幸福
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夜。
コーが、現れた。
新月になろうとする月を背に、ハレのバルコニーにやってきたのだ。
もうすぐ、新しい月が始まる。
「よく来たね、コー」
バルコニーに出ようとしたら──コーが中に飛び込んで来て、そしてハレを抱きしめた。
彼女の素早さと、線を軽く踏み越えてきた足と抱擁に、一瞬彼の思考は真っ白になる。
「桃がね……もういいって……もう大丈夫だって」
胸の中のコーは、嬉しそうで寂しそうで。
感情をもてあますように、ハレをぎゅうぎゅうに抱く。
驚きの動悸が、ようやく動きをゆっくりにしていく中、彼はその身を抱き返した。
「よかったね、コー」
モモは、彼女の存在を必要ないと思っているわけではないのだ。
彼女の優しさに、甘えなくても平気になったということ。
コーは短い間だが、モモに育てられた。
母にしか出来ないことを、若い彼女に懸命にしてもらったのだ。
だから、こんなにもコーはまっすぐ、愛を疑わない人間に育ったのである。
その点について、モモにいくら感謝してもしきれないだろう。
「うん、本当によかった……それでね、桃が言ってくれたの」
ぎゅうぎゅうに彼を抱く腕に力を込めながら、コーは顔を彼の胸に押し付ける。
「ハレイルーシュリクスのところに、行っておいでって……」
腕の中の女性が、少し体温を上げた。
こうして抱いていると、それがはっきりと伝わってくるのだ。
ハレの鼓動もまた、少し速度を上げる。
愛しい者に、こんなことを言われて、平静でいられるはずなどない。
それに。
彼女は、最初の一歩目から線を越えてきたではないか。
入ってはいけない、ハレの部屋。
その部屋に、自分から足を踏み入れてきたこと。
それが──コーの決意。
※
「もうすぐコー、友達を連れて山へ行くの」
少しの間、彼女は都を離れるという。
友達の話は、母から聞いていた。
尾長鷲のメスを二羽、安全なところまで引率していくこと。
彼女らしい、そして彼女にしか出来ないだろう仕事だ。
リリューの結婚式の時、ハレも武の賢者宅へと行ったが、その時彼女は、草むらに隠れていた山追の獣と何か語り合っていた。
キクの飼っている、珍しい生き物だ。
彼女は、この世の言葉という言葉──それは、決して人間のものだけにとどまらない言葉さえも、吸収しつつある。
「気をつけて、行っておいで」
彼女と、一緒に旅に出ることは、もはや叶わない。
だが、もう少しの辛抱でもあった。
学術都市が出来る。
そうすれば、ハレはもう宮殿に縛られる生活はなくなるのだ。
そして、その都市にはもう一つ作られるものがある。
父と母とテルの合意の元に作られるそれは。
捧歌の神殿。
別名──夜の神殿。
もはや、敵対する月の一族は滅んだ。
これから、夜や月の地位を緩やかに回復させていくつもりだった。
そこで、白い髪の父娘が歌うのだ。
「ありがとう、ハレイルーシュリクス……」
腕の中の彼女は、胸に頬ずりするように動く。
その顔を上へと持ち上げると、赤く色づいた頬と、揺らめく瞳があった。
とろけるような彼女の気が、ハレの胸を縛る。
彼女は、本当に動物のように素直だった。
まとう気配の全てが、彼に訴えかけているのだ。
「愛しているよ、コー」
白い髪に、口づける。
「恋しいの、ハレイルーシュリクス」
彼女の愛は、多くのためにある。
だが。
彼女の恋は、ハレのためだけにある。
これほどの──殺し文句がどこにあろうか。
※
翌朝、ハレが目を覚ました時にはもう、コーはいなかった。
また、飛んで行ってしまったのだろう。
枕元に落ちる一筋の白い髪を拾い上げ、そっと口づけた後に彼は身を起こした。
心の底から幸せな気だるい朝だが、ゆっくりと横になっていることは出来ない。
今朝は、予定が入っていた。
学術都市の打ち合わせに、ホックスが来ることになっていたのだ。
身支度や朝食を済ませ、隣の執務室に入る。
ノッカーが鳴り、側仕えがホックスの到来を告げた。
入って来た彼は。
「おはようございます、殿下」
まったくいつも通りの、静かな挨拶を投げかけてくる。
「あ、ああ……おはよう」
だが。
ハレの目は、そんなホックスの顔に注がれていた。
何というか。
ひどい有様だった。
右の頬は、相当強い力ではたかれたと思われ、手形の形に内出血をしているし、左の頬には四本のひっかき傷が、縦に走っていたのだ。
誰かと、取っ組み合いのケンカでもしたのだろうか。
だが、彼がそんなことをするとも思いがたく、黙ったままただじっとその顔を見ていると、きまりの悪そうな表情を浮かべながらも、手に持ってきた多くの資料をテーブルに置いた。
「この顔では……仕事に障りますか?」
さすがに視線に耐えられなくなったのか、ホックスが音をあげる。
「そうだね、気になるという意味では障るのかもしれない」
そんな彼の表情に、ふっと微笑んでしまった。
少なくとも、深刻なことではなさそうだ。
「……求婚の順序を間違っただけです」
その言葉の直後。
ハレの脳裏に、ある女性が思い浮かんだ。
親にも叩かれたことのないようなホックスを、初めてひっぱたいた彼女を。
「そうか……おめでとう」
こみ上げる強い笑いを我慢しつつ、ようやくハレはその一言を告げることに成功したのだった。