戻りゆく日常
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「ヒセちゃん……どうぞよろしく」
桃は、褐色の肌の愛らしい赤ん坊をそぉっと抱き上げる。
はっきりした目鼻立ちの、いかにもテルとオリフレアの子だった。
全身打撲で寝込むこと半月。
ようやく、動けるようになった彼女を待っていたのは、オリフレアの出産の知らせだった。
女児とは言え、イデアメリトスの第一子だ。
本来であれば、桃のような人間が近づけるはずがない。
しかし、太陽妃のはからいで、そこから更に半月ほど後であったが、宮殿に招待されたのだ。
その間に、戦いに出ていたテルから付けられた名前だけが先に都に戻ってきたのである。
「異国人から、この国を守ったそうね」
東翼妃ことオリフレアは、赤ん坊を愛でる客にはもう辟易しているようで、ソファからこちらに視線を投げながら、この国の極秘事項をいきなり突きつけてきた。
ヒセを抱く手が、一瞬驚きで震えてしまう。
「そんな大層なことはしてません」
思い出すだに、ひどい夜の出来事だった。
向こうは、モモをただ憎んでいた。
その憎しみを伴う攻撃に、対処しただけだ。
しかも、イデアメリトスの太陽が来てくれたからこそ、あれだけきっちりとした結末を迎え、事後処理も出来たのである。
桃など、最後まで意識を保ってもいられなかったのだから。
「ああ、あなたは釣り餌だったわね。いい餌の役目だったわ」
ほめ、ているのだろうか。
最初に会った時から、非常に棘のある人だったが、それはいまもさして変わらないようだ。
微妙な空気の中、ノッカーが鳴らされる。
太陽妃が来たという。
「ああ……そう」
オリフレアは、うんざりした声を出した。
「お邪魔いたします……あら、桃ちゃん」
にこにこと上機嫌の太陽妃は、自分に軽い挨拶を投げるや、その腕に抱かれるヒセの元へとすっ飛んで来た。
「こんにちは、ヒセちゃん。おばあちゃんですよ」
とろける笑顔を浮かべる彼女は、誰が見ても間違いのない──孫煩悩な人だった。
※
宮殿から出たところに──エインが立っていた。
あの夜以来、弟はすっかり過保護になっている。
またいつ、桃が爆弾に吹っ飛ばされるのではないかと心配してくれているのだ。
もう平気なのになあ。
困って苦笑が出るものの、断るのはもはや無理であることも分かったので、好きにさせている。
そのうち、エインは領地に帰ってしまうのだ。
それまでの、姉弟水入らずの時間だと思えば、幸せなことではないか、と。
町は、楽しげな空気に包まれている。
浮足立つ気配が、そこかしこに潜んでいて、人々は本当にうれしそうに笑う。
月討伐が成功したことが、既に町中に広まっているからだ。
遠征組が帰ってきたら、凱旋祭が行われるという。
太陽の栄華が、これでまた更に続くだろうし、それにより人々は安定した生活を送ることが出来る。
異国人の強硬勢力が排除されたこともまた、一般には知られてはいないが、この国の栄華の助けとなるだろう。
異国人。
桃は、ふと思考を流してしまった。
あの夜、カラディがいた。
それきり会ってはいないが、少なくとも彼は太陽により放免されたはず。
カラディは──自由になっただろうか。
彼の望むように、好きなように生きているだろうか。
「モモねぇさん!」
雑踏の中から、少年が飛び出してくる。
剣術道場の門下生だ。
背の高い姉弟が歩いているのだから、遠目から見つけやすかったのだろう。
結構な距離から走ってきたのか、息があがっている。
「モモねぇさんに渡してくれって」
差し出されたのは、手紙。
宛名は書かれているが、差出人はない。
「どんな男だ?」
桃の問いかけより、エインの方が速かった。
しかも、なぜ『どんな人』ではなく、『どんな男』なのか。
「んー、無精ひげの生えたおっちゃんだったよ」
屈託のない、分かりやすい回答。
誰かなんて、考えなくてもすぐに分かった。
※
エインは、とても不機嫌になっている。
さっきの手紙を、桃が開けることなく懐にしまったのを、睨みつけるような目で見ていた。
弟は、異国人の勢力として、イーザスには会った。
ロジアにも会っている。
しかし、カラディには会ってない気がする。
どんな人か分からなければ、ここまで不機嫌になりようもないはず。
「もしかして……カラディって人……知ってる?」
まさかね。
そう思って聞いた言葉は──なおさらエインの口の端を下にひん曲げた。
あちゃああ。
桃の預かり知らないところで、弟はあの男に会っていたのだ。
どんな失礼なことを言ったんだろう。
彼のよく回る口のことは分かっているから、エインの気分を害することを言ったに違いない。
「ごくたまに……うちに出入りしていた男だ」
その不機嫌な唇が、意外な言葉を紡ぐ。
「え?」
この場合の『うち』とは、テイタッドレック家のことだろう。
そういえば、出会った頃にカラディは自分のことを、その家の人間と似ているとか何とか言っていた気がする。
「学問好きの貴族の要望を叶えるため、うちの領地で採取などをする許可を取ったりしていた」
その当時は、カラディはまだ祖国に捕らわれていたから、おそらく情報収集に入ってきていたのだろう。
ついでに、領主とその一族の様子を確認しておこうと思ったのか。
「私は、その時からあの男のことは、好きにはなれなかった」
ビシャリ。
ことさら、語気を強めたわけではないが、容赦のない言葉の切り方だった。
相当に嫌われているようだ。
桃には。
忘れられない、彼の目がある。
自分が、日本人の血を引いていると聞いた時の、カラディの目。
違う国から来たというのに、あの一瞬、彼はこんな目をしたのだ。
『会いたかった』
この国に馴染むことが許されない自分の身の上を、何も感じていなかったはずはない。
だから、少し違う自分に近づいてきたのかもしれない。
懐の中で──ただの手紙が、ほんの少し温度をもった気がした。
※
「トーおじさま!?」
武の賢者の屋敷の前で、白い髪の男を見つけて桃はとても驚いた。
いるはずのない人だったからだ。
遠征組が帰ってくるには早過ぎる。
「元気になったようでよかった、モモ」
トーは、嬉しそうに目を細め、桃を抱き上げる。
あ、いや、その、弟が見てる!
昔と変わらない子ども扱いのその態度に、恥ずかしくなってしまう。
「私は元気にな……あ!」
話をしている途中で、トーに怪我のことが伝わっていたことに気づいて桃は言葉を止めた。
まさか、と。
「おばさまのために?」
桃は、屋敷を見上げていた。
彼女の怪我が伝わったなら、もっとひどい伯母の怪我のことも当然伝わっているはずだ。
遠征組の中には、リリューも伯父もいるのだから。
「……もう大丈夫だ」
ぽんぽん。
大きなトーの手が、桃の頭をなでる。
そんな子ども扱いさえ忘れるほど、彼女の頭は喜びでいっぱいになった。
重傷だった伯母は、太陽の計らいでその命をつなぎとめ、身体もある程度回復をすることが出来た。
ただ。
桃は、駆け出していた。
トーも弟も振りきって、扉を開け、階段を駆け上がり、伯母の部屋をノックするのも忘れて開けてしまった。
「桃」
礼儀に厳しい母の声が飛んだが、そんなことどうでもよかった。
伯母はベッドの端に腰かけて、長い間寝ていて少し細くなった足を、ぷらぷらと揺らしている。
「さすがは、トーだな」
伯母が、こちらを見てにやっと笑う。
よ、かった。
足が。
動いている。
つねろうがつつこうが、痛みさえ伝えることのなかったその足は。
もう一度、伯母のものとなったのだ。