恋の結末(前編)
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『日差し亭』
昼は食堂、夜は酒場と宿屋。
大通り沿いではないし、入ったことはないが、桃は場所は知っていた。
兵士がよく出入りをする酒場なので、噂だけは道場でも聞くことが出来たのだ。
夜、しかも酒場。
男は普通に入ることが出来るが、女が一人で入るところではない。
だが、桃は既に港町でやったことがあった。
息を整えて、ざわつく音が溢れる扉を開く。
久しぶりの騒がしさだ。
人のしゃべり声、酔った男の大きな声、食器のぶつかる音、椅子がギイギイきしむ音。
新しく入って来た客など、普通は誰も気にとめやしない。
だが、女だということが分かると、奇異の視線を投げてくる。
まだ、遠征組が帰ってきていないので、道場の知り合いの顔は見当たらなかった。
そして、カラディの姿もない。
カウンターへ近づくと。
「お嬢さんが何用で?」
店の主人は、上から下まで桃を眺めた後、腰の刀で一度視線を止めた。
都の人間なら、それである程度は理解してもらえるだろう。
「無精ひげの男が泊まってませんか?」
「ひげねえ……二人くらい泊まってるけど…他に特徴は?」
宿泊に、名前はいらない。
部屋が開いていて、金さえ前金で払えばだれでも泊まれるのだ。
だから、宿屋の人間に名前を言っても無意味だった。
桃が、言葉を考えあぐねていた時。
二階から下りてくる靴音があった。
見上げる。
宿屋の主人に、説明する手間がはぶけた。
カラディだった。
※
顎で、呼ばれる。
上がってこいと。
カチンとした。
桃は、逆に顎でテーブルを指す。
下で話しましょうと。
宿屋とは言え、女を部屋に誘うなんて良くないことだ。
そんなことは、テイタッドレックと関係ない基本倫理レベル。
これだけ多くの目撃者のいる中、そんな恥ずかしい真似は出来なかった。
そのまま、階段ごしに睨みあう形になった。
桃は、確かに手紙を見てやって来たが、何もかもカラディの思い通りになる気なんてない。
はぁとため息ひとつ。
びくとも動かない桃に、ようやく折れた男が階段の残りを下りてくる。
「見張られてんだよ……それくらい知ってるだろう?」
すれ違いざま、チクリとやられた。
「悪い事しなきゃ、捕まったりしないわよ」
彼の後ろからチクリとやり返す。
カラディは一度足を止め、それから何とも複雑な表情で振り返った。
「お前さんが、いかに能天気に生まれ育ったかってのがよく分かるねぇ」
理不尽の少ない国に住むと、人は楽天家になるのだろうか。
理不尽の多い国から来た彼には、それが大きな違和感に思えるのだろう。
複雑な顔を前に向けると、彼は端の空いたテーブルについた。
向かいに座る。
「飲むか?」
「飲みません」
固い桃の壁に、カラディはつまらなそうに、店の親父に適当に自分用の酒と料理を注文している。
「部屋にも来ない、酒も飲まない……一体、何をしに来たんだ?」
ひどい聞き方をされた。
「あなたが来させたんでしょう?」
あんな手紙をよこしたのは、この男ではないか。
「何処にも来て欲しいなんて書いてないだろう?」
「じゃあ、あの手紙は何だったの?」
「何って……どう見ても、別れの挨拶だろう?」
「私にはそう見えなかった」
固い言葉の平行線。
向こうの線の上を歩くのは、カラディ。
こちらの線の上を歩くのは、桃。
「それは……お前が俺を好きだからだろ?」
「好きだったら、何だというの?」
そんな言葉を認めたって──平行なことには、変わりがなかった。
※
売り言葉に買い言葉のように出てきた答えを、何故カラディは驚いた顔で聞いているのか。
桃は、自分の中でもやもやしているものに、きっちり名札がついてスッキリしたというのに。
好きだったら、何だというのか。
泣いてすがって、行かないでと言って欲しいのか。
それとも、全てを捨てて一緒に行って欲しいのか。
ふざけないで。
桃は、怒っていた。
どれほど、この男のことを心に留めていただろう。
首を絞めるように巻き付くユッカスの縄にもがいていた男が、本当に自由になることを、桃は望んだのだ。
そうあって欲しいと祈った。
そうありたいとこの男も思ったからこそ、反逆したのではないか。
ただ、どんな見返りも期待しないで願って戦った桃に、こんなくだらない恋愛ゲームをしかけてくるのだ。
あんな男らしくない手紙を出し、酒場で女と言葉遊びをする。
「あなたが命がけで手に入れた自由って……こんなものなの?」
くだらない!
テーブルの下で、向こう側のすねを蹴っ飛ばす。
カラディは顔を歪めたが、知ったことではない。
そのまま、桃は立ち上がろうとした。
これ以上、話す意味はないように思えたのだ。
「待て」
桃の動きに気づいたのか、呼び止められる。
その言葉が。
「いや…待ってくれ」
言葉を変える。
「俺は……まだ」
そらされる目。
「まだ……生まれて初めての本当の自由とやらを……どう扱ったらいいか分からないんだ」
不承不承、紡がれる言葉は困惑に満ちたもの。
生まれて初めて。
この国にはない階層の生まれで、それからずっとずっと誰かの持ち物だったカラディが、初めて手に入れた自由。
それに、心の底から戸惑っているのだ。
はぁ?
桃は、すっかり毒気を抜かれてしまったのだった。
※
本当の自由を知らない人間に、「これが自由だよ」って与えたところで、使い方を知っているはずがない。
カラディは、まさにいまその状態だという。
「本当に自由とやらがこの手にあるっていうんなら、お前を口説いたっていいだろう?」
奇妙な表情を押し隠すように、彼はそんなことを言いだす。
は、はは。
桃は、空回るような笑いが出てしまった。
これは、自由かどうか確認するための、試験のようなものなのだと。
水の中にある石が、本当に踏んでも安全かどうか、足の先でちょいちょいとつついて確認するような行為。
カラディは、彼女を実験台にしようとしたのだ。
馬鹿だなあ。
桃は、心底そう思った。
彼女にだって、自由はある。
その自由の中には、『断る自由』があるのだ。
自由だからといって、カラディの希望が全て叶うという訳ではないというのに。
そんな簡単なことさえ、あの彼が分からないでいるのだ。
そんな二人の間の微妙な空気に割って入るように、豪快に食事がテーブルに並べられる。
量を重視した料理。
ここに、兵士が多く集まる理由の一つだろう。
「自由になる前だって、口説けたでしょ」
そこまで、ユッカスが制限していたとは思えない。
しかし、桃の考えは浅はかだった。
「イーザスが、どうなってたか知ってるだろ?」
彼の出す具体例は、桃をひどく納得させたのだ。
ああ、そうだった、と。
イーザスは、ある意味テテラを人質に取られていた状態で。
もし、カラディが本気で女を口説いたとしても、結局弱みとして使われるだけ。
だが、同時に桃は苦笑もしていたのだ。
「私が……弱み?」
伯母とユッカスに襲いかかった女を捕まえて、おかしなことを言うものである。
「ほんと……しぶとい女だな」
その点についてだけは、カラディも同意したようだった。
※
「ともかく……せっかく椅子に座ったんだから、口説かせろよ」
テーブルに片ひじをつき、彼は桃の方へと上半身を乗り出してくる。
普通の恋の駆け引きをしかけた鼻から、彼女が蹴り飛ばしたため、カラディはすっかり調子が狂っているようだ。
口説く、かぁ。
桃は、軽く天井を見上げた。
彼は、本当に自分のことが好きなのだろうか。
その点について、信頼できる点を見つけるのは難しく思えた。
「私が、死ねばいいって言ったよね?」
彼に言われたことで、おそらくこれが一番傷ついた言葉だろう。
桃の存在そのものを、否定するもの。
「あれは……」
まいったな。
渋い顔になったカラディが、手元の酒をあおった。
「俺は……夢なんか見たくなかったんだ」
まずい酒への感想を言うかのように、彼は言葉を吐き出す。
「だから、お前なんか見たくなかった」
カラディにとっての、夢とは何だろう。
そんなの、決まっている。
本当の自由を手に入れることだ。
そんなもの、死ぬまで手に入ることはないのだと、きっと彼は思っていた。
なのに。
異国人の勢力図を、変えようとする人間たちがカラディの目の前に現れる。
彼は、その瞬間、夢を見ようとしたのか。
希望の光を見つけた気がしたのか。
その希望は、とても頼りないものに見えただろう。
決して、叶うことはないもの。
そんな希望なら、見ない方がマシだ。
ないほうがマシだ。
だから、こんな女などいなくなってしまえばいいと。
それほど、目ざわりだったのだ、自分が。
彼の心の流れが見えた気がして、桃は薄く微笑んでいた。
「カラディ……私のこと、好き?」
問いは、その微笑みと共に。
何かの気配が、もうすぐそこまで来ている気がした。