恋の結末(後編)
∞
「……分からない」
それが──カラディの答えだった。
分かっていた。
いや、分かったのだ。
彼は、桃を通して自由という夢を見てしまったのだ。
それは、彼にとってどれほど眩しく素晴らしいものに見えただろう。
いっそ死んでしまえばいいと、憎しみに似た感情までわきあがらせるほど。
桃は、彼にとって人であって、人でなかった。
人では、なかったのだ。
自由の象徴。
彼と同じ、異国人の血をひいていながら、この国で誰よりも自由だった女の形をした何か。
はっ。
自分の吐き出した息は声にはならず、立ち上がるための腕に、ただ力を込める。
「カラディ……あなたはもう、自由なんて探さなくていいわ」
試さなくてもいい。
不安にならなくてもいい。
自らが、それを手放そうなんて思わない限り、もはや彼は自由なのだ。
立ちあがって、カラディを見る。
茫然と見上げる男を見る。
酒場の扉が開くのと、桃が次の言葉を言うのは、ほとんど同じだった。
「さようなら、カラディ」
生まれて初めての恋が、生まれて初めて枯れてゆく音が聞こえる。
二人分の食事の前に、一人で残されるといい。
それが、桃のささやかな仕返し。
振りかえると。
酒場の入口には、息を切らした弟が立っている。
一体、酒場を何軒探したのだろうか。
貴族の割に、根性のある弟だ。
「帰ろう」
いまは、エインの説教が聞きたかった。
優しい言葉は、何も欲しくなかった。
桃は、恋を失ったのだ。
※
「カラディ、明日、都を出て行くって」
夜の帰り道。
エインが説教を始めないものだから、桃は彼の事を口にしてみた。
あー、いたいなあ。
恋を失ったばかりだと、その人の名前を口にするのさえ、こんなに痛いのか。
昼間には、確かに懐の手紙には温かさがあったというのに、夜なので全ての温度が下がってしまいましたと言われているようだった。
「だから、会うのは今日でおしまい」
少しは、エインも安心しただろうか。
彼の嫌う男に、もう会わないと言ったのだから。
「……」
なのに、弟は黙っている。
黙って足を止めた。
何だろうと振りかえると。
「モモの……その決断を後悔はさせない」
暗い月夜の下で、まっすぐ立つ弟が多くの影に包まれたまま、力強く言う。
同じ一族として、一緒に背負ってくれるのだろうか。
こんな、拙い恋の終わりだというのに。
「大丈夫だよ。私の決断は、私がちゃんと責任を持つから」
ありがとね。
ぽんぽんと、エインの腕を軽く叩く。
さあ、帰ろう。
「……」
不機嫌な沈黙に変わったのが分かる。
「モモもモモの母も、テイタッドレックには頼らないんだな…男として恥の極みだ」
厳しい声に、桃はびっくりしてしまった。
自分だけでなく、母も引き合いに出されてしまったからだ。
「父は、ずっと恥じていた。モモの母を、自分の手で幸せに出来ない甲斐性のなさを、ずっとずっと恥じていた」
自分の恥でもあるかのように、エインはそれを苦しげに語る。
「だから、父上は自分の家名が人に何と言われても構わないから、モモが自分の子であることを好きなだけ語ってもいいと言ったのだ。父上は、たったひとつだけでも、モモに父親らしいことをしたかっただけなのに」
突然──別の説教が、始まってしまった。
※
父上を大好きなエインの胸の内。
それが、夜道で語られる。
「なのに、モモは死ぬまでテイタッドレックは名乗らないと言う……どうしてモモは、父上の気持ちが分からないんだ」
男には、男の理屈がある。
それが、たとえ女にとって取るに足りないことに見えたとしても。
彼らは、懸命に考え、そして女を幸せにしたいと思っているのだ。
「父上は、名乗って欲しいんだ…モモに。そして、父上は国中に自慢したいんだ……これがうちの大事な娘だって」
ここまで饒舌なエインは、初めてだった。
「もっと父上や私を頼れ……私はまだまだ未熟者だが、すぐに大人になるし、出来るだけ早く領主を継ぎたいと思っている」
近くの店から出てくる人の気配に、そこで一度言葉を止めたエインは歩き出した。
ちょっと呆けていた桃の腕を、掴んで引っ張りながら。
速足でついていかなければならない。
「私が、早く領主を継げば……父上は自由だ」
自由。
今日の桃は、その言葉に翻弄されている。
カラディにとって自由とは、誰からも束縛されないこと。
父にとっての自由とは、領主と言う肩書がなくなることか。
「隠居した父上が、何をするか想像出来るか?」
その言葉は、桃の頭の中に世界を構築していく。
余りに簡単で、想像する時間もいらない景色が思い浮かぶ。
「……!」
父は──都へ来る。
エインが領主を継いだら、母の側に来てくれる。
二人とも、老いていくだろうが、そんなこと関係ないほど幸せに暮らすだろう。
ああぁぁー!!
桃の中の心が、叫びたいほど激しく揺さぶられた。
恋の壊れた悲しさと、父の愛情の深さと、そんな父を幸せにしたいと願う弟の心情が、全部いっしょくたに桃の中で混ざり合ったのだ。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、謝っていいのか、どうしたらいいのか分からなくなる。
ただ。
ダバダバと涙が溢れた。
身体中の水分が、目から飛び出して行くんではないかと思うほど、滝のように涙があふれ出したのだ。
わあわあと子どものように泣きながら、弟に腕を引っ張られて家まで帰ってしまった。