼を見上げた。


「一緒に……父のところまで旅をしないか?」


 意外な、提案だった。


 だが、そのまっすぐな瞳は、本気だった。


「元々、前の旅で父と会っていなければ、改めてうちに来るつもりだっただろう? それなら、私が戻るのと一緒に会いに来ればいい」


 エインは、父の名をぷらんと桃の前にぶらさげる。


 彼女の心を震わす、父への憧れ。


 それを、彼はちゃんと知っているのだ。


 前に、エインに叱られたことを思い出す。


 テイタッドレックに甘えない母と桃。


 それは、男の側としてはつらいことなのだと告げられた。


 会いに行くことが、父への甘えとなるのならば。


 一度くらい、甘えることが父への孝行になるのかもしれない。


「そうね……それもいいかもね」


 彼女も、これまで何度か旅立った。


 そしてまた、新しい旅を始めることは出来るではないか。


 桃は、この愛に溢れる中で──贅沢な寂しさを覚えるほど自由なのだから。



 ※



 夜。


 窓辺に気配がした。


 眠っていた桃は、ぱちりと目を覚まし身を起こす。


 悪意のない静かな気で──ただ素直に、誰だろうと思ったのだ。


 バルコニーの窓に近づくと、硝子の向こうに白い髪が見えた。


 夜に浮かび上がる、ほの白さ。


「トーおじさま……」


 伯父の屋敷の二階だ。


 ここに、何の障害もなく登って来られるのは、彼ら父娘くらいしかいないだろう。


「旅に出ると聞いた」


 桃に会いに来てくれたのだと、その言葉で伝わってくる。


「うん……ちょっと、とうさまのところまで行ってくるの」


 窓を開け、彼と向かい合う。


 トーを前にすると、いつも自分が小さな娘であるような錯覚を覚える。


 大きくて温かい、夜の鳥。


 その翼に、どれほど自分は温められてきただろう。


「今夜は、この窓辺で歌うことを許してくれるか?」


 何故、今更そんな許しが必要なのか。


 トーは、どこででも好きな歌を歌ってきたというのに。


「トーおじさまの歌、大好きよ」


 笑いかけると、彼もまた微笑んでくれた。


 今度は、トーの手で窓が閉められる。


 そうしなければ、ならないように。


 どこか、儀式的な動作だった。


 視線だけで、桃にベッドに戻るように伝えられ、後ろ髪をひかれながら掛布の中にもぐりこむ。


 どうして戻れと言われたのか、後で分かった。


 トーは。


 歌を歌った。


 それは、恋の歌だった。


 これまで、彼が一度も歌ったことのない、彼自身のための歌。


 ひとつ歌い終わって──トーは去って行った。



 ※



 朝食の席。


「じれったい歌でしたわね」


 ロジアは、やや辛辣に。


「素敵な歌でしたね」


 テテラは、優しげに微笑んで。


「……眠いな」


 伯母は、首をこきこきと左右に動かしながら。


「……ふわぁ」


 レチはあくびをかみ殺し。


「……」


 リリューは、ただ真顔で座り。


「……」


 エインは、不機嫌そうに水を飲み。


「……」


 母は、いつも通りの静かさで。


 夜明け前に仕事に出て行った伯父を除いても、これだけの大所帯と化した食事の席で、みながみな違う反応で座っている。


「まあ、あの歌のおかげで、私はジロウと二人きりの夜を過ごせましたので、よしとしますわ」


 ちらりと、ロジアの視線が伯母に飛ぶ。


 同室のはずの伯母は、一体夜にどこへ行ったのか。


「あんな歌を聞かせられては、つがいの身の一人寝はつらくて当然ですわね……をほほ」


 そんな疑問に、淫靡な闇色のカーテンをかけようとする彼女の言葉に、二つの咳払いが飛んだ。


 エインと母だ。


 この中では、一番常識的な二人かもしれない。


「まあ、ロジアったら」


 テテラは、困ったように微笑むし、レチは何故か赤くなるし、伯母は苦笑の限りを尽くしている。


 昨夜のトーの歌は、あちこちに飛び火したようだ。


「あの白いのは、なかなか大物のように見えてよ。お買い得ではないかしら?」


 まったく自重しないロジアに、またしても二つの咳払いが飛んで来る。


 あー、うー。


 桃にとって、朝っぱらから随分と疲れる食事の席となったのだった。



 ※



 トーおじさまのことは。


 桃は、複雑だった。


 これまで、トーのことを恋愛対象として見たことはなかった。


 深い深い彼の愛の中に浸かっていた彼女は、その水の中に恋が混じっていることにまったく気付かなかったのだ。


 ないと思っていたものが、突然あると言われても、桃はどうしたらいいのか分からない。


 決して嫌いになれない相手からの、優しい恋の告白。


 急いでいる気配は、微塵もなかった。


 ただ、一度。


 ただ一度だけ、彼女に伝えたいという思いの詰まった歌。


 旅支度をしながら、桃はため息をついた。


 年を取らないトー。


 歌い、跳び、旅をする男。


 そんな男と、一緒に歩いて行く道があるだろうか。


 桃の頭の中で、泡のように何度も生まれては弾ける心。


 頼って、しまうだろうなあ。


 旅のマントを目の前で広げながら、意識はあらぬことを考える。


 トーは、大きいから。


 とてもとても大きいから。


 桃を甘やかしてもなお、広い彼の心にくっついて、頼りきってしまいそうな自分が容易に想像出来た。


 うっすらと、自分の行く道は見えてきた。


 その道を、己の意思で歩いて行くのだと。


 最後にいつも必要なのは──覚悟なのだ。


 多くの道がある中で、自分の道を選び取り極める覚悟。


 旅立ちの前に。


 桃は、それを固める必要があった。


 そうでなければ、すぐにささやかな風で揺らいでしまう気がした。


 彼女は、支度の途中で立ち上がり。


 部屋を出た。


 会うべき人がいたのだ。



 ※



「もう旅支度は終わったの?」


 桃が訪れたのは──母の部屋だった。


 母。


 いや、山本梅を前に、桃は深々と頭を下げた。


「今度の旅から戻りましたら……私を弟子入りさせていただけませんでしょうか」


 子供の頃から、母は母だった。


 勉強は教えられたが、それは決して度の過ぎたものではない。


 母の持つ知識の全てを、桃に継がせようという気はなかったのだろう。


 事実、当時の彼女も継ぐ気など、これっぽっちもなかった。


 遠い先のことなど何も考えられず、いまあるものをこの両手で掴むだけで精一杯だったのだ。


 ここにきてようやく、桃はじっくり腰を据えて、母の知識を学びたいと思った。


 学ぶために学ぶのではない。


 使うために学ぶのだ。


 旅で、多くのものを見た。


 それらの願いや希望を、叶える方法を模索するために、桃には知識が必要だと思ったのだ。


 国のため。


 それもある。


 しかし。


 ロジアがしようとした町のためでもなく、もっと小さなひとりひとりのためであれば、自分にも何か出来る気がしたのだ。


 そのための知識を、母から得たいと思った。


 そして──旅をするのだ。


 知識を、どう使うのが一番良いのか。


 それを知るために。


 学び、旅をし、そして作り出す。


 丈夫な身体と頭があれば、そのふたつを練り合わせることが出来るではないか。


 伯母は、旅に出た。


 母は、動かずに学んだ。


 そして。


 桃は。


 一つしかない身で、ふたつを併せた道を選んだのだ。


「私は、学術都市で暮らすことにします……いつでもいらっしゃい」


 そんな貪欲な桃の目に──山本梅は、挑戦的な瞳を向け返した。



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