道場にて
#
何も、ない。
リリューは、長いことそこに立ちつくしていた。
道場だ。
彼は、夕方前には宮殿を出ることが出来たが、まっすぐ家には帰らなかった。
どうしても、見たいものがあって。
それが、この道場。
リリューの子どもの頃から、そこにあってしかるべき、存在感の大きな建物だった。
重厚で清廉で明るかった。
馬鹿みたいに突っ立って、そこにあった道場を、彼は思い出そうとした。
自分の記憶、母との記憶、伯母や従妹との記憶。
それらが、本当に多くしみついているその建物は、もうない。
「リリュー兄さん、おかえりなさい!」
門下生の少年が、木剣を肩にかけてくる。
今日の凱旋を見たと、彼は興奮ぎみに彼に訴えた。
少し遅れて、仕事が終わったのかウーゾが来る。
やはり彼も、木剣を抱えていた。
リリューが遠くをみやると、ぽつぽつと畑の間の道を、人影がこちらへと向かってくる。
夕方の、稽古の時間であるかのように。
いや。
まさに、稽古の時間だった。
「リリュー兄さん、久しぶりに稽古をお願いします!」
少年には、何の怪訝も戸惑いもない。
何もないそこで、木剣を当たり前のように構えるのだ。
みな、それぞれに。
いつもと同じ稽古の時のように。
素振りをしたり、打ち合いを始めたり。
ああ。
建物は、目には見えないけれども、何も変わってなどいない。
ここは、道場なのだ。
何も消えていない、薄れてなどいない。
母は、心が強くまっすぐになることを、最初に教えていたではないか。
その双葉が、茎となり、幹となり、広がったのだ。
「分かった、稽古をしよう」
長旅の疲れなど、もはやリリューにはない。
久しぶりの道場での稽古で、彼は存分に汗を流したのだった。
※
すっかり暗くなるまで、リリューは道場にいた。
最後の門下生が帰ってしまっても、そこにいたい気持ちに逆らえなかったのだ。
「リリュー兄さん」
そんな闇が多く混じる中、遠くから呼びかける声。
従妹だ。
迎えに来たのだろうかと、視線を向けると、彼女一人ではなかった。
というか。
あきらかに、分かりやすいシルエットが混じっていたのだ。
のっぽの二人と、ふくよかな一人。
さくさく歩く二人の後ろから、遠慮がちにあるく女性の姿。
身内の誰かに、ここにいることがバレたことについては、何の不思議もない。
だが、レチが来たことは不思議だった。
彼女が、来たいといったのだろうか。
「リリュー兄さん、おかえりなさい」
最初に近づいてくるモモは、穏やかに微笑んでいる。
この闇のせいだろうか。
随分と、雰囲気を違えた気がした。
彼女の母に似たと言えばいいのか──いや、しかし、まったく同じというわけではない。
昔のモモは、華やかだった。
明るい、朝のような色だった。
その朝の時間を過ぎてしまったような、そんな気配。
リリューが不在の間に、彼女を変えてしまうような大きな出来事があったのだろう。
「ただいま……」
「あんまり暗くなる前に、帰っておいでね。今日はみんなで食事しょうって待ってるから」
挨拶だけでよかったのか。
モモは、彼のゆっくりとした言葉の後、エインの腕を取った。
「じゃあ、後はよろしくお願いします」
そして。
レチを置いて、二人で帰り始めてしまうのだ。
エインの方は、少し戸惑っているようだが。
あっと。
声をかける暇もなく、足の長い二人はさくさくと離れていく。
声をかけそびれたのは、レチも同じようだった。
途方にくれた姿で、立ち尽くしている。
「今日帰った」
どう、彼女に呼びかけていいか分からず、何とも奇妙な言葉になる。
「それは分かってる、無事で本当に何より…」
それは──レチも同じようだった。
※
「ここが……道場だったの?」
何もない更地を見て、レチは言った。
とても、信じられないように。
「そう…そこが道場で、左の奥の方に伯母とモモの家があった」
まだ、瓦礫があったのなら信じてもらえたかもしれない。
「じゃあ、またここに新しい道場を建てるのかな」
それは、彼女の素朴な言葉だったのだろう。
だが、何故かリリューにはしっくりこなかった。
うまく言えないが、微妙な違和感があったのだ。
ここに新しい道場が在るということに、ではない。
母の道場に、自分がいることに、と言った方がいいのかもしれない。
母と自分の道が、分かたれたとは思っていない。
ただ。
母離れを──親離れをするべき時が近づいているのではないかと、遅ればせながらリリューはそう感じたのだ。
ここに、レチがいる。
家庭を築きたいと思った、柔らかくも頑なな女性。
彼女をこの手で抱きしめ守るためには、父と母につかまっていたこの手を、ついに離す時が来たのかもしれない。
そう、長いことリリューは彼らに掴まっていた。
4歳の頃から。
強くなり、一人で立っている顔をしながら、どこか彼らに指先を残していたところはあった。
愛に変わりはない。
だが、リリューの手は両親ではなく、まずこの女性を守るためになければならないのだ。
「新しい道場を…作ろうと思う」
彼は、慎重に唇を動かしてそう言った。
「ああ、そう……ここに新しいのが出来るのね」
レチには、うまく伝わっていないようだ。
「一緒に……来て欲しい」
もっと慎重に、唇を開いてみた。
「……何処に?」
彼女は──ちっとも分かっていないキョトンとした顔をしていた。
※
「私、あなたがいない時に、間違えてさらわれたことがあるの」
帰り道。
レチの語った言葉は、リリューの知らないことで、とても彼を驚かせた。
母やモモの話は届いていたが、彼女のことまでは届けられなかったからだ。
「その時、もしかしたら自分が死んでしまうんじゃないかと思って…山のように後悔したわ」
詳しい経緯を聞くより先に、レチはとつとつと言葉を続ける。
少しずつ昼の暑さを落ち着かせていく暗さの中、彼女の足にあわせてゆっくりと歩いた。
「ちゃんと、あなたに返事をしておけばよかったって」
夜は、イエンタラスー夫人の屋敷でのことを思い出させる。
彼女の姿が、だんだんシルエットに変わっていくのだ。
「あなたに……」
そんな影が多く彼女を隠していく中。
「あなたに……ちゃんと好きだって…言えばよかったって」
その、影の唇が切なげに動いた。
リリューは、驚かなかった。
驚きはしなかったが、じわ、じわじわと、胸の中に言葉がしみてゆく。
海綿が水を吸わずにはいられないように、彼の心にもレチがしみこんでゆくのだ。
レチが、足を止める。
自分の言った言葉を、彼がどう受け止めているのか見るためか、こちらの方へと顎を上げた。
リリューも足を止め、そんな彼女を見下ろす。
白くて柔らかい、見慣れぬ人。
その人に、右手を、差し出す。
戸惑う彼女の手を、ゆっくりと握った。
そして、リリューはレチの手を引いて歩くのだ。
「結婚しよう……」
歩きながら、改めて彼女にそう申し出る。
握った手が、びくっと震えたが、彼は離さなかった。
「……結婚、してください」
少し後方から、逆に結婚を申し込まれる。
リリューは、笑みを浮かべてしまった。
予想外すぎたのだ。
「喜んで、受けさせてもらう」
そして──ゆっくりと二人で一緒に、家へと帰った。




